翼が生える兆し
出発前日の夕刻。訓練所の床は磨かれて白く、壁のマットが薄い汗の匂いを返していた。
向き合うのはエイゼとハクヤ。刃は使わず、二人とも木剣と素手――ただし、間合いは本気だ。
エイゼがふっと重心を消す。次の瞬間、横ではなく背の死角へ“気”だけを滑らせた。耳の後ろ、空気が裂けるほど近いところで踏み込み音――わざと、獣の本能を撫でるやり方だ。
ハクヤの瞳孔が一気に開く。琥珀が濃くなり、後頭部の髪がざわりと逆立った。
木剣を握る指――爪が、メキ、と音を立てて伸びる。ワシの鉤爪のように鋭く、指の付け根から力が湧き上がる。肩甲骨のあたりで関節が小さく鳴り、背筋が獣の線を描いた。
「――来い。」
エイゼが正面に戻って、胸元へわずかな隙を見せる。ハクヤは反射で踏み込んだ。低い唸りが喉にかかる。視界は狭く、距離は縮む。木剣が一閃――
カン、と乾いた音。エイゼの逆手が柄をはたき落とし、もう片方の手のひらがハクヤの胸骨に軽く触れた。押さない、ただ“止める”触れ方。
「止め。」
短い声と同時に、エイゼはハクヤの手首を取って呼吸を刻ませる。
「三で吸って、五で吐け。……そうだ、もう一度。」
荒い息が二呼吸で整い、鉤爪だった爪がゆっくりと元の形へ戻る。逆立っていた髪が落ち、琥珀の色も静まった。肩甲骨の奥のざわめきが、遅れて引いていく。
ハクヤは歯を食いしばったまま、視線だけで謝る。エイゼは首を振った。
「すまない、ハクヤ。わざとお前のトリガーを引くように仕向けた。……だが、上手く制御できたな。」
ハクヤは拳を握り直す。
「最後、意識が飛びかけた。でも、お前の声で戻れた。」
「戻る道を身体に覚えさせる訓練だ。今の手応えを忘れるな。興奮は刃に乗せず、間合いに溶かせる。」
エイゼは木剣を拾って柄を差し出す。
「もう一手、軽く流して終わろう。今日はこれで十分だ――上出来だ。」
ハクヤは深く息を吸い、五つ数えて吐いた。爪は人の長さ、目は人の幅――そのまま構えを取り直す。
外では、旅立ち前の風が、低く、長く吹いていた。
エイゼは木剣を立てかけたまま、ひとつだけ長く息を吐いた。
(――やはり、この子は私の血を受け継いでいる。確実に。いつかは来るのだろう、完全なるグリフォンになってしまう時が。その時までに、必ず制御できるようにしなければ。武器ではなく、意志として。)
ハクヤは肩を回し、背に手を当てる。
「なんか……背中のあたりが、メキメキって鳴った気がした。気のせいかもしれないけどよ。」
エイゼは近づき、肩甲骨の内側へ指を添えた。熱がある。皮膚の下で、筋がいつもより硬い。
「痛むか?」
「鈍い。じんわり来る感じ。」
「……翼が生える予兆かもしれないな。」
言いながら、エイゼは視線を落とすことなく告げる。
「いいか、段取りを決める。ひとつ――まず三で吸って五で吐け。ふたつ――視界を広げる。目の前ではなく、四方の気配を数える。みっつ――独りで突っ込まない。必ず合図を待て。私が『戻れ』と言ったら、そこへ戻る。」
「……了解。」
「今夜は冷やしすぎるな。温めて血を回せ。肩甲骨の可動を出すストレッチを入れて寝ろ。明朝、もう一度、同じ手順で呼吸から始める。」
エイゼは掌を離し、短く頷いた。
「兆しを怖がる必要はない。恐れるのは、無順の暴走だけだ。さっきみたいに“戻れる”なら、先へ進める。」
ハクヤは深く吸い、ゆっくり五つ数えて吐いた。
琥珀の色は落ち着き、逆立っていた髪も自然に寝る。
「……ああ。次は、もっと上手くやる。」
「上出来だ。今日はここまでだ。」
訓練所の窓の外、旅立ち前の風が白い壁を撫でていく。
エイゼはその音を聞きながら、胸の内でただひとつ、固く繰り返した――“翼が出るその日までに、必ず、戻る道を身体に刻ませる”。




