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焔翼のグリフォン  作者: いねの
第三部 南の国 第1章 深淵との決別
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戻る灯

 出発の朝。中庭にはまだ夜の冷たさが残り、荷を締める紐の音だけが小さく続いていた。ハクヤは再び古布を目深にかぶり、背のフレームに野宿用の寝具と鍋、乾物袋をきっちり括りつける。


「南は緑が濃いぶん、湿度はヒナモトより高い。特に虫刺されには気をつけてね。」


アビスが黒い支給服のフードを深くかぶったまま、手早く説明する。腰には塩の小瓶と薄い軟膏。足首にはヒル避けの包帯。


「ひ、ひぃ……虫除けスプレーたくさん持っておこう……!」


レイラはもう缶を振り回して、すねと手首にしゅーっと霧をまく。白い煙が朝日に淡く光った。


「み、ミミズとかも居たりする?」


そろそろと尋ねるイブキに、アビスは申し訳なさそうに、でも淡々と――。


「いるよ。」


「ひぃぃぃ……!!」


二人で並んでスプレーの雲をつくる。ガルツが顎ひげをいじって笑った。


「おーおー、出発前から戦場だな。」


「列はこうだ。」


エイゼが短く告げる。


「先頭、南の地理に明るいアビス。嗅覚と聴覚はザハーク。中央に私とハクヤ、レイラ。後方にガルツとイブキ。合図はいつも通り、二回ノックは味方だ。」


門が軋み、森の匂いが押し寄せた。



 南の森は、音で満ちていた。鳥のさえずりが幾層にも重なり、その下を、小獣の鳴き、さらに下で無数の虫の擦過音がじりじりと走る。葉は手のひらほど大きく、幹からは絞ったばかりの水の匂いがした。


先頭のアビスは、草の葉脈の傾きや獣道の擦れを読むみたいに、迷いなく歩く。ザハークは半歩風下、耳を細かく動かしながら、土の上に新しく落ちた匂いを拾った。


「右前、古い爪痕。昨夜の通り道だ、避けるぞ。」


 エイゼが指で短く合図を送り、列は静かに角度を変えた。ハクヤは剣帯を押さえ、足音を殺して続く。レイラは杖を短く持ち、背の水筒の口が揺れないよう片手で押さえ――。


「ひぃぃぃ小さい虫が飛んで来るよぉぉ……!」


額の前で手をぱたぱた。イブキはマフラーで口元を隠しながら、半泣きの声。


「ミミズも、でる?いま、出た?出てない?ねぇアビス!」


「いまのはヤスデ。無害。触らなければ大丈夫。」


「名前増やさないで〜!」


ガルツが肩で笑う。


「南の洗礼だぁ。慣れだ、慣れ。」


足元は徐々に柔らかくなり、やがて細い沢に当たった。倒木が一本、橋のように渡っている。苔で滑る。


「ハクヤ。」


エイゼが名を呼ぶ。ハクヤは頷き、先に渡ってロープを張る。アビスが結び目を固め、ザハークが一人ずつの背に手を当てる。


「足、ここ。苔は踏むな、木目に沿って。」


レイラがそろそろと進み、半ばで体勢を崩しかけ――。


「っと。」


ハクヤが片手で腰を支えた。レイラは照れ笑いで


「ありがとう。」


とだけ言い、無事対岸へ。イブキはというと、渡る前から目を閉じている。


「目を開けろ。閉じると余計に落ちるぞ。」


「落ちるって言わないで!言葉が弱気!!」


結局、彼女は片手でロープ、片手でハクヤの荷の端を掴んで、ぴょん、と身軽に渡り切った。


森の奥はさらに湿った。葉から葉へ、雨の名残りが滴り続け、どこからともなく甘い花の匂い。アビスが立ち止まり、掌を上げる。


「ここからは踏み跡を広げないで。左は蟻の道。踏むと噛まれるよ。」


道はほそり、空は緑にふさがれた。ときどき差す陽の矢が、ハクヤの古布の縁に金を差す。ザハークが鼻先で湿りを測り、低く呟いた。


「……この先、雨が降る。匂いが変わった。」


「昼までに尾根の手前へ。」


エイゼが方角と時刻を頭に入れ直し、歩みを少しだけ速める。ガルツが背の銃の油布を軽く当てる。


「湿気で錆びる前にケアだぁ。南は道具が泣く。」


「人も泣く……!」


イブキのボヤきに、ハクヤが横目で笑う。


「泣いてる暇があったら足を上げろ。段差に根があるぞ。」


「はーい!」


その軽口の直後、前方でアビスが指を二度、膝に当てた。全員がぴたりと止まる。


耳に、低い唸り――ではない。遠い太鼓のような重い音。地の底からあがってくる、熱の気配。


「……南の空気だ。」


アビスが呟く。


「こっから先はミティカの手前。湿地が増える。宿営は尾根を巻いたところ。煙は低く、灯りは布で絞る。」


誰も異論はない。湿った世界の中、列は再びほどけるように動き出した。



 日が傾く前、尾根の陰に小さな平地を見つけた。アビスが枯れ枝と青い葉を分け、煙の少ない焚き火をつくる。ガルツはタープを張り、ハクヤとザハークが落枝で簡易の腰掛けを組む。レイラは足首に草の汁を塗り、イブキは――。


「ミミズチェック……よし、ゼロ!本日の勝者はこのクノイチ!」


「誰と戦ってる。」


ハクヤが笑い、湯が静かに湧き始める。紅茶の香りが湿った森で意外なほど鮮やかに立ちのぼった。


カップが一周する頃、風が少しひんやりする。


「明日は境界線だ。」


エイゼが火の縁越しに告げる。


「ミティカへ入れば、目も耳も増える。気を抜くな。……だが、ここまでは上出来だ。」


アビスは返事をせず、火に手をかざす。その横顔に、森の橙が淡く映った。


 夜の森は湿り気を含んだ音で満ちていた。

遠くの梟、近くの虫、焚き火は煙を立てぬよう落としてあり、三つのテントだけが低く脈打つ。


一つ目――ハクヤとガルツのテントからは寝返りの布ずれ。


二つ目――レイラとザハークは静かで、獣の耳だけが風に合わせて揺れる。


三つ目――イブキとエイゼ。


「ねぇぇぇ今さっき耳元でプーンって鳴った!絶対蚊がいるって!!」


「落ち着け。……殺虫剤を撒くぞ。」


シュッ――


「げほっ、げほっ……!」


「……っ、むせる……外だ!」


イブキとエイゼは同時にファスナーを引きちぎらん勢いで飛び出し、夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。咳が収まるまで膝に手をつき、肩で呼吸する。


見張りのアビスが、焚き火の影から苦笑いで顔をあげる。深紅の瞳が闇の色を吸っている。


「……キミたち、大丈夫かい?」


「……少し、やらかした。主にこいつが。」


エイゼが親指でイブキを指す。


「え、えぇー撒いたのはエイゼじゃん!げほっ、げほっ……!」


「テントの中で殺虫剤は、そりゃあね。」


アビスは肩をすくめた。


「気持ちはわかるけど、密閉空間だと僕らが先に倒れる。」


背後のテントが二つ、わずかにざわつく。


「こっちは問題なし……だが、匂いが強い。」


ザハークの低い声。


「うぅ……目がしみる……。」


レイラが寝袋の中で鼻を押さえる。


ガルツは布団から顔だけ出してぼそり。


「蚊一匹に全滅する部隊、聞いたことねぇぞ……。」


「対策、やり直そう。」


アビスは手際よく指を立てる。


「一、ランタンはテントから十歩ほど離して置く。光に蚊を寄せて、こっちは暗く。二、スプレーは外側のメッシュに薄く。中じゃなくて外。三、薄荷油を肌の外側に少量――耳の後ろ、手首、足首。匂いで寄らせない。」


そう言って、ポーチから小瓶を出す。ほの甘い清涼の匂いが夜気に溶けた。


「はい、イブキ。」


「は、はい……。ぷーんの術は、これで破れる……?」


「術とか言うな。」


エイゼが無表情に返すが、口調は柔らかい。自分の耳後ろにも薄く塗りながら、反省の咳をひとつ。


「……次からは外だ。」


ランタンが離れた枝に吊られ、金色の輪が森の奥で揺れる。アビスがメッシュに軽くスプレーし、ファスナーの下端の隙間に布テープを貼った。


「これで侵入経路はほぼ封鎖。どうしても入ってきたら、手で叩くより“吹く”。風で動きを鈍らせてから、だよ。」


「忍法・ふーふーの術……。」


イブキが真顔で頷く。


「名付けるな。」


準備が終わると、森の層がふたたび静けさを取り戻した。遠いところで蚊柱がランタンへ流れ、テント周りは嘘みたいに静かだ。


「じゃ、もう一回寝直す。」


ガルツが寝袋へ戻り、


「今度プーン言ったら、俺は耳栓するからな。」


と付け足す。


「ありがと、アビス。」


レイラが小声で礼を言い、ザハークは鼻先で薄荷の匂いを確かめてから


「……悪くない。」


とだけ言った。


イブキは自分の手首の匂いをくんくん。


「はぁ〜、スースーする。これ好きかも。」


「効いているうちに寝ろ。」


エイゼがテントの口を指す。


「押忍。……ねぇエイゼ。」


「なんだ。」


「さっきのは、半分はあたしが悪かった。ありがと。……それと、ごめん。」


短く間があって――エイゼは頷いた。


「次に活かせ。以上だ。」


「はーい。」


イブキがテントへ戻る。布が擦れる音、寝袋が体温を受け取る音。やがて呼吸は落ち着き、プーンも聞こえない。


 焚き火の芯が、ぽつ、と小さく跳ねた。薄荷の匂いは落ち着き、森の層は再び静けさを取り戻している。アビスは岩に腰を掛けたまま、闇に目を馴染ませていた。


「……アビス。」


 背後から、足音をほとんど残さずにエイゼが来る。テントの口は閉じられ、他の寝息は安定している。


「なんだい、エイゼ。」


「……私は、あなたのことが心配だ。」


 アビスは苦笑いだけ浮かべ、少しだけ肩をすくめた。


「……僕は大丈夫だよ。感情のままに動かないようには努力している。けど、少しだけ――ゾワッとするんだ。」


「心当たりはあるのか?」


「なんていうか……霊感に近いのかな。風の向きが変わる前、空気の温度だけ先に変わる、みたいな。ミティカは、今じゃ廃れた魔術の発祥の地だって言うし……土の奥に残ってる記憶に、皮膚が触れてしまう感じ。」


アビスは自分の指先を見た。血の気が引いたように白い。


「南へ近づくほど、ああ、来たな、って。……それが復讐の匂いなのか、土地の匂いなのか、まだ判別がつかない。」


エイゼは隣に立ち、視線だけで森の縁を掃いた。しばし無言。やがて、短く息を吐く。


「理屈で割れないものは、段取りで割る。三つ、決めよう。」


「三つ?」


「一、胸が暴れたら“合図の言葉”を言え。『戻る灯』だ。

 二、呼吸を数える。三で吸って、五で吐く。それを二回――それでも戻らなければ、私が肩を掴む。

 三、独断で離れるな。必ず誰かのそばに居ろ。単独行動は禁止。」


アビスは目を細め、ひとつずつ飲み込むように頷いた。


「了解。“戻る灯”、ね。……ありがと、エイゼ。僕は僕の足で行く。でも、戻る場所も忘れない。」


「それでいい。」


梟が遠くで一度鳴き、風が一段低くなる。アビスは言われたとおり、静かに吸い、長く吐いた。三拍、五拍。二度、繰り返す。


「――戻る灯。」


試すように、アビスが小さく言う。エイゼは即座に返した。


「ここにある。」


それだけで、胸のざわめきが半歩ぶん退いた気がした。アビスは肩の力を抜き、南の暗がりを見据える。


「ミティカに入ったら、土地の“記憶”に引っ張られるかもしれない。……でも、引きずられはしない。やるべきことは、決めてある。」


「ならば、私が横で“数”を刻む。お前が忘れたら、代わりに数える。」


「頼りにしてる。」


二人はしばらく、言葉を置かずに並んだ。焚き火の芯がまたひとつ弾け、薄荷と土の匂いが交じる。東の端が、かすかに薄くなりはじめている。


「交代まではここにいる。」エイゼが言う。「見張りは二人で十分だ。」


「うん。……おやすみ、とは言わないでおくよ。」


「そうだな。夜はまだ、こちらの番だ。」


アビスはもう一度、三で吸い、五で吐いた。

朝が来るまで、二つの影は焚き火の脇で、同じ方角を見ていた。

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