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焔翼のグリフォン  作者: いねの
第二部 第2章 灯の寮と忍者
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夜間の寮探索

 夜更け。灯の寮は配電盤の低い唸りと非常灯の白だけが生きていた。

イブキは眠れない。夕方に三時間も熟睡したせいで、目が冴えて仕方がない。だから――探検。


食堂の戸をすべり込むと、鍋や皿が逆さに伏せられ、金属の光が点々と眠っている。リビングの長椅子には毛布が畳まれ、背もたれにかかった修理途中のジャケットが糸の端を垂らして揺れた。

中庭へ出れば人工芝が夜風に撫でられ、手押しポンプの金具が頻りに冷えを帯びている。医務室には消毒の匂い、風呂場にはまだ微かに湯の気配。リネン室を開くと乾いた布の匂いが胸に広がり、倉庫は油と鉄と木箱の匂いが折り重なっている。


「ふふん、拠点の極秘ルート、全部制覇〜。」


るんるんと足取りは軽い。曲がり角をひょいと曲がった、そのとき――廊下の向こうから足音。ゆっくり、確かめるように。


暗がりに金色が二つ、灯った。

マントのフードを外したザハークだ。狼の横顔。黒い影のなかで、眼だけが静かに光っている。鼻先がひとつ、空気を嗅いだ。


「……イブキか。」


「正解。夜の巡回さんだね?」


イブキは背伸びして近寄る。好奇心が勝って、手がつい伸び――耳へ、そしてうしろへ。


「……触るな。」


低い声。けれど、その尻尾が、言葉と裏腹に、かすかに左右へ揺れた。


「オオカミというより、ワンちゃん?」


「……俺は犬じゃない。人狼だ。次、犬扱いしたら噛むぞ。」


言いながら耳は伏せ気味。だが、尻尾はなお、ゆるく振れる。


「でも尻尾が揺れてる〜。かわいい〜ワンちゃんだ〜。」


「……犬じゃない。」


諦めたように吐いて、ザハークは視線を逸らす。金の瞳が廊下の端から端へ、警戒の癖で往復する。イブキはその横顔を覗き込み、指先をそっと引っ込めた。


「巡回って、毎晩?」


「ああ。匂いと音を拾う。……この寮は夜が静かだが、静かさは守って確かめるものだ。」


「ふむふむ。じゃあ、邪魔しちゃ悪いなぁ。」


言いながら、また耳が気になって目が吸い寄せられる。ザハークは片眉をわずかに上げ、ため息を短く落とした。


「……眠れなくても、きちんと寝ておくんだぞ。明日、足が鈍る。」


「はーい、ワンちゃん。」


ぴたり、と尻尾の振りが止まり、耳がさらに寝た。


「……ガルル……。」


喉の奥で小さく唸って背を向ける。歩き出した肩越しに、尻尾がまたほんの少しだけ揺れてしまい、本人も自覚したのか、足取りがひと拍だけぎこちなくなった。


「おやすみ、見回り隊長〜。」


イブキがひらひら手を振る。ザハークは返事をせず、その代わりに鼻先で空気を切り、廊下の角へ溶けていった。

非常灯の白が元の静けさに戻る。イブキはくすりと笑い、踵を返す。


「……ここ、いいとこだね。」


誰にともなく呟き、自室へ向かう。廊下を撫でる夜風はやわらかく、どこかで配管の細い音が答える。

眠れない夜はまだ少し続きそうだ――けれど、足取りは、やっぱり軽かった。


 自室に戻ったイブキは、壁一枚隔てた隣の扉にそっと耳を寄せた。


「にしし……今度は旅の隊長の寝言、こっそり聞いちゃうぞ〜。」


軽口のつもりだったのに、すぐに寝息ではない低い声が耳へ落ちてくる。


「……ねぇエイゼ、ハクヤくんとの関係、あの子になんて説明しようか。」


アビスの声だ。


「そうだな。私とハクヤは一見、姉弟に見えるのだろう。だが――説明となると難しい。しかも相手は、ハクヤと同じくらいか、それ以下の少女だ。」


“姉弟に見える”。


(え、見える……って、じゃあ本当は違うの?)


イブキの胸が、どき、と跳ねた。


「困っちゃうよね。僕たち、見た目はとても若く見えるからさ……これも“遺伝子”のおかげなんだろうけど。」


(若く見える……?二十代くらいだと思ってたのに……ってことは、実年齢は――まさか、ずっと上……?)


思考が空回りしたそのとき、廊下の板がきし、と鳴った。

息を止める。静寂。次の瞬間、扉越しに鋭いが淡々とした声。


「――盗聴はするなと言ったはずだぞ、イブキ。」


「ひゃっ……!」


反射で身を離した拍子に、背中が自分のドアに“こん”と当たる。慌てて取り繕う。


「ち、違うの!あの、その……夜風の音を、き、聞いてただけ……」


「夜風は壁越しには吹かないよ。」


今度はアビスの呆れた笑いが混じる。扉が半分だけ開き、前髪に白さを混ぜた茶の影がのぞいた。エイゼだ。表情は変わらないが、目だけが夜の色を宿す。


「中に入る必要はない。話すべきことは、いつか話す。だが今ではない。」


「……ごめんなさい。」


素直に頭を下げると、叱責はそれ以上飛んでこなかった。代わりにアビスが、いつもの調子でやわらげる。


「心配させちゃったね。いろいろ、ややこしいんだ。だから順番を守るってことで。」


イブキは唇を噛み、うなずく。扉が静かに閉まる直前、エイゼの低い声がひと言だけ残した。


「今日はもう休め。明日も動く。」


「……はーい。」


 自室へ戻り、背中で扉にもたれる。心臓がまだ速い。


(姉弟“じゃない”。若く“見える”。――じゃあ、あの二人は本当は……。)


布団にもぐりながら、イブキは枕を抱きしめた。


(いつか、ちゃんと聞く。順番、守る。だから今日は――寝る。)


遠くで機械室の唸りが低く続く。非常灯の白が天井に薄い輪を作り、瞼の裏でゆっくり滲んだ。

やがて呼吸が落ち着く。疑問は胸の奥へ沈み、眠りがそっとその上に蓋をした。


 翌朝。まだ空の端に冷たい青が残っている時刻、イブキはそっと廊下を抜けて中庭をのぞいた。人工芝は露でしっとり光り、手押しポンプの金具が夜露をはじく。ベンチにはエイゼが背をまっすぐに伸ばして座り、東の空に滲む薄橙をじっと見ている。


(……近づいて、びっくりさせ――)


忍足で影から影へ。息も殺して最後の一歩、というところで、


「そこだ。」


エイゼは視線を空から外さぬまま言った。肩だけ、わずかに笑う。


「気配が賑やかだ、イブキ。」


「ひゃっ。ば、バレてた〜……さすが隊長、こわい。」


観念して隣に腰を下ろす。朝の空気が頬にひやりと気持ちいい。


「ねぇ、昨日の話……聞いてもいい?」


エイゼは少しだけ目を細め、正直に頷いた。


「聞け。――ハクヤとは、親子の関係だ。」


イブキは声を出さなかったが、両手を耳の横に上げて“ぎょえー”のポーズのまま固まった。静止画のまま、口だけがぱくぱく動く。


「驚いて当然だろう。」


エイゼは朝日を受ける横顔のまま言葉を継いだ。


「私は冥土の手によって生物兵器として“作られた”。だから、遺伝子の設計上、歳の取り方が普通とは異なるのだろうな。それはアビスも同じだ。」


そこで、わざとらしく咳払いをひとつ。


「……ふっ。あえて聞こう。お前から見て、私はいくつに見える?」


イブキは固まったポーズを解き、真剣に見つめ直す。


「に、二十代……半ばとか、そのくらい……?」


「ふふっ。『全盛期の姿』、ということだろうな。」


「恐るべし、美魔女ぉ……。」


小声で感嘆し、それからはっと顔を上げる。


「ってことはさ、ハクヤも老けないってこと……!?」


「それはどうだろうな。」


エイゼは腕を組み、日の端が少し高くなるのを目で追った。


「私の遺伝子がどれだけ受け継がれているのかは謎だ。だが――前兆は見られる、かもな。治りの早さ、負荷に対する回復、そして……“変わる”気配。」


イブキの喉が小さく鳴った。


「いいないいなぁ、老け知らずの美貌……! 冥土は憎いけど、そこだけは正直、羨ましい〜」


「羨ましい、か。」


エイゼは苦笑した。目尻にだけ、やわらかい陰影が落ちる。


「長く若い姿でいることは利だ。だが、そのために失うものもある。時間の重みの測り方とか、周囲の変化の受け止め方とか……な。」


「……むずかしいやつだ。」


「むずかしいやつだ。」


ふたりで同じ言葉を重ね、思わず笑った。中庭に朝の光が広がる。露がきらりと弾け、寮の屋根の影が少し短くなる。


「ま、でも――。」


イブキは膝を抱えて、横目でエイゼを見る。


「若く見える隊長が“親”っての、ちょっとカッコいい。ハクヤ、誇っていいやつだ。」


「ふむ。伝えるかどうかは、あの子が決める。私はただ隣に立つだけだ。」


エイゼが立ち上がる。朝の冷気に馴染んだ動きは、音を立てない。


「そろそろ起こす時間だ。朝食を手伝ってやれ。アビスは、人数が増えると張り切って味を増やす。」


「任せて!クノイチ、朝の戦場へ突入であります!」


イブキが敬礼すると、エイゼは肩だけで笑い、ベンチの背を軽く叩いてから歩き出した。


東の端が金色に燃え、灯の寮にまた一日が始まる。露の匂いに混じって、台所のほうから湯の立ち上る音が、かすかに届いた。

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