灯の寮と忍者
拠点の門をくぐると、配電盤の低い唸りと、人工芝を撫でる風の音が迎えた。昨夜の雨はもう匂いに変わり、廊下の非常灯が白く延びる。
「……着いたな。」
イブキは肩で息をし、へなへなと壁にもたれる。
「そりゃそうだよな。昨夜といい、慣れない道といい、疲れて当然だ……よっと。」
ハクヤはためらいなく屈み、軽々と抱き上げた。
「ゼ、ゼェ……ハクヤ、ムキムキマッチョ〜……。」
「鍛えてるからな。」
階段を上がる。古い木の段が一段ごとに小さく鳴る。二階の廊下でエイゼが指で示す。
「私の隣の部屋が空いている。そこがイブキの部屋だ。――盗聴はするなよ。」
「りょうか〜い。」
レイラが先回りしてドアノブを回す。中は細長い洋室。白い壁、木の床、金属フレームのシングルベッド、簡素な机と椅子、スチールの棚。窓にはブラインドが下り、薄く夕光が差していた。
「ほら、ここ。ベッド整えるね。」
レイラは持ってきた寝具を手早く広げる。マットレスにシーツを被せ、四隅をぱん、と張る。枕カバーを替え、白い掛け布にカバーを通す。
ハクヤはそっとイブキをベッドへ下ろした。離れる瞬間だけ、彼の袖を名残惜しそうに掴み――すぐ、ほどける。
「靴、脱がすよ。」
レイラが紐を解き、床に砂が落ちないよう手で受け止める。アビスはナイトテーブルにコップの井戸水を置き、金属スプーンを差して冷やした。
「ありがとう、みんな。」
ハクヤが小さく言うと、エイゼは部屋を一瞥し、頷いた。
「今日はここで休め。目が覚めたら食堂へ来い。温い紅茶を残しておく。」
イブキは布団に顔を半分埋めたまま、指先だけ挙げた。
「……おやすみの術、発動……。」
呟いた端から、寝息が落ちる。肩が二つ、三つ、と規則正しく上下する。濡れた額当てがずれて頬にかかり、レイラがそれを指でそっと外した。
「……元気で可愛い子だね。」
アビスが微笑する。ザハークは窓の桟に片肘を置き、風の匂いを確かめてから言った。
「外は静かだ。追っ手の気配もない。」
「よし。」
エイゼは廊下へ出ながら、短く区切って告げる。
「三時間休め。起こす。――その後、今後の段取りを詰める。」
「了解。」
ドアを閉める直前、ハクヤはもう一度だけ部屋を振り返った。白い寝具が、きちんと整えられた舟みたいに見える。その真ん中で、イブキが小さく丸くなって眠っている。
「……よく来たな、イブキ。」
誰にも聞こえない声で置いて、彼もまた廊下へ出た。非常灯の白が、足元を静かに照らす。下の階では冥土製の冷蔵庫が微かに唸り、手押しポンプの金具が、風に一度だけ、ちりりと鳴いた。
灯の寮は、新しい気配をひとつ受け入れて、いつもの呼吸へ戻っていく。休む者のために静かに。動く者のために、明かりを消さずに。
三時間後。扉を開けた途端、湯気に混じって胡椒とバターの匂いが鼻先をくすぐった。
「これはこれは……夕飯の匂い!」
イブキはベッドから飛び出してきた子どもみたいに鼻をクンクンさせ、食堂へ駆け込む。
IHの上では大鍋がこぽこぽ鳴り、アビスが木べらで底を丁寧に返していた。冥土製の冷蔵庫が小さく唸り、蛇口から落とした井戸水のしずくがボウルで跳ねる。
「やぁイブキ、よく寝れたかい?」
「めっちゃくちゃ良く寝れた!布団はふかふかでお日様の匂い、部屋はちょっとホコリっぽかったけど、良い部屋だったよ〜!」
椅子に腰かけ、健気に待機していたハクヤが、空の皿を一枚指で弾いた。
「今日から皿が増えるな。」
「この拠点の味、このクノイチが調べさせていただくよ〜。」
「まあ、クノイチなら兵糧丸ってやつで数日は凌げるだろ。味にはうるさくないだろ……」
「ノンノン、ハクヤくん!ヒナモトは食の国でもあるんだよ〜!味にはちょっぴり、うるさいかもしれないよ〜!」
「そいつは困るな、味にうるさいクノイチさんよ。」
「せめて“美食家のクノイチ”って言ってよ〜!」
アビスが笑って、鍋の蓋を半ばだけずらす。立ちのぼる香りが一段濃くなる。
「本日の“寮めし”は、豆と干し肉、乾燥野菜のスープ。仕上げに少しだけバター。パンはトースト、紅茶つき。――味見役、どうぞ。」
「任せて!」
イブキはスプーンを手に取り、ふぅふぅと息を吹きかけてから一口。目がぱっと丸くなった。
「ん……!ちゃんとコクがあるのに重くない! 塩の角がない!後から胡椒が来る!合格〜っ!」
レイラが笑いながら皿を配り、ザハークは湯気を嗅いで
「……悪くない。」
と短く言う。ガルツはパンをちぎって浸し、
「腹に優しくて銃にも優しい、上等だぁ。」
と肩をすくめた。エイゼは紅茶のポットを持って席を一周し、皆のカップに注いでから自分の席に着く。
「いただきます。」
七つの手がほぼ同時に動く。スプーンが器に触れる小さな音、パンの耳が割れる音、紅茶の湯気。騒がしかった一日が、ひとさじずつ温度を取り戻していく。
「ねぇアビス、おかわりは?」
「まだあるよ。美食家さんの点数は?」
「九十八点!」
「残り二点は?」
「ラーメンじゃないから!」
「それは減点の理が通ってないなぁ……。」
ハクヤが苦笑し、エイゼが紅茶を一口。
「――今日から七人だ。皿は増えるが、灯りも増える。」
その一言に、誰もが自然と頷いた。
窓の外では、風が人工芝を撫でている。食堂の灯の下、温い湯気がもう一度ふわりと広がった。
深夜。
配電盤の低い唸りと、石鹸の匂い。
風呂用のカゴを脇に抱えたハクヤは、自室の灯を落とし気味にしてドアを閉め、ベッドの端へ腰を下ろした。首筋にはまだ湯のぬくもりが残り、タオルを肩にかけ直して、ふう、と一息。
――もぞ。
毛布が、ひとりでに膨らんだ。
「やっほ〜。」
布の端がめくれ、月明かりみたいな笑顔がぬっと現れる。
ハクヤは反射で身を浮かせた。
「うわっ!?……なんだ、お前か……寝る前だってのに気が休まらねぇな。」
「ごめんごめん、悪気は無いの〜。忍法、隠れ身の術ってやつ?」
悪びれずにウインクするイブキ。
ハクヤは額を指先で押さえ、半眼でため息をつく。
「んで、要件はなんだ?単に驚かせたかっただけ……とかじゃないよな?」
「半分せいかーい。」
イブキは毛布から這い出て、ベッドの端にちょこんと腰をのせる。指先を絡め、少しだけ真面目な声になった。
「でもね、ハクヤに感謝を伝えたくて……。」
「俺は当然のことをしただけだ。感謝なんか特に――。」
「でもしたいの!」
語尾が重なる。
「ピンチの時には守ってくれたし、落ち込んだ時には優しくしてくれたし……!」
ハクヤは言葉を探して、探しきれずに視線を窓へ逃がした。濡れた髪の先から、水が一滴、シャツの襟に落ちる。
「……べつに。」
その横顔が、薄い灯りの下でわずかに赤い。
イブキはそれを見逃さない。
「あぁ〜顔真っ赤ぁ〜!もしかして、照れてる?」
「照れてねぇし!」
「やっぱり照れてる〜!かわいい〜!」
「……っ!」
ハクヤは黙って布団を引き上げ、頭まで被る。布の上からでも、耳まで熱いのが伝わってくる。
イブキはくすりと笑い、布の山を一撫でしてから、声を少し落とした。
「……でもやっぱり、かっこいいよ。」
布の下で、息がひとつだけ詰まる。
「……バーカ、当たり前だろ」
いつもの調子に戻したつもりの照れ隠し。
イブキの笑みがやわらかくなる。
「はいはい、ツンデレな坊ちゃんは、おやすみの時間だね〜。」
立ち上がって、布団の端をもう一度ていねいに整える。ドアへ向かいながら、振り返って小さく手を振った。
「……おやすみ、ハクヤ。」
布の中から、短い返事。
「……おやすみ。」
戸が静かに閉まる。
廊下を撫でる風の音と、機械室の唸りが戻ってくる。
白い天井を見上げながら、ハクヤは布団の内側でほんの少しだけ笑って、目を閉じた。




