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焔翼のグリフォン  作者: いねの
第三部 南の国 第1章 深淵との決別
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影踏み

 黒布の風鈴が、ひときわ澄んで揺れた。

藪を割って姿を現したのは、背の低い影――骨の細い女だった。黒い布を目元まで下ろし、露わになった赤い瞳が、こちらを鋭く射抜く。その眼差しには警戒よりも、どこか試すような色があった。


彼女は両手を胸の前に掲げ、ひと呼吸ののち、掌を返す。

――「招き入れ」の所作。


エイゼは短くうなずき、全員へ目で指示を送る。

剣は鞘へ、銃は袋へ、刃は布包み。金属の光を封じる。

仲間たちがそれぞれ従うのを確認すると、女は初めて声を放った。


「……返り子には、おもてなしをしましょう。その瞳が物語っているもの。」


アビスの胸に冷たいものが走った。

琥珀ではなく、赤。深淵の一族の証。

女はそれを見抜いている――まぎれもなく。


だがアビスは、視線を逸らすように目を伏せた。


「……もてなすほどの器じゃないよ。」


かすれた声は、夜気にすぐ飲まれる。


「僕の名前を記憶する人はもう、残ってないだろう。父も、母も……兄たちも……。」


背の低い女の瞳がわずかに細められた。

沈黙。

その奥にかすかな動揺が混じる。


「……ただひとり。“長”だけが、知っているかもしれない。」


その言葉が落ちると、アビスの肩がびくりと揺れた。

エイゼはわずかに眉を寄せたまま、アビスの背に手を添える。


仲間たちの間に張り詰めた気配が走る。

風鈴がまたひとつ鳴り、女は身を翻して藪の奥を指し示した。


「……お入りなさい。」


赤い瞳が夜に浮かび、呼び水のように消える。

森の闇の奥、深淵の一族の根城――その名を呼ばれる前から、アビスの胸のざわめきは強くなっていた。


ハクヤ一行はアビスの背を守るように列を作り、招き入れられた藪の奥へ進んだ。森が切れ、土を掘り下げた竪穴住居がいくつも口を開けている。黒布をまとった村人たちが作る陰のあいだから、赤い瞳がじっとこちらをなぞった。余所者を見る目――刺さるほど静かな敵意だ。


女の後に続いて入った家は、土壁と木骨の小さな部屋。炉の火は落とされ、かわりに黒い香皿が薄く煙を立てている。女は無言で茶を淹れ、素焼きの杯を人数分並べた。


アビスは最初の一滴で顔をわずかにしかめ、杯に触れた指をそっと離した。


「……やっぱり、僕が“いらない子”だって、わかるんだね。」


杯の縁から立つ匂い――枯れた葉の苦味に、金属が混じる。舌先が痺れる種類だ。アビスの低い声に、仲間たちの空気が一度だけきしんだ。


ハクヤの手は剣の柄に寄り、ガルツは膝の上で指をゆっくりほどく。イブキは袖の中のクナイに触れかけ、レイラがそれを横からそっと押しとどめた。ザハークの耳が倒れ、喉の奥で細い唸りが鳴る。エイゼだけが動かず、杯と女の手元を真っ直ぐに見ている。


女は視線を落とし、短く息を吐いた。


「……あなたのことは、夫――“長”から聞いていました。影に受け入れられなかった子、アビス。……ごめんなさい。」


震えはない。だが、指先で杯の底を支える位置が半寸ずれた。


「掟では、余所者は影へ返す。返り子であっても……影に拒まれた子は、入れられない。これは――弱い眠りの毒。死には至らぬ、と言われています。」


「言われています、か。」


エイゼが静かに言った。女はうなずきもせず、かすかに目を伏せる。


アビスは杯を指で押しやり、女の赤い瞳を正面から拾った。声は乾いているが、揺れてはいない。


「だったら、眠らないうちに長に会わせて。余所者としてでも、返り子としてでも、どちらでもいい。話をする。」


女の喉仏が小さく動く。短い沈黙ののち、彼女は杯をひとつずつ手繰り寄せ、盆ごと炉の脇へ退けた。


「……わかりました。私には殺せません。掟を破る罪は、私が負います。――ついてきてください。」


土間の黒布がめくれ、外気が低く流れ込む。女は先に立ち、地の底へ降りるような通路を示した。エイゼがハクヤへ目で「刃はしまえ」と送り、ハクヤは頷いて手を柄から離す。ガルツは銃袋の紐を締め直し、イブキは息を整え、レイラは肩の薬袋を確かめた。ザハークは最後尾、鼻で風の筋を読んで動く。


黒い風鈴が、またひとつ鳴った。

その音を背に、彼らは長の待つ場所へ――影の底へと進んだ。


 黒布の垂れをくぐると、空気が変わった。土の匂いが濃く、灯りはひとつもない。闇の中に、ぽつ、ぽつ、と赤い瞳だけが浮かんでいる。


正面の闇が、ぬるりと動いた。影が人の形にまとまり、長い黒髪と細い肩が現れる。


「……帰ったな。末子、アビス。」


低く、やわらかいのに、刃の冷たさを含んだ声。深淵の一族の長、アンブラだ。


イブキは反射的に背後へ目を走らせた。闇のあちこち――柱の上、床の隙、天井の梁。その全部に、赤い瞳がいくつも浮かび、こちらを値踏みするように瞬きもせずに見つめている。空気に殺気がまじる。息を吸うだけで舌がしびれるような、静かな圧。


ハクヤは古布の下で視線だけを動かし、立ち位置を半歩ずつ調整した。ザハークは耳を伏せ、風の筋を読んでいる。ガルツは指先を膝の上でほどき、銃袋の紐を掌で確かめた。レイラは杖を握り直し、エイゼは一歩だけアビスの横へ出る。その横顔は動かない。


アンブラは足音もなく前へ。近づくほど、影が濃くまとわりついてくる。


「影に選ばれなかった子。」


長は言う。


「お前は輪から落ちた。……それでも戻るのか。」


アビスは喉の奥で息を合わせた。三で吸い、五で吐く。胸のざわめきがほんの少し退く。


「……僕は、“戻る”ために来たんじゃない。」


アビスはまっすぐ見返した。


「話をしに来た。掟を、変えさせに来た。外の者を影から殺すやり方を、終わらせるために。」


周囲の赤い瞳が、わずかに細くなる。殺気がいっせいに立った――が、アンブラの片手が軽く下がると、波はすぐに引いた。


「言葉は軽い。」


アンブラは肩を傾ける。


「影は行いしか映さぬ。……それに、お前は輪の外で育った。外の匂いが濃い。」


女――先ほど導いた妻女だろう――が闇の端で身を縮めた。アンブラの視線が一瞬だけそちらへ流れる。


「余所者は影へ返す。返り子でも、影に拒まれたなら入れられない。掟だ。……だが、今日だけは“客”として扱う。お前が兄の名を持っているからだ。」


アビスの眉がわずかに震えた。


「……ノクスは。」


「死んだ。」


アンブラは平らに言う。


「父も母も。外の刃に、そして病に。残る血は、私と――お前だけだ、アビス。」


胸の底で何かが揺れ、手が冷えた。アビスは指先に力を込め、もう一度、呼吸を数える。


「――戻る灯。」


小さく呟く。


「ここにある。」


すぐ横、エイゼが同じ小声で返す。


アンブラの目が、ふっと細く笑ったように見えた。


「外で、よい師を得たな。」


沈黙がひと呼吸。長は片手を挙げ、床の中央へ影を集める。黒い土に、白い灰で円が一つ描かれていた。円の縁には鈴が四つ、等間に置かれている。


「――“影踏み”の儀だ。」


アンブラが言う。


「影に選ばれぬ者でも、影と歩む道があるかを試す。円を渡れ。足音を立てず、鈴を鳴らすな。刃を抜くな。お前がそれを成せば、話を聞こう。掟へ口を出す権利を、ひととき与える。」


「失敗したら?」


ハクヤが布の奥から低く問う。


「そのときは、客であることをやめる。」


アンブラは一寸も揺れない声で答えた。


「ここでは、法も神も呼ばぬ。我らの掟だけがある。」


 赤い瞳が、円の周りにさらに増える。息を呑む音はひとつもない。闇が見ている。


アビスはエイゼと目を合わせた。

エイゼは頷く。


「数は私が刻む。」


アビスは前へ出た。ブーツの底で土の感触を測る。呼吸を細く保ち、肩の力を落とす。胸の奥に、灯をひとつ思い浮かべる。戻る場所――寮の空気、紅茶の湯気、あの笑い声。


「行け、アビス。」


ハクヤが短く言った。


「俺たちは外輪で見る。鈴は鳴らさせない。」


ザハークは鼻を低く鳴らし、風の筋を読む位置に滑った。イブキは口を結び、手の内を乾かす。レイラは祈るように杖に手を重ね、ガルツは目で四つの鈴と天井の梁を交互に測った。


アビスは円へ足を入れる。土が柔らかい。灰の白が夜目に薄く光る。


――一歩。

鈴は鳴らない。

闇が息をひそめる。


二歩、三歩。

足裏で土のわずかな起伏を拾い、体重を流す。肩を落とし、肘を浮かせず、指は開かない。影に溶けるのではなく、影に触れずに歩く。


(僕は“影になれない”。でも――影とケンカはしない。間を行く。)


四歩目。床下で何かが僅かに軋んだ。仕掛けか。アビスは重心を一瞬、逆足へ戻し、すぐにかすかな起伏を踏み替えた。鈴は揺れない。


「……ほう。」


闇のどこかで、アンブラの声が薄く笑う。


最後の一歩。足が円の外へ出た瞬間、四つの鈴が一度だけ――小さく、かすかに――震えた。音になる前に、アビスは踵を浮かせ、その震えを吸い込むように歩みを止めた。


静寂。


アンブラが影から進み出て、掌を一度、返す。

――歓迎の所作。


「合格だ、末子。」


長は言った。


「影に選ばれぬ者にも、歩みはあるらしい。言え。掟を変えて、何を望む。」


 アビスは息を整え、仲間を一度だけ振り返ってから、アンブラを見据えた。


「……外の人を、影から殺すのをやめさせたい。見知らぬ者を“影の敵”と決める掟を、まず外してほしい。……それからもう一つ。――母を、外へ出してくれ。もし、生きているなら。」


赤い瞳が、そこで初めてわずかに揺れた。

アンブラは目を閉じ、短く息を吐いた。


「……母は、戻らぬ。」


「……そう、か。」


 胸の奥が軋む。それでもアビスは立つ位置を変えなかった。


 アンブラは視線を上げ、今度はハクヤたち全員をゆっくりとなぞった。


「外の刃――冥土の匂いがする。お前たちは外で、何を敵と定めた。」


ハクヤは布の奥で、琥珀の瞳を細めた。


「冥土のやり方だ。人を“兵器”にするやり方。弱い者を土台にするやり方。……それを壊しに来た。」


「ふむ。」


アンブラは一度だけ頷く。


「ならば、利は重なる。」


闇の奥の赤い瞳が、群れごと静まる。


「今夜、ひとつだけ掟を外す。“外を影から殺す”の禁緩め。……だが、その代わりに、お前たちは一つ、影の頼みを聞け。」


「頼み?」


イブキが息を呑む。


「冥土は南でも動いている。森の外れに白い施設。影の者が二人、戻らない。」


アンブラは低く言った。


「それを見よ。お前たちの敵が何をしているか、影の目にも見せろ。」


エイゼが頷く。


「引き受ける。」


アンブラは初めて、はっきりと笑った。それは冷たい影の笑みではなく、ごく短い――血の者の笑みだった。


「……末子。外で灯を得たお前が、影の中でどこまで歩けるか。見せてもらおう。」


黒布の風鈴が、遠くで鳴った。

闇がほどけ、赤い瞳がひとつ、またひとつ、消えていく。


儀式は終わった。だが、影の試しは、ここからが本番だった。

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