檻の中の獣
冷たい金属の床に膝をつき、エイゼは無表情のまま壁にもたれかかっていた。
空気は湿り、鉄錆の匂いが鼻をつく。四方を囲むのは分厚い金属の壁。唯一の出口は、鋼鉄の扉──電子ロックがかけられ、外からでしか開けられない。
またこの場所に戻ってきた。
皮肉なものだ。
檻の中の獣。
それが今の自分の姿だった。
カチャリ──
扉が開く音がする。
「……相変わらず不服そうな顔だな、エイゼ。」
部屋に入ってきたのは、白衣をまとった一人の男。冷たい瞳を持つ彼を、エイゼは一瞥する。
「……何の用だ?」
低い声で問いかけるが、男は嘲るように笑うだけだった。
「お前をここに戻したのは、ただの懲罰ではない。……また”計画”を進めてもらうためだ。」
計画──またか。
「拒否する。」
「そうか? まあ、いい。どうせお前に拒否権はない。」
男はゆっくりと近づき、エイゼの顎を掴んで持ち上げる。その手を振り払おうとした瞬間、腕に激痛が走った。
「……っ!」
「ふふ、ずいぶんと大人しくなったものだな。」
腕には新たな拘束具が装着されていた。それは筋肉の動きを制限するもので、電流を流せば動きを封じることもできる。
「お前が暴れないように、新しい装備をつけさせてもらった。……まあ、完全に抑え込めるかどうかは、実験してみないとわからないがな。」
エイゼは冷ややかな目で男を睨む。
「好きにしろ。……どうせお前たちの実験など、くだらない茶番だ。」
「それはどうかな。……そうだ、一つ良い報せがある。」
男は不敵に微笑むと、耳元で囁いた。
「お前の息子、ハクヤが生きていたぞ。」
エイゼの指がぴくりと動いた。
「……。」
「彼は今、冥土を敵に回し、逃亡者となっている。仲間を集め、お前を助けるつもりらしい。」
エイゼは目を伏せる。
「……馬鹿なやつだ。」
「そう思うか? だが、彼はまるで英雄気取りだ。母親が囚われていると知れば、なおさらこちらへ向かってくるだろうよ。」
エイゼは何も言わなかった。
ハクヤが……助けに来る?
そんなこと、あり得ない。
あの子は、自由に生きるべきなんだ。
私のような存在に囚われるべきではない。
それでも、心の奥底で微かに灯るものがあった。
それが何かを、エイゼはまだ理解していなかった。
男が部屋を出ていった後も、エイゼはじっと動かなかった。
「……馬鹿なやつだ。」
そう呟いてみても、胸の奥にある微かなざわめきは消えなかった。
ハクヤが生きていた。
それだけではない。
彼は冥土を敵に回し、仲間を集め、私を助けるつもりでいる。
「……本当に、馬鹿だ。」
こんなところに来たら、殺されるだけだ。
冥土がどれほど腐りきった組織か、私は知っている。
それを相手にするのは、あまりにも無謀だ。
なのに、なぜあいつはそんな選択を──
エイゼは目を閉じた。
思い出したくもない記憶が、脳裏をよぎる。
──小さな腕。温もり。無垢な瞳。
かつて、自分の腕に抱いていた存在。
小さく、弱く、守らなければならなかった命。
今のハクヤはもうあの赤子ではない。
自分の知らない時間を生き、別の道を歩んできたはずだ。
それなのに、こうして私のために動こうとしている。
何も知らず、何も気づかず、それでも────。
「……。」
エイゼはゆっくりと立ち上がった。
錆びた鎖が足元でかすかに音を立てる。
こんな檻の中で、ただ待っているつもりはない。
「……まだやれることはあるはずだ。」
このまま囚われているわけにはいかない。
ハクヤがここに来る前に、自分で決着をつけなければ。
彼が命を賭ける理由を、私は作りたくない。
そして、私はまだ終わるつもりはない。
エイゼは拳を握りしめた。
拘束具の感触が指に伝わる。
打ち砕いてやる。
この場所も、冥土の支配も、私を縛るすべてを。
そして──
ハクヤを、この呪われた運命から解放するために。
静寂が支配する収容房。
だが、その静けさの下で、エイゼの全身は研ぎ澄まされていた。
手足に絡む拘束具、足元に固定された鎖。
かつては絶望の象徴だったそれが、今はただの障害物にしか思えない。
「……もう、終わりだ。」
低く呟くと、エイゼは目を閉じる。
内なる力を解き放つ──。
一瞬、全身の血が沸騰するような感覚に襲われた。
筋肉が膨張し、骨が軋み、背中から熱が突き上げる。
そして──
鋭い風切り音と共に、銅色の翼が広がった。
拘束具は耐えきれずに弾け飛び、鎖は無意味に床を打った。
目を開けると、視界が一変している。
全身に満ちる解放感、溢れ出る獣の力。
エイゼは足を踏みしめ、薄闇の中を睨みつけた。
「行くぞ。」
獣のごとき疾走。
衛兵たちが駆けつける前に、エイゼは一気に廊下を駆け抜けた。
暗い通路を飛び越え、障壁を叩き壊し、冷たい鉄扉を蹴破る。
警報が鳴り響く。
「止まれ!」
「実験体エイゼ、脱走を──」
叫び声が響いた瞬間、エイゼの姿が変わった。
──グリフォンの巨影が、壁を砕いて飛翔する。
兵士たちの視線が、驚愕と恐怖に染まる。
次の瞬間、強風が巻き起こり、視界を遮る。
そしてエイゼの姿は、夜の闇へと消えた。
──もう、二度と捕まるつもりはない。
今度こそ、私は……
ハクヤに会いに行く。