伝書梟
朝一番の中庭は、まだ空気が薄く冷たい。ベンチの鉄が夜露で光り、手押しポンプのハンドルに小さな水の粒が並んでいる。
その静けさを割るように、影が一つ、低く滑り込んだ。丸い顔、琥珀の大きな目。足には三日月の紋が刻まれた足輪。クチバシには白い封筒。
「ホホーウ!」
「フクロウ……?珍しいな。」
エイゼが中庭に姿を見せると、フクロウは短く「ホッ」と鳴き、軽やかに肩へ舞い降りてくる。ずしりとした小さな重み。クチバシで封筒を押しつける仕草は、仕事をわきまえた職人のそれだ。
「ずいぶんと人馴れしているな。その封筒、受け取るぞ。」
エイゼが封筒の宛名に目を落とす――『ミカヅキ道場 イブキ・カミシロ殿』墨の運びは道場らしく凛としている。
指先で喉もとを一度撫でると、フクロウは目を半分閉じ、うっとりと羽根をふくらませた。ずいぶん人馴れしている。撫で終えると、肩から軽く蹴り出すように離れ、もう一度高らかに鳴く。
「ホホーウ!」
東――ヒナモトの方角へ翼をひと打ち。広がった羽が朝日をはじき、影が屋根をかすめて遠ざかる。エイゼはしばしその軌跡を見送り、ぽつりと呟いた。
「ヒナモトの伝書梟か……面白い。」
封筒をポケットに入れ、二階へ向かう。廊下はまだ灯が弱く、古い床板が一度だけ小さく鳴いた。
イブキの部屋のドアを軽く叩く。返事はない。静かに開けると、洋室のベッドで、本人は見事に爆睡していた。マフラーだけは外して丸めて枕の上――その隣に、厚手のノートが一冊。
(……イタズラノート、か。)
エイゼは封筒を枕元のランプ台に置く。紙の端を整えてから、ノートを一枚だけ――ほんの一枚だけ、捲る。
『ハクヤは背中とうなじが弱点かも。後ろから「わっ!」は有効。おどろくと髪がネコみたいに逆立つ。おもしろい!またあそびたい!警戒心の高いエイゼ隊長、ワンちゃんザハークには要注意!アビスは意外と朝に強い。早起きは奇襲向きかも。レイラの部屋は可愛くて甘い匂いがする、侵入時はくしゃみ注意!ガルツの工具棚は触るな!爆発するかも。』
――くだらない。だが、的は外していない。
エイゼは息を小さく吐き、ノートを元の角度に戻す。封筒の上に短いメモを添えた。
『起きたら開けろ。食堂に来い――エイゼ』
ベッドの上、イブキは寝言で
「ラーメン七丁……。」
と幸せそうに転がった。エイゼは口の端をほんのわずかに上げ、静かにドアを引く。
廊下に出ると、遠くでボイラーが目を覚ます音。中庭の上空には、さっきの小さな影がまだ米粒ほどに見えていた。翼は東へ、こちらは朝の支度へ――それぞれの一日の始まりが、静かに動き出していた。
しばらくして――。
鼻先にあたたかい紙の匂い。寝ぼけ眼のまま手を伸ばしたイブキは、枕元の封筒に気づいて上体をむくりと起こした。宛名の墨が目に入る。
『ミカヅキ道場 イブキ・カミシロ殿』
「……道場から?」
一気に眠気が飛ぶ。封を“速攻”で破り、折り目を大事にひらく。中から、一通の手紙。
「イブキ、元気にしてるか?まさか、お前が俺より先に旅立つとは思わなかった。あの夜、シドウを救ったお前は、町でちょっとした英雄になっているぞ。やっぱり兄の俺より強いんだな。寂しくなったらいつでも帰ってこいよ。お前の好きなラーメンも作ってやる。ヒナモトはお前の味方だ。ニタカより。」
読み終える前から、視界がじんわりにじんだ。
「……ばか兄貴。泣かせにくるじゃん……。」
イブキは手紙を胸にぎゅっと抱きしめ、額で紙の角を軽くコツンと叩く。
封筒の下、エイゼの走り書きも目に入った――〈起きたら開けろ。食堂に来い――エイゼ〉。
「了解、隊長。……まずは報告、それから修行、そしてラーメン。」
頬を指の甲で拭って立ち上がる。
扉の向こうからは、紅茶とスープの匂い。イブキはマフラーをひと巻きし、手紙を内ポケットに滑り込ませると、その勢いのままドアを引いた。
――どん。
ちょうど前を通りかかったハクヤの胸に、真正面から突っ込んだ。硬い胸板の感触、ポケットの中の便箋がくしゃりと鳴る。二人とも一拍、息が止まる。
「なっ!? なにやってんだよお前……!!」
ハクヤが顔を赤くしてのけぞる。イブキも慌てて飛びのき、耳まで真っ赤。
「ご、ごめん! 悪気は無いの!」
視線がぶつかる。至近距離、息が触れる。数秒――長いようで短い沈黙。どちらからともなく、同時に半歩下がった。
「……ったく、朝からなんなんだよ。」
照れ隠しに吐き捨てるように言って、ハクヤは肩をすくめて通り過ぎる。足取りはいつもより少しだけ早い。
残されたイブキは、その場でくるりと背を向け、両手で顔を覆った。
「……あたしのバカぁ……!」
掌の内側まで熱い。ポケットの手紙が、とくん、と心臓みたいに存在感を主張する。
階段の踊り場。ハクヤは手すりに片手を置き、深く息を吸った。
「……なんなんだよあいつ、あんな小さな体で……くそっ……落ち着け、俺……。」
胸の鼓動を数えて、吐いて、また吸う。さっきぶつかった場所がじんわり熱い。
階下からは、紅茶の香りと食器の触れ合う音。いつもの朝が、何事もなかった顔で続いていく。二人だけが、ほんの少しだけ、呼吸のリズムを乱したまま。
食堂には、IHの低い唸りと湯の立つ音。紅茶の香りがやわらかく満ちていた。
アビスが鍋をかき回し、エイゼはパンをトレイに並べている。
入口で足音が重なった。ハクヤとイブキ。
目が合った瞬間、ふたりとも反射的に視線を逸らす。頬が同じ温度で赤い。
エイゼとアビスは、同時に小さく「フッ」と鼻で笑った。
「……次からは、気をつけろよ。」
ハクヤは目を合わせないまま、ぼそり。
「……わかってるもん。ハクヤこそ、気をつけてよね。」
イブキも、そっぽを向いたまま返す。
「……バーカ。」
聞こえるか聞こえないかの小声。
アビスは肩を揺らし、エイゼだけに届く声量で囁いた。
「青いねぇ〜。」
エイゼは紅茶を注ぎながら、口元だけで笑う。
「……朝食が冷める前に座れ。」
促されて、ふたりは向かい合わない席をそれぞれ選ぶ。
テーブルに湯気が並び、スプーンが小さく触れ合う音だけが続いた。
イブキはハッとして椅子の上にひざ立ちになり、ポケットから封筒を引っ張り出した。
「ねぇ、聞いて!」
場が彼女に向く。
「ミカヅキ道場から、ニタカ兄の手紙が届いたの!」
イブキは一度深呼吸して、便箋を声に出して読んだ。
――英雄だ、ラーメンを作ってやる、ヒナモトは味方だ……。
読み終わるころには、目尻がまた熱い。手紙を胸に当て、うつむいて笑う。
「……ばか兄貴。泣かせてくるじゃん。」
「いい兄貴だ。」
エイゼが紅茶を置いて言った。
ハクヤは、まだ少し頬を赤くしながら短くうなずく。
「……よかったな。」
「ありがと。」
イブキは目をこすって、ぱっと顔を上げる。
「帰ってきたら、みんなにもラーメン作ってくれるってさ!……たぶん!」
「たぶんの部分が心もとないな。」
「僕、細麺が好き。」
アビスが小さく手を挙げる。
「注文が早いな。」
エイゼが肩をすくめ、微笑む。
「きちんと返事は出しておけ。届けに来た伝書梟がきっと夕刻にも回るはずだ。」
エイゼが続けると、イブキは力強くうなずいた。
「うん、いま書く。――『英雄は照れるからやめてって。ラーメンは濃いめで。あたしは大丈夫、仲間がいる。』って。」
ハクヤがふっと笑う。湯気の向こうで、テーブルに置かれた手紙の白が少しだけ光って見えた。外では朝の風が庭木を揺らし、いつもの一日がまた動き出す。




