やっぱりパイは当日焼きが一番おいしい! とある婚約破棄とパイがもたらした新しい婚約の話
性暴力(未遂)の表現があります、注意
「うぇ〜……しけってる……!」
ツァラストラはテーブルの上のアップルパイを見下ろし、銀のフォークで軽く突いた。
サクッと音がするはずの表面が、しなしなと沈む。
前日に焼いたパイは、夜の湿気を吸って台無しになっていた。
「やっぱり、パイは当日焼きが一番おいしいのよね……」
ふぅ、と小さくため息をつく。
その瞬間、ツァラストラの脳裏に、数ヶ月前のあの忌まわしい言葉が蘇った。
――『パイはお見合いの前に仕込んで焼けばいいのだ!』
思い出すだけで顔をしかめる。
元婚約者、デイビッド・オールフォード。貴族社会で名の知れたバカ令息である。
彼とは両親を含めて顔馴染みだったが、親同士の婚約話がまとまりかけ、では実際にお見合いを…というあたりで、いきなりツァラストラの家を訪れ、妙に香水臭い息を吐きながらこう言い放ったのだ。
「お見合いなんて形だけだ。どうせ結婚するなら、もう“焼いて”しまおうじゃないか!」
焼く? なにを? と問い返す前に、彼はツァラストラの手を掴んだ。
要するに「関係を迫った」のである。
「いやぁっ! 何するのよ!」
すると、扉の影でひそひそと囁く声がする。
なんとデイビッドの従者たちが、どうやら命令されてツァラストラを襲う計画を立てていたらしい。
「いやあっ! なんなのよ、これは!」
「君には誰かわからない子供を産んでもらいたいんだ!」
真面目な顔をしてデイビッドは言った。
いくらツァラストラが健康な女性とはいえ、2、3人の男たちに襲われたらひとたまりもない。
「そんなことしたらお嫁にいけなくなるでしょう! 貴方は何を考えてるの!?」
「こんな俺が望まない政略結婚をぶち壊すために決まってるだろう! ああ、なんで睡眠薬がまだきいてないんだ! 3人で意識がない君を可愛がる予定だったのにっ! それでロシアンルーレットみたいに、誰かわからない子供が生まれたら君有責で僕は晴れて、男爵令嬢のエリスと結婚できるっ!」
見れば、ツァラストラの紅茶のカップがデイビッドのものといつの間にか入れ替わっていた。幸い、まだツァラストラは紅茶を口にしていなかったのだ。
「……気持ち悪いわ! いますぐお引き取りいただいて! だれかーーーっ!」
ツァラストラがガランガランと魚市場のように呼び鈴を鳴らすと、すぐにメイド長と執事が飛んできた。
それまでは政略結婚ではあるが、短い時間で仲良くなれるように二人きりで、気を利かせてメイドも席を外してくれていたのだ。
それを逆手に、なんということを考えていたのか、このクソ令息はーー
テーブルに置かれたパイを挟んで、ツァラストラと拘束されたデイビッドは見合っていた。
「この世の中は一夫一妻制です! 法律にも書いてあるし、私は結婚する殿方にしかこの身を許すつもりはありません! あなたの浮気のために、【中身】のわからないパイを前日に焼いて、正餐に持ち出そうとするだなんて……狂気の沙汰よ!」
淑女が選べるギリギリの単語を選び、ツァラストラは顔を真っ赤に怒りをぶちまけていた。
「今日のパイはマクゴナガル産の酸味の効いたチェリーパイ、中身もきちんと保証済み。料理長に頼んであなたが来る直前に焼き上がるように頼んだわ……パイは当日焼きが一番おいしいのよ、デイビッド。前々日に焼こうなんて、料理音痴のすることだわ」
「なんだと! 俺の愛情をパイ扱いするのか!」
「あなたの愛情、湿気てカビが生えてるのよ。それにうちのパイは当日仕込みのおいしいパイなの! 本当は美味しく食べたかったけれど、貴方にはせいぜいこの食べ方がおすすめだわ!」
ツァラストラはテーブルの上のパイを思い切りデイビッドの顔に投げつけた。
バコン! グシャリーーー
パイは、デイビッドの顔面にぶつかると音を立てて盛大に赤い果汁が飛び立った。デイビッドの顔から赤い汁とパイが滴り落ちる。
「……ああ、美味しいパイが台無しだわ」
ツァラストラはパイをお客様にお出しする時は絶対に前日焼きのものを出さないように言いつけている。
「な、な、な、……なんてことをーーー! これは侮辱だ! 僕のパパンに言いつけてやる!」
「女性の尊厳を先に踏み躙ったのは貴方よ。性犯罪が許されるご家庭なら、どうぞご勝手に」
そのやり取りを最後に、デイビッドは怒って屋敷を飛び出していった。
「あんなことして大丈夫かしら…」
オロオロと母が慌てている。デイビッドはツァラストラの家より家格が上なのだ。
「……私は襲われたのよ。私が性犯罪者に襲われても身を守れないのならば、世の中の女性すべてがデイビッドの敵になるわ」
高位貴族だからといって、性犯罪が許されるわけがない。
ツァラストラは先進的な女性学というものを女子学校で学んで知っていたのだ。
「女性の体は女性のものである」と、かつて男の暴力に耐えた女性たちから継承された貴族社会では比較新しい学問である。
「ツァラストラ……相手の義母様からの縁組だったのに、まさかこんなことになるとは……貴族社会は口さがない連中が何を言うかわからない。この事をぼかして伝えたところで、おまえに落ち度があるように言われてしまうだろう」
父も唸っている。
「私は本日をもって、婚約破棄をデイビッド様からされた身です。どうぞ傷ものであることを社交界の皆様にお伝えください。その代わり、デイビッド様の家から慰謝料はたっっっっっっっぷり頂いて」
だが翌日――デイビッドから一方的な婚約破棄の書状が届いた。
曰く、“令嬢ツァラストラは冷たすぎて愛情が通じない”。慰謝料も踏み倒す気らしい。
(なによ、自分の方から婚約破棄と断罪劇を仕込もうとした癖に。しかも、誰かわからない子供を生めと、従者に襲わせる計画まで立てて…冷たい女? 婚前から浮気した挙句、私にまで暴力で不貞を押し付ける男に言われたくないわ)
湿気たパイより、冷めてもサクサクな女でいたいものだ。
それから数日後。
ツァラストラのもとに一人の青年が訪ねてきた。
栗色の髪に落ち着いた灰色の瞳。どこか控えめだが誠実そうな笑みを浮かべている。
「初めまして。兄の……デイビッドの弟、ニコール・オールフォードと申します」
ニコールは深々と頭を下げ、兄の無礼を詫びた。
彼のことは見かけたことがある。
母親は平民出身の愛妾で、認知された三男であったものの、爵位も相続できず、地味な立場にあった。だが、礼節正しく、ツァラストラの話にも真剣に耳を傾けてくれた。
「兄が本当に申し訳ありません。 ……ですが、僕は兄とは違います。パイは、当日に焼いて、二人で一緒に食べるものだと思います」
彼はそう言うと、従者に命じてパイを出させた。
「これは、僕が作ったアップルパイです。バターをたっぷり練り込んで、サクサクなのは保証します」
ツァラストラは思わず吹き出した。
「あなたのお兄様は以前、私が町でアップルパイが食べたいと言った時に「あれは庶民の食べ物だ」とバカにして、食べさせてくれなかったわ」
「兄は他人を見下す癖があって…兄は自分で料理しませんから、料理をする人の立場に立ったことがないのでしょうね」
「あなた、料理のこと分かってるのね」
「ええ、平民出身の母が料理好きで。僕もいつも台所を手伝っていました」
アップルパイは庶民の食べ物だが、貴族だからと言って食べていけない理由はない。
その日に焼いたパイは――
サクッ、ホロッ、ジュワッ。
甘酸っぱいリンゴの香りと、バターの香ばしさが部屋いっぱいに広がった。
アップルパイはデイビッドがバカにする庶民的な食べ物だが、ツァラストラが大好きなものだ。
ああ、これだ。
これこそ“当日焼き”の幸福の味。
数週間後。
ツァラストラとニコールは正式に婚約した。
彼は爵位も財産もないが、約束の時間を守る男だ。
彼との会話はいつも新鮮で、まるで焼きたてのパイのように軽やかで温かい。
対して、デイビッド?
噂では、別の令嬢の家で“半焼けパイ事件”を起こしたらしい。
「ふふっ……やっぱりパイは、当日焼きが一番おいしいわね」
ティーカップを口に運びながら、ツァラストラはにっこり笑った。
サクサクとした音が、まるで新しい恋の始まりを祝福しているように響いた。
別の方の作品で、「前日焼きのパイにこだわる貴族のお嬢様がキレて暴れる話」を見たのですが、製菓や製パンどこのサイトを見てもパイは焼きたてから劣化していくとあり筆を取らせていただきました。
(喧嘩するわけじゃないですよ、事実ですから)
家で試作品を何個も作ったのですが、やはり水分量や中身を変えたところで当日焼きのパイにかなう味はなかったです。(ガチガチの晩餐だと前日焼きなんですかね、でもブリティッ◯ュベイクオフを見ても、パイを制限時間で仕込んでサクサクにみなさん焼いてますよ…)




