--第37話 凍て血の将軍バルデン
氷の塔の奥――
空気は凍りつくほど冷たいのに、そこに漂うのは灼熱にも似た殺気だった。
バルデンの双剣が、低く唸りを上げる。
刃に刻まれた紅い紋が脈動し、まるで生き物のように光を帯びていた。
「貴様が〈七人目の英雄〉か。あの英雄どもに連なる者だというのか。」
低く響く声が、壁に反響する。
ハルヒは答えなかった。
ただ、雪の上に足を滑らせることなく立ち、剣を構える。
「……俺はただ、仲間を取り戻しに来ただけだ。」
「ふん。ならば通すわけにはいかんな。
この地に足を踏み入れた時点で、貴様は“狩る側”ではなく“獲物”だ。」
バルデンの笑いが低く響く。
瞬間――赤い閃光が奔った。
その速さは、視線で追うことすら困難だった。
斬撃が空間を裂き、氷壁を粉砕する。
ハルヒはその中を滑るように転がり、寸前で回避した。
衝撃が背を掠め、壁が爆ぜる。
「……速い!」
彼は息を詰めながら剣を構え直す。
バルデンは一歩ずつ、確実に間合いを詰めてくる。
重い。動くたびに空気そのものが押し潰されるような圧迫感。
単なる力の差ではない。
――戦場を支配する者の“呼吸”だった。
「この双剣、血を喰うごとに速く、鋭くなる。
人間一人の命で、果たしてどこまで飽きるかな?」
バルデンが跳ぶ。
閃光。氷床が砕け、白い破片が宙を舞う。
ハルヒは瞬間的に思考を切り替えた。
時の流れを――ほんの少し、押し止める。
(動きを止めるな。見極めろ。)
周囲の動きが、わずかに鈍る。
バルデンの剣筋が見える。
その軌道を、刃先で受け流す。
火花が散り、腕に痺れが走った。
骨が軋む。だが踏みとどまる。
「……っ!」
踏み込み、反撃。
ハルヒの剣が脇腹を掠める。
赤黒い血が弾け、氷の上に落ちた。
バルデンの動きが、一瞬だけ止まる。
「貴様……人の身で、時を弄ぶか。」
その声に、ハルヒの胸が微かに震える。
「弄んでるわけじゃない……ただ、守りたいだけだ。」
「守る、だと? その言葉を、この地で口にするとは――滑稽だ。」
バルデンの目が赤く光る。
次の瞬間、彼の足元から黒い魔力が噴き上がった。
氷が溶け、床が歪む。
〈血界陣〉――自身の生命力を燃料にした禁呪。
この空間そのものが、敵の領域へと変わる。
「……やばい。」
足元から魔力が絡みつき、身体が鈍る。
反応が遅れる。
バルデンの刃が首筋を狙う――!
その瞬間、
――時が止まった。
いや、“止まったように”感じた。
ハルヒの瞳の中で、世界が歪む。
流れる血の滴、砕ける氷の粒、すべてが遅く見える。
彼の全神経が、ひとつの瞬間に凝縮されていた。
(止まれ……今だけでいい。)
彼の足が動く。
“時間を止めた”のではない。
“自身を加速させた”のだ。
世界が遅く見えるほどの集中――限界を超えた身体制御。
ハルヒは空を裂くように跳躍し、バルデンの胸に剣を突き立てた。
「――っぐぅぅぅ!」
バルデンの体がのけぞる。
黒い血が噴き出し、氷床を焦がす。
だが、倒れない。
その双剣がなおも動く。
「面白い……人間……! その目……まるで、時を見透かすようだな……!」
ハルヒの瞳が一瞬だけ揺れた。
確かに――何かが見えた。
敵の動きの“先”が、かすかに。
(これが……俺の、限界を超えた感覚……?)
意識が遠のく。
過剰な集中が、脳に焼け付くような痛みを残していた。
だが、止まらない。
リィナが待っている。
その想いが、全てを繋ぎ止めていた。
最後の一撃。
ハルヒは全身の力を込めて剣を振り下ろす。
白光が走り、闇を裂いた。
「――終わりだ!」
バルデンの剣が弾け、双刃が氷床に落ちた。
巨体が崩れ、重い音を立てて倒れ込む。
黒い霧が身体から溢れ、氷壁を染め上げていく。
沈黙。
息を荒げるハルヒの耳に、風の音が戻ってきた。
全身が重く、腕が震える。
だが――その先に見える扉。
淡い光が漏れている。
「リィナ……」
彼は剣を杖にして、歩き出した。
扉を押し開けると、そこには鎖に囚われた少女がいた。
長い銀髪が光を反射し、微かに唇が動く。
「……ハルヒ?」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが弾けた。
「間に合った……」
彼は足元をふらつかせながらも、笑った。
リィナの頬に触れ、その鎖を断ち切る。
氷の欠片が落ち、静かに音を立てた。
――その音は、まるで戦いの終わりを告げる鐘のようだった。




