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焔翼のグリフォン  作者: いねの
第二部 第2章 灯の寮と忍者
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二人分の理由

 食堂の蛍光灯は白く乾いて、磨かれた床の匂いに洗剤の甘さがまだ残っていた。冷水機のタンクがぽこりと鳴り、紙コップの縁に小さな滴が集まる。ハクヤはベンチに腰を落とし、背を軽く丸めて肩甲骨のあたりに指を当てた。そこだけ体温が違うみたいに、じんわりと疼く。


「俺はやっぱり……人間じゃないんだな。」


独り言は空っぽの食堂に吸い込まれ、遠くの換気扇の音に紛れた。さっきの稽古の残響――三で吸って五で吐け――が胸の裏で薄く繰り返されるたび、背の内側でメキ、と乾いた記憶が鳴る。


「しかも、俺は無理矢理生まれてしまったって、言ってたよな……エイゼ。」


紙コップを握る指に力が入り、縁が不格好に歪む。喉を湿らせても、胸の奥の渇きは別のかたちのまま残った。


「……俺、本当に力を制御できるのかな。下手したら、皆を傷つける可能性だってある……。俺は……生きててよかったのか……?俺は……兵器なんだよ……な……。」


小さく吐いた息が、冷えた空気に溶けて消える。背中の疼きは波のように引いては寄せ、意識の岸を濡らした。


そのとき、廊下から足音。軽い布擦れと、癖のある足取り。出入口の影が揺れ、アビスが食堂に入ってきた。夜の気配を連れてきたみたいに、コートの裾がふわりと揺れる。


アビスはハクヤの向かいに腰を下ろし、机に片肘をつく。


「そんな顔して……どうしたんだい、ハクヤくん。稽古が上手くいかなかったのかい?」


「アビス……。」


「でもハクヤくんなら大丈夫だよね、キミの筋肉が物語ってる。」


「あ、ああ……まあな……。」


アビスは唇の端を上げかけて、すぐに片眉を下げた。


「……とか言ってみたけど、大丈夫じゃなさそうだね。」


ハクヤは視線を落とし、握った紙コップをもう一度握り直す。


「……俺さ、普通の人間じゃないってのが……すごく怖い……下手したらお前のことだって傷つけるかもしねぇ……。俺に兵器の血が流れてるってのが、怖いんだよ……。」


「……そうかぁ。」


アビスは苦笑いを浮かべて、指先でテーブルの木目を一度、なぞった。胡散臭い笑顔の仮面が外れて、ため息が素の温度で落ちる。


ハクヤは言葉を探すみたいに、喉を鳴らした。


「しかも俺は……無理矢理生まれて来てしまったんだ……エイゼは、そんなの望んでなかったんだよな……。俺なんか……俺なんかが生きてて良いのか……?どうやって生きればいいんだよ……。」


アビスは胡散臭い笑みを完全にやめ、長く息を吐く。


「……あのさ。」


ハクヤはそれを遮るように、必死に言葉を押し出した。


「俺なんかが、生きる意味無いよな……。」


アビスはまっすぐに名を呼ぶ。


「ハクヤくん。」


「……俺なんか、結局は人を傷つけるために作られた兵器だろ。冥土にとっちゃただの実験の産物だ。俺が生まれたこと自体が間違いなんだよ……。」


怒鳴り声ではない。怒りよりも濁った自己嫌悪で、握った拳は小刻みに震えている。肩甲骨の奥がまだ疼いて、背の内側からじわじわと不安が滲み上がる。


その言葉に、アビスの胸のどこかで積もっていたものが弾けた。椅子の脚が床を擦る鋭い音。赤い瞳がぎらりと光り、彼は一歩、また一歩と距離を詰める。


「いい加減にしてよハクヤくん、ずっとムカつくことばっかり言いやがって……!」


荒い息の熱が机の上に落ちる。


「貴様は己の価値に全く気付いてない!!! 下手すれば殺すところだ!!!」


不意の刃のような語気に、ハクヤはほんの一瞬だけ怯み、歯を食いしばって虚勢で繕った。


「んだよ……俺を殺すってのかよ……。」


かすれた声。飲み込めない苦さが喉に引っかかったまま出る。


アビスは胸の奥から言葉を掬い上げ、ぶつけるみたいに放った。


「……キミさ、いつもそれだ。『俺は兵器だ』『間違いだ』って言っておけば、傷つかなくて済むと思ってる。違う?」


「違ぇよ!」


「違わない。キミは自分を先に殴っておけば、他人から殴られた時の痛みが減るって思ってる。そうやって本当の意味で、誰にも触らせないんだ。」


「てめぇに、何がわかるんだよ!」


「わかるよ。僕も作られた側だから。……検体ナンバー003、アビス。合成獣、黒のキマイラ。生まれた瞬間から、体の中に使い道だけが詰め込まれてる。」


吐き出すたびに声が震える。アビスは視線を逸らさず、喉の奥で熱を押し上げた。


「……羨ましいんだ、ハクヤくん。僕はずっと羨ましかった。キミの瞳の色も、立ち方も、彼女がキミを見る時だけ微かに柔らかくなる頬の線も。……エイゼの子であるキミが、羨ましくてたまらない。」


「……は?」


呆けたように零れたハクヤの声。その隙を自分で埋めるように、アビスは拳を握り直して吠えた。


「それでもだよ! 僕は、キミが『間違いだ』なんて言葉で自分を捨てるのが、どうしようもなくムカつくんだ! 死ぬほどムカつきすぎて……本当に、今、殺すところだった!!!」


「だって……!!」


「黙れ、クソガキ!!!」


刃物みたいな一喝。アビスの赤い眼が血の色を増し、睨みが音を立てる。


「その気になればキミのことなんか、いつでも殺せるから。『俺なんか存在価値がない』とかほざくのなら、二度とその口を開けるな!」


唇を噛んだまま、ハクヤは涙を堪えて反発する。


「……るせぇよ。」


アビスの声が掠れた。


「なんで、僕じゃないんだよ……! キミの遺伝子を骨の髄まで抜き取ってやろうか!? 死にたかったら、すぐにでも僕と立場を代わるんだな!!!」


「じゃあ俺を殺してみろよ!!!」


堰が切れたような叫び。頬を伝う涙が、光を砕いて落ちる。


アビスは踏み込む。肩が跳ね、拳が上がり――


「ああ言ったな!! 貴様なんか……!!」


振り下ろされるはずの瞬間、身体が硬直した。拳の先にいたのは、恐怖で震えながらも必死に生きようとする光を宿した、涙の琥珀だった。


拳は空を切り、逸れた軌道のまま石壁を叩き割る。鈍い音が食堂に響き、ひびが走り、粉塵がぱらぱらと降った。


「……クソッ……!」


拳を押さえ、肩で荒く息をするアビス。震える背中。ハクヤはその場に膝をつき、涙を止められない。


「俺は……どうしたらいいんだよ……。」


アビスはしばらく呼吸を荒らげたまま、低く言った。


「……僕は、キミを殺したくなんかない。……羨ましいけど、それでも……キミが死んだら、あの人が泣く。僕は……そんなの耐えられないんだ……」


冷たい沈黙が二人の間に沈む。拳の跡を刻まれた壁だけが、言葉より雄弁にさっきの激しさを語っていた。


視線は交わらない。だが、同じ「実験体」として背負う痛みだけが、確かな重みでそこにあった。


食堂に落ちた粉塵が、まだ光の筋の中で揺れていた。壁には拳の跡がひびを走らせ、アビスはそこにめり込ませた右手を押さえたまま、肩で息をしている。赤い瞳には怒りの残光が滲み、吐き出すように声が落ちた。


「……はぁ、気が狂いそうだよ……。」


膝から崩れたハクヤは、涙で濡れた顔を上げる。アビスが通り過ぎようとした瞬間、震える指先が彼の上着の裾を掴んだ。


「じゃあ……じゃあ、少しでも生きたいって思えるようにしてくれよ……!!!助けてくれよ……!!!」


虚勢も強がりも剥がれ落ち、十八歳の青年の嗚咽だけが剥き出しになる。アビスは足を止め、背を向けたまま瞼を閉じた。


「……そう言われたら、答えるしかないじゃないか。」


吐き捨てるように、でもどこか自分に向けるみたいに続ける。


「本当に、見ていてムカつくんだよ……キミは。」


差し出された指先は不器用に震えていた。怒りの荒さとは裏腹に、どこか掴み方を知らない手つきだ。ハクヤは泣き声を隠さず、床に崩れたまま息を継ぐ。


「羨ましいんだよ、キミが。ずっと、ずっと。……彼女がキミを見る時だけ柔らかくなる頬の線。僕には、あの線が向かない時間が長かった。」


「……悪かった。」


「謝らなくていい。僕が勝手に嫉妬してるだけ。……くだらないだろう?……なんだか、この世界に疲れてくるんだよね。僕の願いだなんてひとつも叶わない、酷い世界だよここは。」


「……俺もだ。俺だって、酷い世界だって思ってる……。」


「僕から見たら幸せ者のキミが言ったところで、ムカつくだけだよ。」


「ごめん……。」


「……ふん、僕のことなんか一切知らない癖に。」


「……じゃあ、教えてくれよ。」


一度俯いたハクヤが、掠れ声で顔を上げる。


「……教えてくれ。」


押し殺されていた何かが、胸の内できしむ。アビスは短く息を吸い、低く語り始めた。


「――僕はね」


湿った闇の底から這い上がるような声。


「『深淵の一族』に生まれた。影と一体になる力を持つはずの血統だ。でも、僕には何もなかった。影に溶けるどころか、夜が怖くて泣くような、出来損ないの子どもだった。」


「だから僕は森に捨てられた。獣にも、人にも見つからないように、ただひたすら震えてた。……そこで彼に拾われたんだ。……あの、冥土の創設者の男に。」


赤い瞳がわずかに鋭さを増す。


「温かい救いじゃない。拾うって言葉がぴったりの、物としての回収。『使い道』を見つけて、番号をくれた。――検体ナンバー003。アビス。首輪に刻まれた僕の名前は、最初から出口のない回廊みたいなものだった。」


「実験はね、痛いとか怖いとか、そういう単語で済ませる種類のものじゃなかった。僕の体には、黒い獣の歯や爪が差し込まれていって、うまく噛み合うまで何度も砕かれた。やがて――『キマイラ』になった。」


アビスは自嘲気味に片手を持ち上げる。


「全身じゃない、一部分だけでも変えられる。手を獣の前脚に、背中にざわざわと別の骨を……そうやって形を歪められた。

うまくやる術はそこで覚えた。痛い時ほど笑え。怖いほど軽口を叩け。そうして『使い道』以外の自分を見せるな。……嫉妬も、羨望も、胸の底で固めて、糊で貼り付けた仮面の内側へ押し込めて、ね。」


「……アビス。」


「僕の嫉妬には、形があった。キミの琥珀色の瞳、立ち方、あの人――エイゼが、キミを見る時だけ柔らかくなる頬の線。僕には向かない線。……それでも、キミが『間違いだ』なんて言って自分を捨てるのは、許せなかった。僕の中の何かが、そこだけは黙っていられなかった。」


堰を切るように吐き出す。


「キミは兵器じゃない。キミの中の“使い道”だけを切り抜いて、そこだけ見ている誰かの目に、僕らは合わせなくていい。……合わせ続けたら、死ぬ」


「……じゃあ、どうすりゃいい。俺、どうやって生きりゃいい?」


涙で濡れた瞳が、必死に答えを探す。アビスは視線を伏せ、肺の奥まで空気を満たした。


「――それを僕に聞くのか。……キミ、本当にムカつくよ。」


それでも、その声は震えていて、吐息の端には、怒りだけではない何かが滲んでいた。

アビスは視線を逸らし、乱れた前髪をかきあげた。


「……どうやって生きるかなんて、僕自身まだ見つけられてないんだ。なのに、キミに答えを渡せるはずがない。」


突き放すような声音に、苦い吐息が混じる。

ハクヤは涙に濡れたまま、それでも掴んだ裾を離さない。


「……それでもいい。答えがなくても……お前の言葉で、聞かせてくれよ。」


アビスは喉を震わせ、笑うとも泣くともつかない声を漏らした。


「……はは、やっぱりキミはずるい。僕が一番隠しておきたいところを、平気で抉ってくる。」


そして、ゆっくりと言葉を継ぐ。


「……僕はね、生き方なんてわからないまま、ただ残された道を這ってきただけだよ。

生きたいと思ったことなんて、実はほとんどない。ただ“死にたくない”だけで、実験にも拷問にも耐えてきた。」


拳がきしみ、赤い瞳が微かに揺れる。


「それでも……気づけばまだ生きてる。

 そして今、キミが裾を掴んで泣きながら『助けてくれ』って言ってる。……それが、僕を止めたんだ。」


ハクヤは嗚咽の合間に、かすれた声を絞り出す。


「……じゃあ、俺も……死にたくねぇよ……生きたい……。」


その言葉に、アビスは深く瞼を閉じた。


「……仕方ないな。」


彼はしゃがみ込み、ハクヤの手首を自分の掌で覆う。乱暴でぎこちない、しかし決して振り払わない手つきで、震える十八歳の手を受け止めた。


「生き方なんて、僕にもわからない。

 だけど……こうしてしがみつかれたら、少なくとも“二人分”は生きる理由になる。」


赤い瞳に灯った光は、もはや怒りの残滓ではない。諦め切れない熱が、淡くそこに在った。


ハクヤは顔を覆い、大声で泣く。


「……っ、くそ……っ……俺、弱ぇな……! こんなんで戦えるわけ……っ……。」


アビスは口の端をわずかに歪め、呟く。


「弱いからだよ。弱いから、戦えるんだ。僕らは兵器なんかじゃない。……ただ、弱い人間だ。」


そう言って、アビスはハクヤの肩に手を置いた。

やがて嗚咽が少し落ち着くと、ハクヤは赤く腫れた目で見上げる。


「……なぁ、アビス。お前は……俺のこと嫌いか?」


アビスは鼻で笑い、そっと目を細めた。


「……大嫌いだよ。羨ましくて、妬ましくて、何度だって殺したくなる。」


短い沈黙ののち、言葉を繋ぐ。


「それでも、もう……二度とキミを“間違いだ”なんて呼ばせない。僕が許さない。」


堪えていた涙が、また溢れる。


「……ありがとよ。」


食堂の冷たい床に座り込んだまま、二人はしばらく言葉を交わさなかった。

ただ、互いの存在がそこにあることだけを確かめるように――夜の静寂が二人を包んでいた。

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