--第32話「氷雪の牙 ― 北方前線③ 」
――夜明けはまだ遠い。
北方戦線の空は、鉛色の雲に覆われ、雪は止むことなく降り続けていた。
風の唸り声と、遠くで響く金属音が、戦場全体を不気味に震わせている。
「……魔族の動きが変わってる」
ハルヒは薄暗い雪嵐の中で、時計の針に触れた。
時の鼓動が、微かに震えている。
敵はもはやただの氷雪の獣ではない――
彼らの中には“氷牙族”と呼ばれる上位魔族が混ざり、戦線に知性を持ち始めていた。
「後方の補給路を狙ってきてるわね……ユグノア、どう見る?」
通信魔法越しに呼びかけると、低く落ち着いた声が返る。
「敵は我々の補給拠点を断ち、長期戦に持ち込むつもりだ。
だが、それはこちらの得意分野ではない。――彼らは冬に強い」
ハルヒは一瞬目を閉じた。
風が頬を刺す。だが、その痛みが彼女を目覚めさせる。
「じゃあ、短期決戦に切り替える。ガルド、左翼を押し広げて!」
「了解だ!」
獣人戦士ガルド・ベルムが吠えた。
その咆哮は戦場を震わせ、味方の士気を瞬時に高める。
氷に覆われた大地を踏み砕きながら突撃し、雪煙の向こうで氷牙族の群れと激突。
「この程度で俺たちを止められるかよ!」
鈍い音と共に、戦斧が魔族の鎧を砕く。
雪が血に染まり、霧のような赤が吹雪に溶けて消えていく。
彼の背後から、ミリアの光が広がる。
「傷はすぐ癒えるわ、ガルド。無茶しすぎないで!」
「へっ……これくらいで止まるタマじゃねぇ!」
彼らの奮闘を視界に収めながら、ハルヒは高台の指揮塔から戦場全体を俯瞰していた。
雪上に展開する魔族軍はおよそ三千。
対する人間軍は千五百。数では劣るが、ハルヒのスキル《戦術同期》とユグノアの戦略指揮がその差を埋めていた。
「中央に隙が生まれる……!」
ハルヒは手を伸ばし、時計の針を回す。
世界がわずかに歪む。
時間が――一瞬だけ、加速する。
周囲の雪が凍りついたように静止し、次の瞬間、彼女の部隊がその間を駆け抜けた。
兵士たちの足音が二重に重なる。
時間を制御することで、敵の“動きの予兆”が見えるのだ。
――だが、代償もあった。
体内に流れる魔力ではない“時の衝撃”が、神経を焼くように痛みを走らせる。
(……まだ、いける。これくらいで止まれない……!)
時計の針が微かに狂い、雪原の風景が滲む。
ハルヒは歯を食いしばり、指揮を続けた。
「全隊、前進――! ここで押し切る!」
前線ではガルドが氷牙族の隊長と対峙していた。
その姿は獣のようでありながら、瞳には理性が宿る。
「人の勇など、雪に消える幻だ」
冷たい声を放ちながら、氷の槍を振り下ろす。
ガルドはそれを両腕で受け止め、氷の破片が腕に突き刺さる。
だが、そのまま笑い、血を流しながら叫んだ。
「幻でもいい――この拳で、仲間を守れるならなッ!」
全身の筋肉が弾ける。
戦斧が唸り、氷牙族の槍を粉砕。地響きのような一撃が雪原を割り、敵の鎧を粉砕した。
遠くでユグノアが冷静に状況を分析する。
「左翼が突破されたが、中央は優勢。……ハルヒ、ここが勝負どころだ」
「分かってる!」
時計の針が再び震える。
ハルヒの瞳に、かすかな光が宿る。
“千年時計”――時の刻印が、彼の背に形を取る。
その瞬間、雪原を覆う風が一変した。
――世界の流れが、彼に従う。
敵の動きが遅く見える。雪の一粒が空中で止まり、戦場のすべてが“静止した”かのようだった。
「今だ、全隊突撃――!!!」
声が凍てつく空に響く。
その瞬間、雪煙の向こうから味方の部隊が一斉に走り出す。
剣と槍が交錯し、光と影が雪の上で交わる。
ミリアの治癒魔法が光の道を描き、ガルドの咆哮がそれを貫いた。
セリア率いる弓部隊が一斉に弓を射る。ユグノア
の戦術命令が連鎖し、全軍が一糸乱れぬ動きを見
せる。
そして――敵の氷牙族が一斉に後退を始めた。
「……退いていく?」
「いや、違う」ユグノアが眉をひそめる。
「これは撤退ではない。氷牙族の“王”が動き出した合図だ」
雪嵐の向こう――山岳の彼方に、巨大な氷の竜の影が現れる。
その眼光は凍てついた蒼。
凍る風が戦場を舐め、兵士たちの身体を一瞬で凍らせそうな冷気が流れ込んだ。
ハルヒは震える息を吐く。
「……次は、“本当の戦い”だね」
凍てつく世界の中、時の刻印が揺らめき、時計の針が静かに音を立てる。
刻まれるのは――英雄たちの覚悟。
北方前線、最大の激戦が幕を開けようとしていた。




