--第36話 闇の砦に潜む刃
雪を噛む風が、砦の中庭を渡っていく。
吹き荒ぶ音の向こうで、灯のひとつもない暗闇が広がっていた。
ハルヒはその闇に溶け込むように、足音を殺して進んでいた。
崩れた城壁の裏を抜け、氷に覆われた回廊を滑るように渡る。
石畳の隙間には、かつての戦火の跡――黒く焦げた剣の破片が突き刺さっていた。
レヴナ・フォート。
人と魔の最前線として築かれ、そして滅びた城塞。
今は魔族の要塞として息を吹き返し、再び血の匂いを孕んでいる。
「……まるで、時間が止まったみたいだ。」
ハルヒは息を潜めながら、呟く。
風の音すら、何かを恐れているように静まっていた。
リィナの微かな魔力の残響が、砦の奥――礼拝堂の方角に漂っている。
そこへ辿り着くまでに、巡回の魔族が三隊。
どれも下級の兵とはいえ、正面から突破すれば警報が鳴る。
「……やるしかない。」
腰の剣を抜く。
銀の刃が、月光を反射して淡く光った。
ハルヒは手首をひねり、雪面に反射する光を遮るように布を巻きつける。
そして、影のように駆けた。
最初の一隊――槍を持った魔族兵が二名。
雪上に立つその足音を読んで、ハルヒは背後から滑り込む。
喉元に一閃。
刃は音を立てず、ただ冷たい光だけを残した。
もう一人が振り返るより早く、拳が鳩尾に突き刺さる。
息が漏れ、声にならない悲鳴が雪に消えた。
倒れた兵を抱え、壁際に隠す。
その手際は、まるで影のように静かだった。
「……次は南門の監視台。」
彼の視線の先、崩れた塔の影に赤い魔灯が灯っている。
そこに見張りが二人。
ハルヒは呼吸を整え、塔の裏側の氷壁をよじ登った。
掌に食い込む氷の冷たさも、もはや痛みではない。
ただ――心の奥にある焦りだけが、鼓動を速めていた。
(リィナ、無事でいてくれ……)
彼は塔の縁に身を乗せ、上から飛び降りる。
ひとりの兵の口を手で塞ぎ、もう一人の喉を短剣で裂いた。
血の代わりに黒い霧が立ち上り、空気がわずかに歪む。
倒れた魔族を見下ろすハルヒの瞳は、鋼のように冷たかった。
「……礼拝堂は、あの中央塔の奥か。」
視線の先――砦中央にそびえる黒い塔。
氷のように滑らかな壁面、幾重もの防護結界が張られている。
その塔の下層から、確かに感じた。
リィナの気配。
それは弱々しく、けれど消えていない。
まだ、生きている。
その瞬間、彼の足が止まった。
空気の流れが――変わった。
気配がある。
「……そこか。」
背後の影から、低い唸りが響いた。
漆黒の鎧を纏った獣型の魔族――〈影獣兵〉。
バルデンの直属の暗殺部隊。
通常の兵とは比べものにならない速度と嗅覚を持つ。
影が跳んだ。
ハルヒは反射的に身を翻し、刃を構える。
閃光が走り、雪煙が舞った。
鋭い爪が頬を掠め、血が一滴、雪に落ちる。
「チッ……!」
もう一撃。
速い――が、見える。
時の力が、無意識に発動していた。
世界がわずかに遅れて見える。
ハルヒはその一瞬に踏み込み、刃を振るう。
「斬る!」
閃光。
影獣兵の首が飛び、黒い霧とともに霜の上に崩れ落ちた。
呼吸を整え、血を拭う。
だが、その静寂の中で――塔の奥から、低く響く声があった。
「……来たか、人間。」
凍てつく空気を裂くように、重厚な扉が軋む。
中から溢れ出すのは、濃密な魔力の波動。
ハルヒの肌が粟立つ。
「一人で来るとは、実に愚かだ。だが――勇敢だな。」
〈血刃のバルデン〉。
その声だ。
リィナを囚え、彼を誘うために築かれた罠の主。
塔の奥――その闇の中から、巨躯が歩み出る。
紅い眼。
漆黒の双剣。
鉄をも断つ闘気が、氷壁を震わせる。
「女を返してもらう。」
ハルヒがそう告げた瞬間、バルデンの口元に嗤いが浮かぶ。
「返すだと? ならば証を立ててみせろ――この刃でな!」
次の瞬間、爆風が走る。
氷が砕け、光が散る。
闇の砦が震えるほどの一撃。
その中で、ハルヒは一歩も退かずに構えていた。
「……俺は、誰も失わない。」
瞳が燃える。
剣を握る手が、確かな熱を宿した。
彼の戦いはまだ終わっていない。
そして――リィナを救い出す、その瞬間までも。




