--第94話 北壁山脈断崖-ガルド=ベルムの残影
雲を裂く風が、断崖に横殴りで吹きつけていた。
北壁山脈――大陸を南北に切り裂く、白鋼の壁。
その名の通り、岩壁のほとんどは金属質の光沢を帯び、陽光を反射させながら天へ突き刺さっている。
中腹に刻まれた峡谷は、風だけが通い抜ける孤絶の領域だった。他の生命の気配はなく、
風の音だけがまるで古い記録を囁くように断崖のあいだを行き交う。
学院への報告と再調査の準備を整えたのち、
ハルヒとセリナは封印の導き――風鳥の光に導かれ――この地へ踏み入った。
足元の岩肌は絶え間なく崩れ落ち、
細く削られた道は、片側が巨大な空白へと開いている。
雲海のうねりは、深い海のようにも見えた。
まるで世界の縁に立っているかのような感覚だった。
「……ここで間違いないわ。風鳥はこの断崖の“下”を指していた」
風を読みながら、セリナが慎重に一歩を運ぶ。
彼女の髪が風で乱れ、光を帯びた銀糸のように揺れた。
「うん。あれ……多分、封印碑だ」
ハルヒが指差した先――
断崖の壁面に、自然の削れとは明らかに違う
滑らかな柱状の岩肌が浮かび上がっていた。
近づくにつれ、淡い光が鼓動のように明滅し、
刻まれた古代語が風に反応するかのように震えている。
ハルヒが手を伸ばした――その瞬間。
風が逆流した。
峡谷の空気が巻き戻るような感覚。
砂の粒子が逆巻き、周囲の空間が歪む。
「……っ!」
セリナの声が、遠く聞こえる。
光の粒が集まり、一体の“人影”を形づくっていった。
鎧。
巨躯。
背に担ぐ戦斧。
六英雄、《ガルド=ベルム》。
しかし――顔がない。
頭部だけが砂嵐のように揺れ、輪郭すら保てない。
魂の残滓がうまく形を留められず、時の継ぎ目に引き裂かれているようだった。
残影は風の粒に混じりながら、断続的な声を発した。
『……時……ノ……子……』
セリナが息を呑む。
だが、その声はハルヒにしか届いていなかった。
『時ガ……裂……レル……前ニ……“彼女”…ヲ……探セ……』
「“彼女”…? 誰のこと……?」
問いかけた瞬間――
残影が激しいノイズを発し、風の層が波打った。
『封印……三ツ……崩……レ……タ……時……
時界が……狂ウ……』
言葉が砕け、光が弾ける。
残影は霧散し、断崖に静寂が戻った。
ただ、風音だけが残影の名残を運んでいるようだった。
セリナが肩で息をしながら振り返る。
「……何を言われたの?」
「“彼女を探せ”って。
でも、誰のことかは……分からない」
「ハルヒだけに?
やっぱり、あなたの“時の刻印”と関係しているのね」
その瞬間、風が震えた。
上空を――
巨大な“翼の影”が横切った。
鳥とは思えない、禍々しいほどの巨影。
黒い翼の一枚一枚が刃物のように尖り、
風を切る音が断崖を震わせる。
「……あれ、普通の生物じゃないわね」
「うん。六英雄の時代に生きてた古代の護衛
精霊兵か……
あるいは封印の崩れで呼ばれた何か」
影は断崖奥の洞窟へと消えていく。
残された空気には、重い鉄臭い匂いが残った。
「……行こう。ガルド=ベルムの封印が、この先にある」
「ええ。急がないと……崩壊の連鎖がさらに広がるわ」
ふたりは断崖奥へ続く、古代の石階段へ足を踏み入れる。
風音の奥に――
低く、呻くような声が混じり始めていた。
それは風ではなく、生き物の声でもない。
封印の深層へ――旅はさらに加速していく。




