灰獣の里
ハクヤ一行が北へと進むにつれ、景色は荒涼としていった。木々は葉を落とし、黒ずんだ大地には草一本生えていない。冷たい風が吹き抜け、どこか遠くで獣の遠吠えが響いた。
「……ここが、灰獣の里か?」
ハクヤが呟く。
目の前には、岩場に囲まれた集落が広がっていた。
かつては村だったのかもしれないが、今や崩れた家屋が並び、焼け焦げた跡が点在している。人影は見えない。だが、確実に誰かが潜んでいる気配があった。
ザハークがゆっくりと前へ出る。
「……おい、いるんだろう。俺だ、ザハークだ。」
一瞬の沈黙の後、ガサリと茂みが揺れた。
「ザハーク……?嘘だろ……!」
低くうなるような声と共に、影が現れる。
男だった。だが、普通の人間ではない。茶色の毛皮に覆われた身体、獣のような耳、そして鋭い爪。狼に近いが、どこか人間の面影を残していた。その目は驚きに見開かれ、ザハークをまじまじと見つめていた。
「生きてたのか……!」
男は駆け寄ると、ザハークの肩を力強く掴んだ。
「……クウガか……随分と変わったな。」
「お前こそ……まさか、戻ってくるとは思わなかった。」
男――クウガは感慨深げにザハークを見つめた後、ハクヤたちへと目を向けた。
「そいつらは?」
「……仲間だ。冥土を潰そうとしてる。」
その言葉に、クウガの表情が変わる。
「冥土を……?」
その目の奥には、消えぬ憎悪の炎が灯っていた。
灰獣の里の奥へと案内されると、そこにはさらに多くの獣化した者たちがいた。
狼や虎、熊、さらには鳥の特徴を持つ者までいる。それぞれが冥土の実験によって生まれた半獣たちだった。
彼らはザハークの姿を見て驚き、そして警戒した。
「ザハーク……本当にお前か?」
「冥土に殺されたと思ってたぞ。」
「そいつらは誰だ?」
疑念の目がハクヤたちに注がれる。
「……俺たちは冥土を倒すために戦っている。」
ハクヤが前に出て口を開く。
「お前たちも冥土に復讐したいんじゃないのか?」
ざわめきが広がる。
「冥土を倒す?本気か?」
「そんなことができるわけ――」
「……できる。」
ザハークが低く言い放つ。
「……俺たちは今、確実に冥土に近づいてる。お前たちが加われば、冥土を潰せる可能性はさらに上がる。」
獣人たちは顔を見合わせた。
その中の一人、熊のような巨躯の男が口を開く。
「確かに、冥土は俺たちの故郷を奪い、仲間を殺した。だが、俺たちはもう戦えるほどの力はない……。ここにいるのは、逃げ延びた者たちばかりだ。」
そのとき――
「逃げているだけで、満足か?」
ハクヤの声が鋭く響く。
「お前たちは冥土に人生を奪われたんだろ?このまま何もしなければ、冥土はまた新しい犠牲者を生むだけだ。」
沈黙が落ちた。
やがて、クウガがゆっくりと口を開く。
「……俺様たちに、まだ戦う力があるのならよ。」
その目には、かすかに宿る決意の光があった。
「戦うしかねえよなぁ……冥土を潰すためによ。」
ハクヤは静かに頷いた。
「なら、俺と一緒に来い。冥土に、終わりを告げるんだ。」
こうして、ハクヤたちは新たな仲間を得ることとなった。
冥土への反撃の時は、確実に近づいていた――。
その夜、ハクヤ一行は森の中に野営した。焚き火の橙色の光が、周囲の木々を照らし、闇を淡く押し戻している。夜風が吹き、獣の遠吠えが遠くに響いた。
クウガは火を見つめながら、静かに息をついた。
「……まさか、お前とこんな形で再会するとはなぁ。」
ザハークは木にもたれかかりながら、無言でクウガを見た。その瞳には、かすかな懐かしさと苦々しさが滲んでいた。
「俺様たち、冥土の兵士だったんだよな。」
「……ああ。」
ザハークは、目を細めた。
「覚えてるか?まだ人間だった頃のこと。」
クウガは焚き火の炎を指で弄ぶようにしながら、ぽつりと呟いた。
「……覚えてる。」
ザハークの声は低かった。
「俺様たちは、冥土の兵士として育てられた。剣の扱いも、射撃も、戦術も、徹底的に叩き込まれた。俺様もお前も……成績はいつも上位だった。」
「……だからだよな。」
ザハークは静かに目を閉じた。
クウガは苦笑する。
「“選ばれた”のは、なぁ。」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。
冥土の兵士として優秀だった二人は、ある日突然、特別な計画の対象にされた。より強靭な兵士を作るための「獣化計画」。冥土は、人間の身体能力を限界以上に引き上げるため、獣の遺伝子を組み込む実験を行っていた。
それがどれほど非人道的なものかなど、考える暇もなかった。
逃げるという選択肢はなかった。従わなければ、処分されるだけだった。
「痛かったよなぁ。」
クウガが、ぼそりと呟いた。
「あの時のことは、今でも鮮明に覚えてる。意識を奪われて、気づいたら身体の感覚が変わってた。毛が生え、爪が伸び、牙が生えてよ……鏡に映った自分を見て、俺様は化け物になったんだって思った。」
ザハークも、苦い記憶を思い出していた。
「……俺は、最初は気づかなかった。ただ、異常なほど力が漲って、感覚が研ぎ澄まされたのを感じた。でも、それが自分の力じゃなくて、無理やり植え付けられたものだと知った時……どうしようもなく腹が立った。」
拳を握る。
「結局、俺様たちは道具だったんだよ、な。」
クウガが呟くと、ザハークは鼻で笑った。
「……今さらかよ。」
「ははっ。」
苦笑が、夜の静寂に溶けた。
二人はしばし、無言で火を見つめた。
やがて、クウガがぽつりと口を開いた。
「なぁザハーク。お前は、冥土を潰そうとしてるんだろ?」
「……ああ。」
「それなら……俺様も手伝う。」
ザハークは目を向けた。
「……いいのか?」
「当たり前だろ。冥土に人生を奪われたのは俺も同じだ。今さら、ただ隠れて生きるなんてまっぴらだ。」
クウガの金色の瞳が、炎の光を反射していた。
「お前と一緒に戦うさ、ザハーク。」
ザハークは少しだけ、目を細めた。
「……勝手にしろ。」
その言葉は、不器用な歓迎の証だった。
焚き火の薪が、パチ、と弾けた音がした。
二人の戦士は、かつての絆を取り戻しつつあった。
テントの中。
焚き火の灯りが薄く差し込む中、ハクヤ、レイラ、ガルツの三人は静かに耳を澄ませていた。外では、ザハークとクウガが過去について語っている。
「……冥土の兵士、か。」
ハクヤが低く呟く。
レイラが小さく息を吐いた。
「彼ら、ずっと苦しんでたんだね。」
「冥土がやることに、まともなもんなんてねえよ。」
ガルツが忌々しげに言う。
「けどよ……こうして冥土の実験の生き残りがまた増えたってわけだ。俺たちが戦ってる相手は、どれだけの人間を弄んできたんだ?」
ハクヤは沈黙した。
冥土の闇は深い。彼自身が知っているのは、ほんの一部に過ぎないのかもしれない。
ガルツが腕を組み、ぼそりと呟く。
「お前も、あいつらと似たようなもんだろ?」
その言葉に、ハクヤの眉がわずかに動いた。
「……どういう意味だ?」
「お前も冥土と関わった。そんで、逃げてきたんだろ?他の奴らとは違う“特別な何か”があるんじゃねえのかって話さ。」
ガルツの視線は、どこか探るようだった。
ハクヤは短く息を吐く。
「……知らない。」
それが本音だった。
老夫婦に育てられ、冥土の教えを受けていた過去。そして剣を手にし、真実を知るために歩き始めた。
だが、自分が何者なのか、冥土が何を望んでいたのか、すべてはまだ霧の中にある。
「ま、深く詮索する気はねえよ。」
ガルツは肩をすくめた。
「ただ、覚えておけよ、ハクヤ。俺たちは冥土と戦う。お前がどんな事情を抱えてたとしても、関係ねえ。」
「わかってる。」
ハクヤの声は静かだった。
レイラが、そっと口を開く。
「でも……ザハークとクウガさんみたいに、過去を分かち合える相手がいるのは、いいことだと思う。」
「……そうか?」
「うん。」
レイラは少し寂しげな微笑を浮かべた。
「だって、同じ痛みを知ってる人がいるのって、心強いことだから。」
その言葉に、ハクヤはふと目を伏せた。
彼にも、そういう存在が現れるのだろうか。
夜は深まり、焚き火の音だけが静かに響いていた。
朝日が昇り、霧が晴れていく。
ハクヤたちは灰獣の里を後にし、クウガを加えた新たな一行として街へ向かった。
目指すのは、この地方で最も栄えている交易の中心地 「ヴィルダン」。物資が行き交う場所ならば、人の噂や情報も流れやすい。
だが、街に足を踏み入れた瞬間、全員が違和感を覚えた。
通りを行き交う者たちのほとんどが、白い衣を身につけている。
――冥土の信者たちだ。
それだけではない。広場には冥土の教えを説く者が立ち、人々が敬虔な面持ちで耳を傾けている。酒場の隅でさえ、静かに祈る者がいる。
「……こいつぁ厄介だな。」
ガルツが低く唸った。
「この街、信者ばっかりじゃねえか。」
「嫌な感じ。」
レイラも不安そうに辺りを見回す。
ザハークとクウガは、それぞれフードを深くかぶり、顔を隠していた。二人とも半獣の姿をしている以上、見つかればただでは済まない。
「とにかく、何か手がかりを探そう。」
ハクヤの言葉で、一行はそれぞれ情報収集に動いた。
酒場、広場、商店――できる限りの場所を回った。
しかし、収穫はなかった。
どこに行っても、冥土を称える言葉しか出てこない。
「冥土の教えに従えば救われる。」
「冥土の導きに感謝を。」
「我らが奉仕することで、世界は浄化される。」
まるで、ここは冥土のために作られた街のようだった。
何か決定的な情報を得るどころか、妙な視線さえ感じる。
ガルツが舌打ちする。
「駄目だな。こいつら、冥土にどっぷり浸かってやがる。」
「それどころか、俺様たちがよそ者だってこと、もう気づかれてるんじゃねえか?」
クウガがぼそりと言った。
確かに、周囲の目が妙に鋭くなっている。
すると、突然――
「おい、お前ら。」
男たちの声が響いた。
一行が振り返ると、そこには白い服をまとった数人の男たちが立っていた。
冥土の巡回兵だ。
「見慣れない顔だな。この街に何の用だ?」
緊張が走る。
ハクヤは目を細めながら、冷静に返した。
「旅の者だ。商売のために立ち寄っただけだが?」
男たちはじろじろとこちらを観察する。
「……そうか。だが、念のために話を聞かせてもらおうか?」
――面倒なことになった。
ガルツが無言で手を拳に握る。ザハークとクウガも身構えた。
「あの少年……まさか、“ハクヤ”では!?」
――巡回兵により、ハクヤの身元がバレた。
兵士の叫びが響いた瞬間、街全体が静まり返った。
そして、次の瞬間――
「確保しろ!“実験体ハクヤ”を逃がすな!」
街中に警報の鐘が鳴り響いた。
冥土の兵士たちが一斉に武器を抜き、こちらへ向かってくる。
「クソッ、バレちまったかよ!」
ガルツが舌打ちしながら銃を構え、周囲を警戒する。
「もう隠れてる場合じゃねえ!」
「……やるしかないね!」
レイラも杖を構え、鋭い眼光で敵を睨んだ。
そして――
ザハークとクウガが身構えた瞬間、敵の矢が飛び、二人のフードが風に舞った。
「……!」
獣の耳と毛むくじゃらの体が露わになる。
「獣人どもだ!あいつらも実験体か!」
「すぐに処理しろ!」
兵士たちが叫ぶと、街の住人たちは恐れおののき、逃げ惑った。
――戦闘が始まった。
ハクヤは剣を抜き、迫りくる敵を次々と斬り伏せる。
ザハークとクウガも咆哮を上げ、猛然と敵に襲いかかる。
「おらあああッ!」
クウガが巨大な爪で兵士を切り裂く。
ザハークが拳を叩きつけ、装甲ごと敵を粉砕する。
「チッ……お前ら!どんどん増えるぞ!」
ガルツが銃を撃ちながら叫んだ。
――街中に、冥土の増援が続々と集まってくる。
「まずいね、完全に包囲されるよ!」
レイラが焦りの色を滲ませた。
だが、その時――
「ザハーク!!」
クウガの叫びが響いた。
見ると、冥土の狙撃兵がザハークに狙いを定めている。
「……!」
瞬間、クウガの身体がザハークの前に飛び込んだ。
銃声が響く。
クウガの胸に、深々と弾丸がめり込んでいた。
「……っ!」
ザハークの目が見開かれる。
「……クウガ……お前……何やってんだよ……!!」
膝をつくクウガ。
口から血を吐きながら、微笑んだ。
「……俺様なんかよりよ……お前が……生きろ……生きるんだよ、ザハーク。」
その瞬間――
冥土の精鋭部隊が一斉に襲いかかった。
「クウガァァァ!!」
ザハークが絶叫する。
だが――
クウガは、冥土の兵士たちに引きずられていった。
抵抗する力は、もうなかった。
「くそ……!!」
ガルツが歯ぎしりする。
「撤退するぞ!!」
ハクヤが叫ぶ。
ザハークは怒りと絶望に震えながら、クウガの姿を見つめていた。
「あいつを……見殺しにするのか!?」
「今は逃げるしかねぇんだよ!ザハーク!!」
ガルツが叫び、ザハークの腕を引っ張る。
――クウガの命は、もう助からない。
それでも、無駄死にするわけにはいかなかった。
「クソッ……!!!」
ザハークが涙を流しながら、拳を固く握る。
そして――
ハクヤ一行は、クウガを残し、ただ街から逃げるしかなかった。
街を抜けたハクヤ一行は、近くの森に身を潜めた。
夜の帳が降り、静寂が辺りを包む。
しかし、その場に安らぎはなかった。
誰もが息を殺し、重い沈黙の中にいた。
「……クウガを、助けられなかった。」
ザハークが低く呟いた。
焚き火の炎が揺れ、彼の影を長く伸ばす。
手には、血のついた毛皮の切れ端が握られていた。それは、クウガのものだった。
「……あいつは、俺を庇って……冥土に捕らわれた。」
拳を固く握るザハークの瞳には、怒りと悲しみが渦巻いている。
「チッ……あんな死に方、アイツは望んでなかったはずだろうよ。」
ガルツが悔しげに舌打ちした。
クウガは戦士だった。誇りを持ち、生き抜こうとした。
なのに、こんな形で……。
「今は、悔やんでも仕方ないよ。」
レイラが静かに言った。
「クウガは……ザハーク、君を守ることを選んだんだよ。ボクたちはその意志を無駄にしないようにしなくちゃ、ね?」
レイラの言葉は優しかったが、ザハークの心には届かない。
「……俺がもっと強ければ、こんなことには……!」
ザハークは地面を殴りつけた。
鈍い音が響く。
「……くそ……。」
ザハークの肩が震えていた。
ハクヤは彼を見つめたまま、何も言えなかった。
自分だって、無力だった。
冥土の兵士に囲まれ、クウガを救う力がなかった。
胸の奥が、じりじりと焼かれるように痛む。
(……俺も、弱い。)
もっと強くならなければならない。
それが、ハクヤの胸に刻まれた誓いだった。
翌朝。
一行は再び森の奥で作戦を立てていた。
「冥土は、クウガを処刑するつもりか?」
ガルツが険しい表情で問いかける。
「可能性は高いね。」
レイラが唇を噛む。
「だが、すぐには殺さないはずだ。」
ハクヤが言った。
「冥土は、実験体を“ただ殺す”ような組織じゃない。クウガを捕らえた以上、何か利用しようとしているはずだ。」
「……処刑じゃなく、人体実験ってことか?」
ガルツが眉をひそめる。
「……そういうことだ。」
ザハークが歯を食いしばった。
「……冥土の施設に連れ込まれたら、もう助けられない。」
「なら、動くしかないね。」
レイラが地図を広げる。
「冥土がクウガをどこに連れて行ったか、探らなくちゃ。」
ハクヤは拳を握る。
クウガを見捨てるつもりはない。
例え助けられなかったとしても、冥土の思い通りにはさせない。
「なら、決まりだな。」
ガルツが銃を構える。
「……冥土を追うぞ。」
ザハークの目には、かつてないほどの決意が宿っていた。
──ハクヤ一行は、再び動き出す。
険しい山道を進む中で、ハクヤは静かに思考を巡らせていた。
冥土を壊滅させる。
エイゼを助ける。
それが、今の自分の目標だった。
クウガを失った痛みは消えない。しかし、足を止めるわけにはいかない。
冥土は、まだこの世界に巣食っている。
エイゼという存在が、どれほど彼らにとって重要なのか──それはまだ分からない。
だが、彼女が囚われている以上、冥土の目的は達成されていないはずだ。
「……どうした、ハクヤ?」
ザハークが前を向いたまま問いかけた。
「……考え事か?」
「ああ。」
ハクヤは頷いた。
「この先にある町で情報を集める。その後は……エイゼの居場所を突き止める。」
「ようやく話が進むってわけかぁ。」
ガルツが呟く。
「だがよ、敵の本拠地に近づけば近づくほど、俺たちの動きは筒抜けになる。慎重に行こうぜ。」
「分かってる。」
ハクヤは岩壁に手をつき、息を整えた。
次の町にも冥土の影があるだろう。
それでも進まなければならない。
そして、この旅の果てに──エイゼと再会する時が来る。
全ては、冥土を壊滅させるために。