悪役令嬢? いいえ、ただのじゃじゃ馬です!
ふんわり近代ヨーロッパのイメージです。
こんなタイトルですが悪役令嬢要素は、ほぼありません。『悪役令嬢(の話)? いいえ、~』の意味くらいに解釈しておいてください。
澄んだ空の下、青い草原を白い馬がまっすぐ駆けている。
馬の背には、腰を浮かせてまたがる騎手。
均整のとれた細い体を乗馬用のジャケットとズボンに包み、激しくゆれる栗色の髪も一つに結んで、少年のように涼やかな印象を与えるが、間違いなく少女だ。
ユーニス・フェアフィールド伯爵令嬢は愛馬エトワール号と遠乗りの真っ最中だった。
が、白馬はとうとつに速度を落として首をふり、ぶるる、と鳴く。
手綱からの指示を無視して進みだした先には、清らかな一本の小川。
「もう。しかたないわね」
うら若い騎手は苦笑と共に下馬すると、愛馬が鼻先を水面に突っ込むのを見守った。
「来月はいよいよ、あなたのデビューよ、エトワール」
ごくごく水を飲む白馬の長い首を、ユーニスはくりかえしなでる。
「王都で催される国王陛下主催の馬術大会。ここで好成績を残せば、一気に知名度が上がるわ。お嫁さん探しだって、きっとはかどるわよ?」
この国では馬、そして乗馬は国をあげた優雅な娯楽、一大イベントの一つだ。
貴族達は誰もが乗馬を習って、それを高貴な嗜みとし、裕福な者は名馬をさがしてその主人になろうと、情報や伝手をかき集める。
むろん、エトワール号もその中の一頭。
「世話役達は、あなたのこと『とんだ天邪鬼だ』『困った暴れ者だ』って言うけれど。わたくしは信じているわ、あなたは誰よりすばらしい馬よ、エトワール」
体格や身体能力はずば抜けて優れているのに、とにかく性格が気難しくて気まぐれで、世話役や調教師もそろって手を焼いている。それゆえ騎手のなり手がいなくて、いまだ公の大会への出場記録がない。
それがこの白馬に対する世間の評価だったが、ユーニスはこの気難しくて気まぐれで面倒くさいエトワール号が、大のお気に入りだった。
「――――もう来年は、こんな風に一緒に過ごすことはできないのね」
ふいに少女の信頼の笑顔がくもる。
「わたくしも来月、宮廷で催されるパーティーで、正式に第四王子殿下との婚約が発表されるわ。そのあとはもう、ずっとむこうで暮らす予定よ。よほどのことがない限り領地に戻る機会はないでしょうね。厳しいお妃教育のはじまり、というわけ」
ユーニスは肩をすくめた。口調や言葉遣いはやわらかくとも、ズボン姿でそういう仕草をすると、ますます少年めいた印象が強まる。
「向こうに行ったら、やれ作法だの、王子妃らしい立ち居振る舞いだの、窮屈な毎日でしょうね。乗馬は貴族の嗜みだけれど、もうこんなズボンではなくて、スカートでの横乗りしか許されなくなるんだわ」
ユーニスは自分の下半身を見下ろした。
なじんだ乗馬用ズボンは特注の高級品だが、世間や宮廷では女が男のように馬にまたがるのは、はしたない行為とされる。令嬢は上品に淑やかに、横乗りでゆったり進むのが美しいのだ。
王子妃ともなればなおのこと。
「本当はずっと一緒にいたい。王都より宮廷より、このフェアフィールドでお前達の世話をしながら、一生を暮らしていきたいわ」
ドレスより乗馬服を。詩やピアノより乗馬や馬の世話を。
それがユーニス・フェアフィールドという少女の好み。
けれど。
「しかたないわね。貴族の令嬢たるもの、結婚は義務だもの。まして相手は王子様」
本来ならフェアフィールド伯爵家は、王子妃を輩出するにはやや劣る家格だ。けれど現王太后陛下は大の馬好きで、広大な領地に良い牧場をいくつも抱えて、数多の名馬を産出してきたフェアフィールド家は当然、大事なお気に入りの一つだ。
それが高じて孫王子とフェアフィールド家の令嬢との縁談を息子に勧め、国王陛下も「まあ四番目なら」と、ユーニスと第四王子バージル殿下との婚約を整えてしまったのである。
父も親戚も「望外の幸運」と大喜びして、王太后も純然たる厚意からの行為であったが、ユーニスは檻に入れられた気分だった。
「もう、こんな風に思いきり駆けることはないのね」
草原を渡る風に栗色の髪をなびかせ、ユーニスは一人しゃべりつづける。
「せめて、バージル殿下と仲良くできればいいけれど。恋とまではいわなくても、家族として愛情や信頼が生まれれば、窮屈な宮廷だって少しは過ごしやすいでしょうし。それに、もし殿下が下賜された王子領で暮らすようになれば、宮廷よりも自由に過ごせて、乗馬も再開できるかもしれないわ」
満足して水面から顔をあげた愛馬につられて、ユーニスも上を向く。
そんな風に、とりあえずは前向きに考えるのが、ユーニス・フェアフィールドという少女の美点ではあったのだろう。
しかし。
「ユーニス・フェアフィールド! お前との婚約は破棄する!!」
王宮の大広間に怒声が響いて、招待客達の談笑がぴたりと止まる。
名指しされたユーニスはケーキを食べていた手をとめ、きょとんと声の主を見た。
ユーニスの婚約者、バージル第四王子殿下がユーニスに右の人差し指を突きつけている。
左手は金髪美少女の腰に。
手足が長く均整がとれている…………といえば聞こえはいいが、胸部をはじめ全体に肉付きが薄くて、どこか少年めいた涼やかな顔立ちのユーニスとは対照的に、美少女はいかにも頼りなく愛くるしい顔立ちと、不釣り合いなほど豊かに熟れた肉体を備えている。
「国王たる父上と王太后たる祖母上の命令ゆえ堪えてきたが、やはり我慢ならん! 伯爵令嬢ごときに王子妃は務まらぬ! 私の妃には、このグロリア・タナー公爵令嬢こそふさわしい!!」
バージル王子はいっそうぴったりと金髪美少女の腰を引き寄せる。グロリア嬢の豊かな白い胸が王子の胸に押しつけられて潰れ、ドレスの襟からあふれ出そうだ。
ユーニスは半分、状況についていけない思考状態だったが、ひとまず確認してみた。
「婚約破棄と申されますが。国王陛下と王太后陛下はご承知なのでしょうか? わたくし達の婚約は両陛下のご意向によるもの。殿下の一存でどうにかなるものではないと存じますが?」
バージル王子は「ふん」と、得意げに鼻を鳴らす。
「父上にはこれからお伝えする。が、反対はされぬだろう。タナー公爵家は、北の国境沿いに広大な領地を持つ家。北方の脅威が増している現在、第四王子たる私とタナー公爵令嬢たるグロリアの結婚によって王家と公爵家の結びつきが強まるのは、好都合のはずだ」
なるほど、その程度の計算能力はあるらしい。
「お前との縁談は、馬好きのお祖母様が個人的な趣味で勧めたもの。国境防衛のためと言えば、父上もグロリアとの仲を認めざるをえまい。さらばだ、ユーニス。その馬臭い田舎娘面を娶らずに済むと思うと、せいせいする」
言いたいことを一方的に吐き出すと、バージルはグロリア嬢の腰を抱いたまま背をむけ、その場を離れようとする。
そこへ鋭くも涼やかな声が割り込んできた。
「お待ちください、バージル兄上」
バージルと似通ったところのある、けれども、もっと知的な顔立ちと雰囲気の少年が足音高くやって来る。
第五王子セオドアは、ユーニスを庇うように彼女の前に立つと、兄とその恋人を真っ向から非難した。
「黙って見守っておれば、あまりにも一方的な言い様。フェアフィールド嬢の言うとおり、経緯がどうあれ、兄上の婚約は国王陛下が定めたこと。兄上の一存でどうにかなるものではありません。そもそもフェアフィールド嬢に、どのような瑕疵があったというのです」
「瑕疵ならある! そんな馬臭い田舎貴族の娘など、王子妃にはふさわしくない、と言っておるのだ!!」
「この大広間だけでも、王都の外に領地を抱える貴族が、どれほど招待されているとお思いですか? そのような言い方は彼ら全員への侮辱です。王子であればこそ、即撤回なさるべきです。むろん、フェアフィールド嬢にも謝罪を。令嬢にはなんの否もない。それをお可哀そうに、兄上が不実な真似をなさったばかりに、このように大勢の前で辱められて」
「うるさい!!」
弟王子の正論に、兄王子は怒声で反論する。
「そんなにその女が気の毒というなら、お前が拾ってやればよかろう!!」
「むろん、そのつもりです」
バージルが勢いだけで放った言葉に、セオドアはくるりと体ごとユーニスに向き直って、彼女の手をとる。
「ユーニス・フェアフィールド伯爵令嬢、私と結婚してください。このような場で申し出る事柄でないことは承知していますが、私は貴女を守りたい」
「えっ? えっ?」
品よくユーニスの手の甲にキスを落としたセオドア王子の姿に、固唾を飲んで見守っていた周囲からは黄色い悲鳴があがって、高い天井に反響する。
まるで市井の恋愛小説のような流れ。
二転三転する展開に、ユーニスは目を白黒させることしかできない。
かろうじて言葉をしぼり出した。
「父に。父にお話しください。陛下にも。わたくしは、なにも申せません」
親の意向に従って嫁ぐのが貴族令嬢の常識。
であれば、ユーニスにこれ以外の返答はなかった。
『バージル第四王子の婚約者、ユーニス・フェアフィールド伯爵令嬢が、パーティーで殿下に婚約破棄を宣言された』
『フェアフィールド嬢はその場で、第五王子セオドア殿下から結婚を申し込まれた』
噂は三日とかけずに王宮中を駆け巡る。
「神は、まだ我が家を見捨てていない」
フェアフィールド伯爵は執務室で、執務机をはさんで娘と向かい合った。
ユーニスは小さくため息をつく。
「信用なさるのですか? セオドア殿下のお言葉が嘘とは申しませんが、殿下もれっきとした王子。ご本人の一存で婚約を決められる立場でないのは、バージル殿下と変わらぬはずです。だいいちセオドア殿下は、西隣の王女との縁談が進んでいたのでは?」
女のユーニスの耳に届くほど、王宮では公然と語られている話である。
「セオドア殿下がなにをお考えか、どこまで本気かはわかりませんが。下手をしなくても、外交問題です。一介の伯爵令嬢が割り込むなど、正気の沙汰ではありません。娘のわたくしに指摘されるまでもなく、父上が一番よく理解されているはず。どうか早々にお断りください。国王陛下もそれをお望みのはずです」
なまじ本気にうけとって承諾するほうが、一族の没落につながりかねない。
ユーニスの意見は至極もっともであったが。
「では、セオドア殿下の申し出を断るとして。そのあと、そなたはどうするつもりだ?」
フェアフィールド伯爵は厳しい表情で娘に問う。
「そなたがバージル殿下に婚約破棄を宣言された事実は王宮中、いや王都中に知れ渡った。そなたは『いわくつきの令嬢』となったのだ。そんな令嬢を娶って笑い者になりたいと望む、奇特な男が現れると思うか? たんに奇特であればいいわけではない、奇特で、かつ申し分のない身分の男でなければならないのだぞ?」
この状況で身分の低い相手と結婚すれば「あんなことがあったから、あの程度の相手しか見つからなかったのだ」と噂を補強することになる。
「セオドア殿下の申し出は願ってもない好機。いや、唯一にして最後の希望だ。ここでなにがなんでも殿下との婚約が成立せねば、そなたの名誉は一生回復せぬ。結婚など夢のまた夢、行けず後家となってしまうのだぞ!?」
「それも一つの手では?」
「ユーニス!!」
「だってセオドア殿下の求婚を受け容れても、国の外交を邪魔した危険分子として、わたくしとフェアフィールド家が危険視されるだけではないですか。だったら、わたくし一人が行けず後家になって、領地にでも引っ込んだほうがマシでしょう。馬は大好きだし。フェアフィールド家の女子がわたくし一人というわけでもなし、わたくし一人が未婚を貫くことで家が存続できるなら、ささいな犠牲ではないですか。そもそもは、わたくしがバージル殿下のお心を射止めるに足る令嬢でなかったことも、原因ですし」
「…………」
父の眉間に深いしわが寄る。
(セオドア殿下、かぁ)
その深いしわを見つめながら、ユーニスもひそかに内省していた。
正直、セオドア王子に深い印象はない。
婚約者だったバージル殿下の弟。それだけだ。
世間や令嬢達の間では、文武両道で品行方正なセオドア殿下のほうが、圧倒的に人気のようだが(さもありなん、とユーニスも思う)、だからといって即、彼に惹かれるというものでもない。今のところは『可もなく不可もなく』というのが、一番しっくりくる。
けれどその可もなく不可もない王子に頼らなければ、世間の評価は回復できないのだ。
(世間の評価、かぁ)
実際、貴族令嬢にとっては死活問題だった。
例の婚約破棄宣言からまだ数日というのに、ユーニスのもとには、はやお茶会だの夜会だのダンスパーティーだのの招待状が届いて、山を作っている。
みな、事の成り行きに興味津々で、経緯を固唾を飲んで見守っているのだ。
(わたくしの名誉、ね)
たぶん、父の意見が正しいのだろう。
ユーニス・フェアフィールドという令嬢の名誉は今、地に落ちて、回復させるにはバージル殿下以上の夫を得る他ない。
セオドア殿下はその人材にうってつけ、というわけだ。
(でもなあ…………)
ぐちぐち考える。
自分でも何故こうも往生際が悪いのか、気持ちが把握できない。
容姿端麗で文武両道、品行方正なセオドア殿下。
これから好きになる可能性は、じゅうぶん高いはずだ。それなのに。
(なんで、こんなにひっかかるの? わたくし…………本当は、セオドア殿下が嫌いなの? あんなにまっすぐにわたくしを助けてくれて、情熱的に求婚してきてくれた男性なのに…………)
答えも名案も浮かばぬ事態に、父と娘がそろって唸る。
そうこうするうち、例の馬術大会の日となった。
会場は王都近郊にある、王家専用の広い馬場。
この日のために何日もかけて整えられ飾りつけられ、観客席には早々と高貴な客がつめかけ、メイドやボーイが盆を手に、彼らに飲み物や軽食を渡している。
乗馬はもともと貴族の嗜みだが、この国ではその風潮が特に強い。優秀な騎手は花形で、名ばかりの下級貴族だったのに騎手として好成績を残した結果、勲章を授かったり爵位を得たりした、という例も少なくない。
同時に賭け事も貴族の嗜みというか優雅なお遊びだったから、盛装した客達の話題は当然、表彰台の予想だった。
本日の目玉は、なんといっても第四王子と第五王子が出場する最終レース。
通常、王族が出場するレースは、王子に花を持たせるための出来レースとなりやすいため、賭けとしての面白味には欠ける。
だが今回は、可憐な令嬢をめぐって対立する二人とあって、観客はわきに沸いている。
「やはりセオドア殿下だ。剣も乗馬も、明らかにバージル殿下を圧倒している」
「いや。それがバージル殿下は今回の大会のため、王后陛下に泣きついて、最上級の名馬を用意していただいたらしい。それにバージル殿下のほうが小柄、つまり軽量だ。もしかしたら、もしかするかもしれない」
紳士も貴婦人も、馬場を見下ろしながら真剣に話し合う。
空はあいにくの暗い雲だったが、観客席は熱気に包まれていた。
ユーニスも、この大会のために仕上げられた何頭ものフェアフィールド牧場育ちの名馬達の結果を見届けるため、父の伯爵と会場を訪れている。
観客席に向かう前に馬の待機場所に寄り、伯爵は馬の世話係達をねぎらい、騎手一人ひとりにも励ましの言葉をかけていく。
ユーニスも「がんばってね」と馬一頭一頭に声をかけて首をなで、特に大好きな一頭には手ずからニンジンを与えてやった。
「がんばってね、エトワール。あなたなら絶対、勝利をつかめると信じているわ」
愛馬の白い長い首をなでていると、夢を覚ますように不愉快な声が投げつけられる。
「なんと。相変わらず馬臭い女だな」
バージル第四王子だった。最高級の乗馬服に身を包み、片手に鞭を持って、片腕に外出用ドレスを着たタナー公爵令嬢を巻きつけている。露出を控えた外出用ジャケットの上からでも、タナー嬢の胸の豊かさは明らかだ。
「家でさめざめ泣いておれば、まだ可愛げもあるものを。だから、そなたは生意気なのだ。セオドアに求婚されていい気になっているようだが、陛下はそなた達の結婚を認めてはおらぬ。せいぜい田舎に戻って、骨を埋めるがいい」
バージルは「ふん」と鼻を鳴らしたし、彼の腕にからみつくタナー公爵令嬢も「ふふん」とユーニスに侮蔑のまなざしを投げる。
そこへ、さらに別の声が割り込んでくる。
「兄上! またそのような無礼を!」
セオドア第五王子だった。こちらも高級な乗馬服姿だ。
バージル王子は弟に嫌味な視線と声を返す。
「お前もさっさと考え直すことだ、セオドア。父上にも忠告されているのだろう? その女と結婚したら、お前まで馬臭くなるぞ」
侮蔑の笑みを残して、バージル王子は恋人と行ってしまった。
セオドア王子は一度、兄の背をにらむとユーニスに向き直り、謝罪する。
「申し訳ない、ユーニス嬢。兄上には、あとで私からきつく注意しておきます」
「いえ。どうぞ、お気になさらず」
セオドア王子は、きりっ、と表情をあらため、ユーニスに迫る。
「ユーニス嬢。私は今日のレースで必ず兄上に勝ち、貴女の無念を晴らして見せます。そして貴女との仲も、陛下に認めていただきます。私は必ず貴女を幸せにする。私は兄上とは違う、兄上のように貴女を悲しませたり侮辱したりなど、けしてしない。神に賭けて誓います」
十代の若者らしいまっすぐな物言いに、けれどユーニスはひたすら戸惑う。
「お気持ちは大変ありがたいのですが、セオドア殿下は隣国の王女殿下との縁談が進んでいたはず。国王陛下からご忠告をいただいたのでは? バージル殿下がおっしゃっていました」
「まだ縁談の段階です。婚約が成立したわけではない。いかようにもなります」
いかようにもなったら、いけないのでは。そんな言葉を呑み込みつつ、ユーニスは首をふる。
周囲の馬番やら騎手達が、顔はあさっての方向に向けながらも、耳はしっかりこちらに集中しているのが、はりつめた空気から察せられる。騎手の中には貴族もいる。ここでユーニスが下手な対応をすれば、あっという間に社交界中に噂がひろまってしまう。
「いいえ。そのようなことをなされば、セオドア殿下が陛下からどのようなお叱りをうけることか。父も立場がございません。どうぞ、わたくしのことはお忘れくださいませ。殿下のその熱心なお気持ちとお言葉だけで、わたくしの心はこれ以上ないほど救われました」
「なんてことを言うのだ」という風に父が無言でじれったそうに娘を見つめているが、ユーニスはかまわない。
セオドア殿下もかまわなかった。
「陛下は必ず私が説得します。貴女はただ、私を信じて待っていてください、ユーニス嬢」
「殿下は、陛下を説得する算段をお持ちなのですか?」
「そんなもの」とセオドア殿下は笑った。爽やかに。
「陛下は寛容な方です。まして実の父子。真心をもって訴えれば、気持ちが伝わらぬはずがありません」
セオドアはユーニスの手をとった。
「私は貴女を助けたいのです、ユーニス・フェアフィールド嬢。あのパーティーの夜、兄上に侮辱されながらも凛と立つ貴女は、このうえなく気高く、そして頼りなかった。あの時、私はなにをさしおいても貴女を守らなければ、と確信したのです。どうか私の妻に、ユーニス嬢。私が貴女を、兄上からも世間の心無い噂からも守ってみせます」
「噂から、ですか?」
「当然です」
セオドアは声に力を込めた。
「なにも知らぬ下世話な世間が、今回の一件をどれほど面白おかしく騒ぎ立てていることか。今のままでは貴女は一生、社交界の笑い者だ。私は貴女を、そんな哀れな身の上にしたくないのです。私と結婚しましょう、ユーニス嬢。そうすれば不埒な噂など、たちどころに雲散霧消します。貴女の名誉も、私が守ってさしあげられる。今、この国で貴女を守れるのは王子たる私しかいない、そう確信しています」
セオドアの声も顔つきも、語るほどに熱が増していくようだ。
連れていた従者が「そろそろお時間が…………」と主人にささやき、セオドアはもどかしそうに名残惜しそうに、ユーニスの手を離す。
「どうか私の勝利を祈っていてください、ユーニス嬢。そして勝利の暁には、求婚の返事を」
ユーニスは慌てた。
「お返事はできません。どうか殿下、わたくしのことはお忘れください。これは、わたくしの問題です。わたくしの手で対処します。王子ともあろう方が、陛下との間に溝を作ってはなりません。王国の危機にもつながります」
「なにを愚かな」と、セオドアはもどかしそうに訴える。
「令嬢一人でなにができると言うのです。世間は貴女が思うほど甘いものではありません。どうか素直になって私を頼ってください、ユーニス嬢。では」
言うと、セオドアも従者を連れて行ってしまった。
ユーニスは呆然と立ち尽くす。
「嵐のようなお方だったな」
そう感想を述べたフェアフィールド伯爵の声にも、セオドアからの求婚を受けた時の興奮がかなり冷めている。
一人、二人と、騎手や世話係が持ち場に戻って何事もなかったようにふるまい、フェアフィールド伯爵も、
「そろそろ開会時刻だ。席に着こう」
と娘を誘うが、ユーニスは釈然とせず、足が動かない。
脳裏に声が響く。
『私と結婚しましょう、ユーニス嬢。そうすれば、貴女の名誉も、私が守ってさしあげられる。今、この国で貴女を守れるのは王子たる私しかいない、そう確信しています』
『令嬢一人でなにができると言うのです。世間は貴女が思うほど甘いものではありません』
『セオドア殿下の申し出は願ってもない好機。ここでなにがなんでも殿下との婚約が成立せねば、そなたの名誉は一生回復せぬ』
ユーニスの胸に黒い靄が激しく渦巻く。
(わたくしの名誉、ってなに?)
飛び抜けた美質に恵まれたわけではないが、それでも一般的な貴族令嬢として、それなりに努力してきた。ダンスやピアノを習い、文法や外国語、教養を身に着け、パーティーやお茶会に出席しては、作法や立ち居振る舞いに気を遣ってきた。
第四王子との婚約が決まってからは、なおさらだ。
そんな努力の数々も、すべてなかったことになるのだろうか。
ただ、王子に婚約破棄されたというだけで。
(なによ、それは)
苛立つユーニスの内側にふつふつと熱が生まれてくる。
(わたくしは、たしかにバージル殿下に名誉を汚された。世間の評価が地に落ちたわ。でも、それを回復させるにも、同じ王子の力が必要なの? セオドア殿下という、別の王子様の威光を借りなければならないの? わたくしは…………わたくしの名誉は、評価は、王子に選ばれるか否かで決まるの? それがすべてなの!?)
「もう、うんざり!」
思わず声をあげたユーニスに父が目を丸くし、周囲の世話係達もぎょっ、と令嬢をふりかえる。ニンジンをかじっていた白馬が人間の少女に呼応するように一つ、いなないた。
ユーニスの気持ちを代弁するかのように、曇っていた空がさらに暗さを増し、雨が降りはじめる。
雨が降りつづく。しばらく待ったが、やむ気配はない。
だが待ちに待った行事を中止するほどの雨量ではなく、この国の貴族にとって競馬は大事な娯楽だ。
ほどなくして大会の開催が宣言され、第一レースがスタートする。
勝負はなかなかの大荒れだった。
急な雨が馬場の土に浸み込み、あとのレースほどやわらかくなった土が馬の蹄にからんで、普段の脚力を封じていく。
レース結果は番狂わせが連続し、予想を外した観客達の阿鼻叫喚と、雨を呪う声に満ちていく。一方で大穴を当てる客もちらほら出て、大会はいつになく白熱した空気に包まれた。
やがてレースも最終戦を迎える。
今大会最大の目玉である、第四王子と第五王子の対決だ。
観客はぎりぎりまで予想をつづけて馬券を買い求め、胴元も売りさばくのに忙しい。
やがて騎乗した騎手達が馬場に入場して来た。
背筋を伸ばした凛々しい騎乗姿の第五王子セオドア。
第四王子のバージルも様になっている。彼は特に優美でたくましい黒馬に騎乗しており、馬の頼もしさが騎手にまで底上げ効果をもたらすかのようだ。
「これはもしや、大穴でバージル殿下が…………?」
いく人もの観客が不安になり、今更ながら買った券を後悔しはじめる。
最後にフェアフィールド家の悪名高い『暴れ者』、エトワール号が入場して、全頭そろった。
馬達は合図と同時にはじかれたように走り出し、観客もいっせいに身を乗り出す。
まず先頭に出たのはセオドア王子の馬。
そしてバージル王子の黒馬だった。
「セオドア! 今日こそは、貴様に大きな顔はさせんぞ!!」
「兄上! 私は自分の名誉のためだけに走るのではない! 兄上が傷つけた、あの方のために走るのです!!」
激しい蹄の音にかき消されそうになりながら、兄弟二人が怒鳴り合う。
馬が自慢のフェアフィールド家の白馬は調子が悪いのか、最後尾だ。
しかし。
「くっ…………泥が…………!」
「地面がぬかるんで…………っ」
バージルが舌打ちし、セオドアが唇を噛む。
雨は小雨だった。が、止まなかった。
数時間に渡って降りつづけた小雨はすっかり地面に浸透し、吸収され損ねた水は地表にたまって、馬場のあちこちにぬかるみを作っている。
セオドアとバージルの馬はどちらも名馬だったが、濡れた地面のせいで本領が発揮できていないのは明らかだった。
やがて最終コーナーが接近する。
ここにも、ぬかるみ。コーナーの内側に大きな水たまりができており、セオドアはむろん、バージルや後続の騎手達も馬の脚が泥に捕まることを警戒して、コーナーの外側を大きく回る。
回り終えた頃には、バージルとセオドアの二頭が、三頭目以降に数馬身の差をつけて並んでいた。バージルの黒馬が半馬身、セオドアより先に進んでいる。
「私の勝ちだな! 弟のくせに生意気な口を聞くからだ!」
兄が宣言した、その時。
ひゅん、と風の音さえ聞こえそうな勢いで白馬が飛び出すように現れ、王子二人に並んだ。
観客席からも、どよめきがあがる。
「なんだ!? 誰だ!?」
バージルが仰天して叫ぶと、澄ました声が返って来る。
「つい先ほどお会いしたばかりです。お忘れですか?」
「お前は…………!」
バージルが、セオドアが気づいて目をむく。
観客達も次々と真っ白い一頭を指さし、その正体を叫んだ。
「フェアフィールド家の『暴れ者』、エトワール号! それに騎手は…………フェアフィールド嬢!?」
一つに結んだ栗色の髪を激しくゆらして疾走する騎手。
それは間違いなく、フェアフィールド伯爵令嬢ユーニスだった。
バージルは怒鳴りつける。
「何故、お前がここにいる! これは国王陛下主催の大会だぞ!? 女ごときがしゃしゃり出る場ではない!!」
「あら。お言葉ですが、殿下。大会に女が出てはいけない、というルールはございません」
もともと快活な瞳がいっそう活き活きと輝いて、宝石のごとき眩しさだ。
ユーニスは素直に称賛した。
「王妃殿下がご用意されただけあって、すばらしい名馬ですわ、バージル殿下。この雨さえなければ、一等だったかもしれません。種付けの際はぜひ、フェアフィールド牧場にもお声がけくださいませ。それでは」
「待て! 貴様、なにを考えている!? なんのつもりだ!!」
「なんのつもりも何も」
ユーニスは宣言した。
「先日の婚約破棄のお礼です。殿下のおっしゃるとおり、わたくしは馬臭い田舎娘。なによりも馬と、乗馬を愛しているのです。ですから、自分より遅い男には嫁ぎませんわ!!」
言うと、鋭い掛け声とともにさらに愛馬の速度を上げた。
エトワール号の後ろ足が泥を跳ねあげ、黒馬の顔に当たる。黒馬は一気にやる気を失い、速度を落とす。
「貴様っ、この無礼者が! 女の分際でズボンを履いて神聖な大会に出場しようとは、貴様など貴族の風上にも置けない! 婚約破棄は正解だ! 貴様など、貴様など…………!!」
バージルはなおも罵倒の言葉をつづけていたが、またたく間に背後へと流され、ユーニスの耳には届かない。
ユーニスの胸と口元にこらえきれない笑いが込み上げる。
そこへ。
「ユーニス嬢! これはいったい、どういうことです!!」
セオドアが、ユーニスとエトワール号に追いすがりながら訴える。
「私は、貴女を守るつもりだった! このレースで兄上に勝ち、貴女を娶って、貴女も、貴女の名誉もすべて守るつもりでいたのに、何故!?」
セオドアの真剣に困惑する表情に、ユーニスの胸にも一瞬、苦いものが走る。
令嬢は殿方に守られるのが当たり前。
そう信じている彼には一生、理解できない気持ち、価値観かもしれない。
ユーニスだってなにか一つ違えば、それが当然と受け容れていたに違いないのだから。
でも実際には、受け容れられなかった。
だから、しかたない。
ユーニスはせめて彼の真剣さに応えるため、素直に吐露した。
「殿下のお気持ちはありがたいですわ。ですが――――遠慮します!」
「ユーニス嬢!?」
「わたくし、やられたら自分の手でやり返したかったんです!!」
小雨の中、一瞬、夏の太陽より強い輝きを放って。
ユーニス・フェアフィールドは最高の笑顔を第五王子の網膜に焼きつけ、彼と彼の馬を置いて走り去った。
残るコースを一直線に駆け抜ける。
もはや一人と一頭に並ぶものはない。
ユーニスは爽快な気分だった。
「やっぱりあなたは最高よ、エトワール! 誰がなんと言おうと、我がフェアフィールドの牧場が誇る名馬の一頭だわ!!」
騎手全員が大回りして避けた、最終コーナーの大きなぬかるみ。
それをただ一頭、エトワール号だけがものともせずに抜きんでた脚力で突っ切り、最短ルートを走り抜け、先頭の王子達の二頭に並んで見せたのだ。
ゴールが近づく。観客達の悲鳴も。
「来るな」と叫んでいるのだろう、当然だ。
この悪評高い『暴れ者』エトワール号に賭けた者など、そうそういるまい。
「最高ね、エトワール。飛び込みましょう」
主人の言葉を理解したかのように白馬はいななき――――ゴールを突き抜けた。
わっ、と観客達の絶叫があがり、白いなにかが吹雪のように舞い上がる。
馬券だ。
エトワール号が一等になって紙くずと化した大量の外れ馬券が、いっせいに馬場へと投げ捨てられたのである。
観客の中には、紳士の仮面をかなぐり捨てて頭を掻き毟る者あり、気を失う夫人あり、中には貴族らしからぬ罵声を馬場に投げてくる者もいたが、ユーニスはかまわない。
「あーあ。やってしまったわ」
エトワール号の速度を落としながら、ユーニスは白い紙の舞う天を仰ぐ。
「これでわたくしは、行けず後家決定。明日から、縁談なんて一つも来ないでしょうね」
たんに、公爵令嬢に王子を寝取られて婚約破棄された、というだけではない。
今の世の中、女がズボンを履いて馬に跨るだけでもとんだ『じゃじゃ馬』『男勝り』なのに、まして国王主催の馬術大会に出場して、王子二人の面子を潰してしまったとなれば。
ユーニス・フェアフィールドは実質、社交界追放。
誰とも結婚できずに修道女になるか、一生、領地に引っ込んで生きていく他ない。
けれどユーニスの胸に後悔はなかった。
「自分の屈辱なのに、他人の権力に報復を任せるなんて。わたくしは、わたくしに与えられた屈辱は、わたくし自身の手でお返しするわ――――!」
長く空をおおっていた灰色の雲が晴れていく。
「それに」と、馬好きの少女は愛馬に告げた。
「『暴れ者』だの『天邪鬼』だの、人はいろいろ言うけれど。わたくしはあなたが大好きよ、エトワール。あなたは最高の一頭だわ」
少女の絶賛に応えるように、白馬がいななく。
雨上がりの陽光の射す濡れたゴールへ、二等、三等の馬が到着する。
すべてのレースを終え、馬術大会は閉幕した。
最終レースの表彰台。
そこに栗色の髪の少女の姿はない。
『わたくしは名簿には載っていない騎手ですから。ルール違反でしょう?』
少女はそう言うと片目をつぶり、さっさと帰ってしまった。
最終レースの優勝者は反則負け。二位以降がくり上がって、正式な一位はセオドア第五王子。二位はバージル第四王子、三位は四位の騎手が…………と記録には記された。
バージル王子は終始不機嫌を隠そうとはせず、セオドア王子も固い面持ちのまま、わずかな喜びを示すこともなかった。
「すべてがおじゃんだ!!」
執務室で。
フェアフィールド伯爵が娘を叱る。
「セオドア殿下の婚約が正式に決定した、隣国の王女殿下とだ!」
「それはそうでしょうねぇ」
怒られた側の娘は悠然としたものだった。
「五番目とはいえ、王子殿下ともなれば、ご本人だけの意向で結婚できるものではありません。周辺国の状況を考慮しても、妥当な結論では?」
「だが、我が家は名誉回復の機会を失った! これでそなたは一生、行けず後家だ!!」
「おかげで、国王陛下のお叱りをうけることもなかったのでしょう?」
国王やその周辺としては「あんな男勝りで恩知らずの令嬢はやめておけ」と、わかりやすく止める理由ができたのである。
大会のあと。一応、ユーニスは無礼を詫びるていねいな謝罪の手紙を、セオドア殿下に送っていた。が、返事はない。
父も宮廷でセオドア王子と会っても、型通りの挨拶を交わす以外は無視されているという。
「王子たるもの、一時の勢いで伴侶を決めることはできません。殿下ご自身が、誰よりそれを理解されていたはず。殿下にとっても我が家にとっても、これが最善の結果です」
肩をすくめた娘のすまし顔に伯爵はもう一度、怒鳴ってやりたい衝動に襲われたが、脱力したようにどさり、と椅子に身を投げた。
ユーニスはさらに言葉をつづける。
「バージル殿下も、タナー公爵令嬢と正式に婚約が決まったとか。正式な発表は一年後だそうですが、殿下はさぞご苦労されるだろう、と令嬢達の間で噂ですわ」
タナー公爵令嬢グロリア(『名誉』『栄光』の意味を持つ)。
その重々しくも輝かしい名や身分とは裏腹に、身持ちの軽い人柄であることは、噂にうといユーニスの耳にすら入るレベルで、貴族令嬢達の常識である。
婚約発表までに一年もの猶予があるのも「すでに腹の中に、どこぞの身分卑しい画家だか音楽家だか役者だかの見習いの種を抱えているからだ」と、もっぱらの噂だった。
「もういい。行きなさい」
伯爵は疲れたように手を振り、ユーニスも「はい」と素直にうなずいて執務室を出て行く。
フェアフィールド伯爵は机に両肘をつき、組んだ手の上に額をのせてため息をついた。
ユーニスの言葉は間違ってはいない。
五番目とはいえ、セオドアとて国王の子。本人一人で結婚相手を決められる立場にはない。
なにより彼のあの時の求婚は、場の空気に酔った挙句の勢いによるところが大きい。
日ごとに現実味を増していく自身の結婚に対する緊張や不安、反発への反動であったことを、伯爵も見抜いている。女性でいうところの『マリッジブルー』だ。
そもそもセオドアは、嫌味で軽率なバージルを毛嫌いしていながら、国王の許可を得る前にユーニスに求婚して、王には事後承諾で済ませようとしていたあたり、間違いなくバージルの弟だった。
伯爵は机の一番上の引き出しを開け、一枚の紙を取り出す。
例の最終レースの馬券だ。
賭けた馬はむろん、フェアフィールド家のエトワール号。
『わたくし、最終レースに出ます。自分の手で、バージル殿下に返礼いたします』
ユーニスがそう言い出した時、とっさに従者に買いに走らせたのだ。
本来なら大穴の大勝利だったが、エトワール号の成績は違反を理由に消されたため、馬券としては無効である。
しかし。
「くく…………」と、伯爵の口元から笑いがもれはじめる。
あの時の王子二人の表情、見学していた国王夫妻や観客達の反応。
なにより、娘の清々しい笑顔がまざまざと脳裏によみがえって。
「わっはははは!」
執務室に大声が響く。
驚いた秘書が様子を見に来るまで、伯爵は笑いが止まらなかった。
第五王子セオドアは隣国の王女との婚約が発表され、大々的な祝宴が催される。
第四王子バージルもタナー公爵令嬢との婚約が決定し、身持ちの悪い娘の結婚をあきらめていた公爵はまさかの良縁に滂沱の涙、国王陛下にますますの忠誠を誓い、令嬢の評判を知らない市井の人々の間では「真実の愛を貫いた」ともっぱらの評判だ。
フェアフィールド伯爵にも恩恵があった。
自分が勧めた縁談で令嬢にとんだ恥をかかせてしまった競馬好きの王太后は、フェアフィールド伯爵の経営する牧場に破格の融資を約束。国王からも「令嬢が汚名をかぶって、第五王子の評価と隣国との外交を守ってくれた」と、お褒めの言葉と褒美を授かった。
その後。馬術大会では正式に女性騎手の出場が禁じられ、公の場での女性の乗馬服もスカートに限定されて、ズボンは正式に禁じられる。
フェアフィールド伯爵令嬢ユーニスも領地に戻った。
が、「令嬢が孤独の中で生涯を終えた」ということはなかった。
フェアフィールド領の牧場は優秀な人材を迎えていっそう名を馳せ、後世の多くの名馬の中に、この時代のフェアフィールド産の名馬の血が流れ継がれていく。
また、フェアフィールド嬢は女性による乗馬の普及にも取り組み、女性の社会進出が唱えられた世情の後押しもあって、のちに女性だけの馬術大会の主催者となり、公の馬術大会で女性騎手にもズボンの着用を正式に認めさせるのに、一役も二役も買う。
さらに数十年後。馬術大会は「人間より馬の力量による部分が大きい」という理由から、正式に男女混合の競技へと変化し、ユーニス・フェアフィールド伯爵令嬢の名は、その変化に大いに貢献した人物の一人として、馬術史上に名を残すのである――――