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焔翼のグリフォン  作者: いねの
第二部 第2章 灯の寮と忍者
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南の国へ

 朝食が片づくと同時に、エイゼは長テーブルいっぱいに地図を広げた。折り癖の谷に非常灯の白が落ち、油のしみた端がふわりと反る。


「次の遠征に入る。――イブキが加わったぶん、選べる手が増えた。」


エイゼが指で広域をなぞると、ガルツが顎髭をいじりながら口を開いた。


「万が一はオボロ組の頭に頼ろうぜ。連絡の筋は通ってる」


「道場の皆も、すっごく強いからね!」


とイブキが胸を張る。


ハクヤは地図の端を押さえ、迷いなく言った。


「この調子で仲間を増やす。数じゃなく質だが、面も広げたい。」


エイゼは頷き、二本の指で別々の道を示す。


「西。砂漠ザハラを越え、西の国オルドナへ――補給は厳しいが、回り込める。もう一つは南。熱帯のミティカへ。どちらも独自の秩序があるが、冥土の信仰はそこそこ残っているはずだ。……覚悟して行かねばならん。」


そのとき、小さな沈黙。地図の南西、擦れて薄い『セファレル』の文字に、アビスの視線が留まっていた。


「……南を目指してみようよ。」


彼はためらいがちに口を開いた。指先が、ミティカの上でいったん止まり、そこからさらに南西へ滑る。


「南西には、僕のルーツがある。セファレル。……だから、なにか役に立てるかもしれない、かな」


 エイゼの眼差しがわずかに柔らぐ。


「……本当に大丈夫か?」


アビスは、深紅の瞳を細めて笑った。どこか遠くを見るように。


「大丈夫。ちょっと、やりたいことがあってね。」


重い言葉ではない。けれど、芯がある響きだった。


「決まりだな。南へ。」


ハクヤが線を引く。


「まずはミティカで足場を作る。湿度対策、装備の防錆、薬は多め。途中で西へ折れて……セファレルは、機を見てだ。」


「了解。俺は防水処理をやっとく,」


ガルツが立ち上がる。


「ボクは応急薬と解熱剤を増やすね」


とレイラ。


「……風下の読みは任せろ」


ザハークが短く言い、鼻先をわずかに上げた。


「案内と市井の偵察はあたし!」


とイブキ。エイゼが苦笑して付け加える。


「――足手まといになったら置いていく。」


「ならないから!」


地図の上に、新しい線が一本刻まれた。北東の拠点から、南へ、そして南西へ――白い紙に走るその線は、やがて薄い『セファレル』の字の手前で止まり、小さく折り返しの印が打たれた。準備が、また始まる。


 夜。窓の隙間に南の風が細く鳴り、寮はいつもより静かだった。


アビスはベッドに腰をかけたまま、指先で毛布の端を折っては戻し、折っては戻した。眠気は来ない。

ノックが一度。返事を待たず、エイゼが静かに入ってくる。非常灯の白が、彼女の前髪の白い一房を薄く縁取った。


「……大丈夫じゃないだろう、アビス。」


言われて、アビスは言葉を飲み込んだ。黙ることで、図星だと認める。


「生まれの地に戻ってまで、やりたいことって、なんだ?」


少しの間。アビスは視線を床から上げ、真正面から答えた。


「……復讐だよ。」


「――なぜ?」


「僕が孤児院に来る前のこと、誰にも言ってなかったよね。……ごめん、エイゼ。」


「怒りはしない。過去のことを聞かせてくれ。」


アビスは一度息を整え、言葉を選ばずに出した。


「僕は“深淵の一族”の血を引いてる。影に潜む力を持って、余所者は影から仕留めて生かして返さない――そんな掟の部族。

 でも、僕は違った。血は継いでるのに、力は開かなかった。五歳で追放された。長も、……母も、僕を置いていった。」


部屋の空気が薄くなる。エイゼは目を伏せるでも、憐れむでもなく、ただ受け止める目で聞いた。


「どうしても、復讐がしたいのか?」


「うん。……この血を引いてるからこそ、終わらせたい。『外』の人を暗殺する掟も、力のない子を切り捨てる輪も。

壊すための復讐だよ。僕個人の痛みだけじゃなくて、同じ痛みがこれ以上増えないように。」


エイゼは短く息を吐き、ゆっくりとうなずく。


「それは“復讐”と呼ぶには、少し違う。……終わらせる意思だ。私は否定しない。」


彼女は机の端に指を置き、淡々と続けた。


「ただし、順番を守る。怒りは強い力だが、順番を乱す。明日からは偵察が先、接触は後。無辜(むこ)に刃を向けない。証を集め、道を断ち、出口を確保する。――仲間を危険に晒す選択は、私が止める。」


アビスは小さく笑った。どこか救われた顔だった。


「うん。……そのために、僕が先に立つよ。影は開かなかったけど、影を見る目はある。道も、匂いも、気配も拾える。役に立てる。」


「知っている。お前は“要らない子”じゃない。ここではな。」


言い切って、エイゼは近づくとアビスの肩に軽く手を置いた。重くも、軽くもない圧。


「数日後、南へ出る。ミティカは湿度が高く、音が遠くまで通る。夜は虫が騒ぐ。――お前の耳と眼を借りる。」


「任せて。」


短い言葉に、迷いはなかった。

エイゼはドアへ向かいかけて、振り返る。


「怒りは……順番を守らせれば、刃ではなく舵になる。忘れるな。」


「うん。……エイゼ。」


「なんだ。」


「聞いてくれて、ありがとう。」


エイゼはわずかに口角を上げた。


「……おやすみ。」


ドアが閉まる。外の風が一段静まり、部屋の暗さがやわらかくなった。

アビスは毛布の端をもう一度折り、深く横になる。胸の奥で渦を巻いていた黒いものが、少しだけ形を変える――刃から、舵へ。

目を閉じる前、彼は南西の地図の片隅に薄く消えかけた文字を思い浮かべた。セファレル。


(終わらせに行く。仲間と、順番で。)


今度は、眠気が来た。


 また別の夜。廊下は配電盤の唸りだけが薄く響き、灯りは非常灯の白に絞られていた。

 イブキは足袋の先で音を殺し、エイゼの部屋の戸口へ身を伏せる。柱と戸の隙間――ほんの紙一枚ぶんの闇に耳を寄せた。


「一族全員、皆殺し、か?」


「……。」


「復讐の気持ちはわかる。だが、罪のない子供の命まで奪うのか?」


室内で椅子がわずかに軋む。革に爪が触れる、短い擦過音。


「できるのなら、一族を抹消したいよ……でも、そんなの、ね……。」


「……キマイラの爪を出すな、落ち着け、アビス。」


「うぅ……。」


息を整える音が続いた。吸って、吐いて、もう一度。金属が当たる微かな音――指先でナイフの座を外に向けたのだろう。エイゼの声は淡々として、揺れない。


「怒りは順番を乱す。順番を守れ。終わらせたいなら、刃ではなく手順だ。」


「……わかってる。わかってるよ。」


沈黙がひとしきり落ちて、やがて湯の入ったカップが卓に置かれる音。匂いのない夜の空気に、ほんのわずかな温度が混ざった。


(復讐……?)


イブキは喉の奥で言葉にならない声を転がし、そっと踵を返した。今日は、気づかれない。気配を消し、廊下の影に溶ける。

胸の中で、紙のように薄い決意が一枚、音もなく重なった。


(もし爪が出そうになったら――引っ込めさせる。あたしが隣で、何度でも。)


彼女は忍び足のまま、自室へ戻る。扉の向こう、二人の声はもう聞こえない。ただ、風のない夜が、寮の骨組みの奥で静かに鳴っていた。

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