這い寄る影
その頃、冥土本部。
兵舎の廊下は朝の点呼前からざわついていた。蛍光灯の白に、囁きが薄く渦を巻く。
「聞いたか――一日で退団したやつがいる。」
「しかも実験体だってよ。」
「名前は……ハクヤ・ヴェルネ。」
「初日に生物兵器に絡まれてた、あの新顔か?」
「髪はボサっとしてて、やたらクールぶってたあいつだよ。」
靴音が交錯し、噂は次の区画へ滑っていく。
最上層、強化ガラスの扉の向こう。白衣の男・リンドウは、白髪まじりの前髪を汗で貼りつかせ、巨大な背に頭を下げていた。
背の主――最高司令官にして創設者、アルマゲドン。黒い外套の肩がかすかに動くたび、室内の空気が硬くなる。
「報告は以上です、最高司令――。」
大男は一言のためにだけ口を開いた。
「……ならば、連れ戻せば良い。それだけのことだ。」
踵を返し、無言で去る。扉が閉まる音が、判決だった。
静寂のあと、リンドウの奥歯がきしむ。こめかみの血管が浮き、背後の端末群へ怒声が落ちた。
「聞いたな。回収指令だ――対象003、006、007、特例指定。生存優先、不能なら素材回収!強化兵は増員だ。等級は問わん、AでもBでもいい、質より量で押し潰せ!監視網を南と東へ拡張、協力機関にも通達。足跡、噂、医薬の購入記録――影でも匂いでも拾え!」
部下たちが一斉に端末へ散る。印字音、通信音、武装ラックの解錠音が重なった。
リンドウは薄いモニタに浮かぶ若い顔写真を睨みつけ、冷えた指で画面をなぞる。
「――007。お前の“価値”は、ここで決まる。」
彼の声は静かだったが、室内の温度だけが、わずかに下がった。




