戻る灯
出発の朝。中庭にはまだ夜の冷たさが残り、荷を締める紐の音だけが小さく続いていた。ハクヤは再び古布を目深にかぶり、背のフレームに野宿用の寝具と鍋、乾物袋をきっちり括りつける。
「南は緑が濃いぶん、湿度はヒナモトより高い。特に虫刺されには気をつけてね。」
アビスが黒い支給服のフードを深くかぶったまま、手早く説明する。腰には塩の小瓶と薄い軟膏。足首にはヒル避けの包帯。
「ひ、ひぃ……虫除けスプレーたくさん持っておこう……!」
レイラはもう缶を振り回して、すねと手首にしゅーっと霧をまく。白い煙が朝日に淡く光った。
「み、ミミズとかも居たりする?」
そろそろと尋ねるイブキに、アビスは申し訳なさそうに、でも淡々と――。
「いるよ。」
「ひぃぃぃ……!!」
二人で並んでスプレーの雲をつくる。ガルツが顎ひげをいじって笑った。
「おーおー、出発前から戦場だな。」
「列はこうだ。」
エイゼが短く告げる。
「先頭、南の地理に明るいアビス。嗅覚と聴覚はザハーク。中央に私とハクヤ、レイラ。後方にガルツとイブキ。合図はいつも通り、二回ノックは味方だ。」
門が軋み、森の匂いが押し寄せた。
*
南の森は、音で満ちていた。鳥のさえずりが幾層にも重なり、その下を、小獣の鳴き、さらに下で無数の虫の擦過音がじりじりと走る。葉は手のひらほど大きく、幹からは絞ったばかりの水の匂いがした。
先頭のアビスは、草の葉脈の傾きや獣道の擦れを読むみたいに、迷いなく歩く。ザハークは半歩風下、耳を細かく動かしながら、土の上に新しく落ちた匂いを拾った。
「右前、古い爪痕。昨夜の通り道だ、避けるぞ。」
エイゼが指で短く合図を送り、列は静かに角度を変えた。ハクヤは剣帯を押さえ、足音を殺して続く。レイラは杖を短く持ち、背の水筒の口が揺れないよう片手で押さえ――。
「ひぃぃぃ小さい虫が飛んで来るよぉぉ……!」
額の前で手をぱたぱた。イブキはマフラーで口元を隠しながら、半泣きの声。
「ミミズも、でる?いま、出た?出てない?ねぇアビス!」
「いまのはヤスデ。無害。触らなければ大丈夫。」
「名前増やさないで〜!」
ガルツが肩で笑う。
「南の洗礼だぁ。慣れだ、慣れ。」
足元は徐々に柔らかくなり、やがて細い沢に当たった。倒木が一本、橋のように渡っている。苔で滑る。
「ハクヤ。」
エイゼが名を呼ぶ。ハクヤは頷き、先に渡ってロープを張る。アビスが結び目を固め、ザハークが一人ずつの背に手を当てる。
「足、ここ。苔は踏むな、木目に沿って。」
レイラがそろそろと進み、半ばで体勢を崩しかけ――。
「っと。」
ハクヤが片手で腰を支えた。レイラは照れ笑いで
「ありがとう。」
とだけ言い、無事対岸へ。イブキはというと、渡る前から目を閉じている。
「目を開けろ。閉じると余計に落ちるぞ。」
「落ちるって言わないで!言葉が弱気!!」
結局、彼女は片手でロープ、片手でハクヤの荷の端を掴んで、ぴょん、と身軽に渡り切った。
森の奥はさらに湿った。葉から葉へ、雨の名残りが滴り続け、どこからともなく甘い花の匂い。アビスが立ち止まり、掌を上げる。
「ここからは踏み跡を広げないで。左は蟻の道。踏むと噛まれるよ。」
道はほそり、空は緑にふさがれた。ときどき差す陽の矢が、ハクヤの古布の縁に金を差す。ザハークが鼻先で湿りを測り、低く呟いた。
「……この先、雨が降る。匂いが変わった。」
「昼までに尾根の手前へ。」
エイゼが方角と時刻を頭に入れ直し、歩みを少しだけ速める。ガルツが背の銃の油布を軽く当てる。
「湿気で錆びる前にケアだぁ。南は道具が泣く。」
「人も泣く……!」
イブキのボヤきに、ハクヤが横目で笑う。
「泣いてる暇があったら足を上げろ。段差に根があるぞ。」
「はーい!」
その軽口の直後、前方でアビスが指を二度、膝に当てた。全員がぴたりと止まる。
耳に、低い唸り――ではない。遠い太鼓のような重い音。地の底からあがってくる、熱の気配。
「……南の空気だ。」
アビスが呟く。
「こっから先はミティカの手前。湿地が増える。宿営は尾根を巻いたところ。煙は低く、灯りは布で絞る。」
誰も異論はない。湿った世界の中、列は再びほどけるように動き出した。
*
日が傾く前、尾根の陰に小さな平地を見つけた。アビスが枯れ枝と青い葉を分け、煙の少ない焚き火をつくる。ガルツはタープを張り、ハクヤとザハークが落枝で簡易の腰掛けを組む。レイラは足首に草の汁を塗り、イブキは――。
「ミミズチェック……よし、ゼロ!本日の勝者はこのクノイチ!」
「誰と戦ってる。」
ハクヤが笑い、湯が静かに湧き始める。紅茶の香りが湿った森で意外なほど鮮やかに立ちのぼった。
カップが一周する頃、風が少しひんやりする。
「明日は境界線だ。」
エイゼが火の縁越しに告げる。
「ミティカへ入れば、目も耳も増える。気を抜くな。……だが、ここまでは上出来だ。」
アビスは返事をせず、火に手をかざす。その横顔に、森の橙が淡く映った。
夜の森は湿り気を含んだ音で満ちていた。
遠くの梟、近くの虫、焚き火は煙を立てぬよう落としてあり、三つのテントだけが低く脈打つ。
一つ目――ハクヤとガルツのテントからは寝返りの布ずれ。
二つ目――レイラとザハークは静かで、獣の耳だけが風に合わせて揺れる。
三つ目――イブキとエイゼ。
「ねぇぇぇ今さっき耳元でプーンって鳴った!絶対蚊がいるって!!」
「落ち着け。……殺虫剤を撒くぞ。」
シュッ――
「げほっ、げほっ……!」
「……っ、むせる……外だ!」
イブキとエイゼは同時にファスナーを引きちぎらん勢いで飛び出し、夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。咳が収まるまで膝に手をつき、肩で呼吸する。
見張りのアビスが、焚き火の影から苦笑いで顔をあげる。深紅の瞳が闇の色を吸っている。
「……キミたち、大丈夫かい?」
「……少し、やらかした。主にこいつが。」
エイゼが親指でイブキを指す。
「え、えぇー撒いたのはエイゼじゃん!げほっ、げほっ……!」
「テントの中で殺虫剤は、そりゃあね。」
アビスは肩をすくめた。
「気持ちはわかるけど、密閉空間だと僕らが先に倒れる。」
背後のテントが二つ、わずかにざわつく。
「こっちは問題なし……だが、匂いが強い。」
ザハークの低い声。
「うぅ……目がしみる……。」
レイラが寝袋の中で鼻を押さえる。
ガルツは布団から顔だけ出してぼそり。
「蚊一匹に全滅する部隊、聞いたことねぇぞ……。」
「対策、やり直そう。」
アビスは手際よく指を立てる。
「一、ランタンはテントから十歩ほど離して置く。光に蚊を寄せて、こっちは暗く。二、スプレーは外側のメッシュに薄く。中じゃなくて外。三、薄荷油を肌の外側に少量――耳の後ろ、手首、足首。匂いで寄らせない。」
そう言って、ポーチから小瓶を出す。ほの甘い清涼の匂いが夜気に溶けた。
「はい、イブキ。」
「は、はい……。ぷーんの術は、これで破れる……?」
「術とか言うな。」
エイゼが無表情に返すが、口調は柔らかい。自分の耳後ろにも薄く塗りながら、反省の咳をひとつ。
「……次からは外だ。」
ランタンが離れた枝に吊られ、金色の輪が森の奥で揺れる。アビスがメッシュに軽くスプレーし、ファスナーの下端の隙間に布テープを貼った。
「これで侵入経路はほぼ封鎖。どうしても入ってきたら、手で叩くより“吹く”。風で動きを鈍らせてから、だよ。」
「忍法・ふーふーの術……。」
イブキが真顔で頷く。
「名付けるな。」
準備が終わると、森の層がふたたび静けさを取り戻した。遠いところで蚊柱がランタンへ流れ、テント周りは嘘みたいに静かだ。
「じゃ、もう一回寝直す。」
ガルツが寝袋へ戻り、
「今度プーン言ったら、俺は耳栓するからな。」
と付け足す。
「ありがと、アビス。」
レイラが小声で礼を言い、ザハークは鼻先で薄荷の匂いを確かめてから
「……悪くない。」
とだけ言った。
イブキは自分の手首の匂いをくんくん。
「はぁ〜、スースーする。これ好きかも。」
「効いているうちに寝ろ。」
エイゼがテントの口を指す。
「押忍。……ねぇエイゼ。」
「なんだ。」
「さっきのは、半分はあたしが悪かった。ありがと。……それと、ごめん。」
短く間があって――エイゼは頷いた。
「次に活かせ。以上だ。」
「はーい。」
イブキがテントへ戻る。布が擦れる音、寝袋が体温を受け取る音。やがて呼吸は落ち着き、プーンも聞こえない。
焚き火の芯が、ぽつ、と小さく跳ねた。薄荷の匂いは落ち着き、森の層は再び静けさを取り戻している。アビスは岩に腰を掛けたまま、闇に目を馴染ませていた。
「……アビス。」
背後から、足音をほとんど残さずにエイゼが来る。テントの口は閉じられ、他の寝息は安定している。
「なんだい、エイゼ。」
「……私は、あなたのことが心配だ。」
アビスは苦笑いだけ浮かべ、少しだけ肩をすくめた。
「……僕は大丈夫だよ。感情のままに動かないようには努力している。けど、少しだけ――ゾワッとするんだ。」
「心当たりはあるのか?」
「なんていうか……霊感に近いのかな。風の向きが変わる前、空気の温度だけ先に変わる、みたいな。ミティカは、今じゃ廃れた魔術の発祥の地だって言うし……土の奥に残ってる記憶に、皮膚が触れてしまう感じ。」
アビスは自分の指先を見た。血の気が引いたように白い。
「南へ近づくほど、ああ、来たな、って。……それが復讐の匂いなのか、土地の匂いなのか、まだ判別がつかない。」
エイゼは隣に立ち、視線だけで森の縁を掃いた。しばし無言。やがて、短く息を吐く。
「理屈で割れないものは、段取りで割る。三つ、決めよう。」
「三つ?」
「一、胸が暴れたら“合図の言葉”を言え。『戻る灯』だ。
二、呼吸を数える。三で吸って、五で吐く。それを二回――それでも戻らなければ、私が肩を掴む。
三、独断で離れるな。必ず誰かのそばに居ろ。単独行動は禁止。」
アビスは目を細め、ひとつずつ飲み込むように頷いた。
「了解。“戻る灯”、ね。……ありがと、エイゼ。僕は僕の足で行く。でも、戻る場所も忘れない。」
「それでいい。」
梟が遠くで一度鳴き、風が一段低くなる。アビスは言われたとおり、静かに吸い、長く吐いた。三拍、五拍。二度、繰り返す。
「――戻る灯。」
試すように、アビスが小さく言う。エイゼは即座に返した。
「ここにある。」
それだけで、胸のざわめきが半歩ぶん退いた気がした。アビスは肩の力を抜き、南の暗がりを見据える。
「ミティカに入ったら、土地の“記憶”に引っ張られるかもしれない。……でも、引きずられはしない。やるべきことは、決めてある。」
「ならば、私が横で“数”を刻む。お前が忘れたら、代わりに数える。」
「頼りにしてる。」
二人はしばらく、言葉を置かずに並んだ。焚き火の芯がまたひとつ弾け、薄荷と土の匂いが交じる。東の端が、かすかに薄くなりはじめている。
「交代まではここにいる。」エイゼが言う。「見張りは二人で十分だ。」
「うん。……おやすみ、とは言わないでおくよ。」
「そうだな。夜はまだ、こちらの番だ。」
アビスはもう一度、三で吸い、五で吐いた。
朝が来るまで、二つの影は焚き火の脇で、同じ方角を見ていた。




