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焔翼のグリフォン  作者: いねの
第二部 東の国 第1章 継ぎ接ぎの影
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妖の夜

 鵺が喉の奥で濁った声を千切り、いきなり身を爆ぜさせた。四肢がばらばらに伸び、尾のような筋がしなる。ハクヤの刃を払うように前脚が横殴りに振り抜かれ、石畳に火花が散る。


「……っ!!」


受け流したはずの衝撃が肩を抜け、ハクヤの体が一歩、二歩と後ろへ弾かれる。次の瞬間、鵺の赤い目がイブキを捉えた。濡れた瓦を蹴って低く滑り込み、喉元めがけて牙が閃く。


「来るな!」


 ハクヤが躰をねじ込み、肩からイブキを抱えるようにして壁際へ押し出す。鵺の爪が空を切り、二人の間を冷たい風だけが走った。石壁に刻まれた爪跡が、乾いた音で粉を落とす。


「……イブキ、大丈夫か?」


至近距離。布の影からの声は低く、揺れない。

見上げたイブキの頬に、熱が差した。目が一瞬だけ泳ぐ。


「だ、だいじょうぶ……。」


唇が震えたが、すぐに噛んで立ち直る。イブキはハクヤの腕をそっと押し返し、足を開いて再び構えた。


鵺は止まらない。屋根から軒へ、軒から路地へ、瓦と看板と紙灯籠を薙ぎ、町中を掻き乱す。悲鳴が連なる。のれんが千切れ、醤油の壺が割れて匂いが雨に広がった。


「こっちへ!戸の中!倒れたら手を――!」


レイラが声を張り、肩で老人を支えながら、もう片手で杖を振って落ちてきた瓦礫を払い落とす。額に当たりかけた破片を、アビスのナイフが音もなく弾いた。


「右!子ども二人!」


アビスは泣き叫ぶ兄妹の肩を抱いて路地の奥へ押しやる。腰のナイフが閃き、横倒しの雨戸の蝶番を断つ。即席の盾にして人波の間を縫った。


そのとき、天井の梁が悲鳴を上げて崩れた。小さな影がひとつ、その下に取り残される。


「下がれ!」


エイゼの足がひとつ地面を蹴った。次の瞬間、背から銅の羽根が噴き上がる。痛みの色が一瞬、顔を掠める――だが迷いはない。翼は雨を払い、崩れ落ちる木材と瓦を大きく弾いた。

抱き上げた子どもを背にかばい、翼で覆う。破片が翼に叩きつけられ、鈍い音が続いた。


 震える子の耳元で、エイゼが短く囁く。


「……このことは、内緒だ。」


子はこくこくと頷き、泣き声を飲み込んだ。エイゼは翼を半分畳み、子を安全な戸口へ送り出すと、血の滲む肩を気にも留めず再び前線へ戻る。


通りの中央、鵺が身をひねってこちらを向いた。

ハクヤは剣を握り直し、イブキが手裏剣を指に挟み、アビスは影から呼吸を殺す。

レイラが最後の一人を押し込み戸を閉め、ガルツの散弾が雨の帷を裂く。ザハークは低く唸り、獣の足取りで間合いを詰めた。


「ここで終わらせるぞ!」


ハクヤの号令に、全員の足が同じリズムで石畳を叩いた。

濡れた町の狭間で、人の気配がすうっと引き、戦いだけが残る。鵺の咆哮が、夜の瓦を震わせた。


 雨脚が強まる。濡れた瓦の上で、鵺が身をくねらせた。

イブキは瓦縁を蹴って距離を取り、振り向きざま声を張る。


「ねぇ――シドウ!シドウなんでしょ!?覚えてる?ミカヅキ道場のこと!!」


返事の代わりに、低い唸り。

ハクヤは石畳を二歩で詰め、ザハークが獣の足取りで左から抉る。刃と爪が交差し、火花が雨に紛れた。


鵺の喉から、掠れた音がこぼれる。


「……イ……ブ……キ……。」


その瞬間だけ、目の底に人の色が灯った――が、次の瞬間、喉を裂くような雄叫びへと反転する。

圧が空気を叩き、屋根瓦が鳴り、耳が焼ける。ハクヤたちは思わず耳を押さえ、膝が一瞬、沈んだ。


「っく――!」


生まれた隙へ、鵺が滑り込む。狙いはイブキ。尾の筋がムチのように唸り、牙が白く閃いた。


「イブキ!!」


ハクヤの叫びが雨を切る。

イブキの瞳が、わずかに揺れて、すぐに定まった。


「……ごめん、シドウ。」


覚悟の声は小さく、それでいて揺れなかった。

踏み込み一歩。忍者刀を鞘走らせる音が雨に溶け、正面から懐へ入る。鵺の喉元――継ぎ目の浅い線、金属の首輪“S001”の下を、刃が真横に走った。


――ス、と世界が細くなる。次の瞬間、音が戻る。


首が、飛んだ。

雨の幕を切り裂いて弧を描き、瓦を打って転がる。胴は二歩よろめいてから、糸の切れた人形みたいに崩れ落ち、濃い血と黒い液が石畳で混じった。金属の首輪が乾いた音を立て、転がって止まる。


静寂。

雨の粒が、ふたたび町の音に戻っていく。


イブキは刀を下げたまま立ち尽くした。肩が小刻みに震える。

駆け寄ったハクヤが、その手首をそっと支える。


「……無事か。」


イブキは顔を上げる。雨に濡れた頬に、赤いものはひと筋もない。


「……うん。終わった、よ。」


その声は強かったが、最後だけ掠れた。

ザハークが耳を伏せて周囲を嗅ぎ、ガルツが散弾を下ろす。アビスは倒れた胴体から素早く距離を取り、エイゼは翼を畳みながら、路地の隅で震える子の頭を撫でている。レイラは戸口から顔を出した人々に「もう大丈夫」と手で示し、安堵の息が雨に混じった。


石畳の上、首輪“S001”が冷たく光った。

イブキは一歩近づき、膝をつく。刀の切先が石を軽く叩く音がした。


「おかえり……シドウ。」


雨が強くなる。誰も、その言葉に続けて何も言わなかった。

ただ、もう一度だけ、町に“人の声”が戻ってきた。


雨はまだ町を叩き続けていた。

鵺の首を落としたあとの静寂の中、イブキは濡れた石畳に片膝をついたまま、動けずにいた。刀先が小さく震え、雨粒が滴り落ちるたびに鈍く光った。


やがて、レイラが駆け寄り、その肩にそっと布をかける。


「……もういいよ。イブキ、もう十分だよ。」


イブキは小さくうなずいたが、唇は何かを言いかけて止まった。


アビスが町の人々を避難させながら、低い声で呟く。


「結局……兵器にされたのは、確かだったんだね。」


その横顔に答えたのはエイゼだった。翼を畳み、助けた子どもを母親へと渡しながら、背を向けたまま言う。


「……だが、最期は“人”として、イブキに呼ばれた名を返した。」


ハクヤは黙って、鵺の残骸を見下ろしていた。

雨に打たれる首輪“S001”が、やけに冷たく見えた。

彼の拳がひとりでに握りしめられる。


「……これが、あの施設の“実験”の答えか。」


その声にクロウが近づいてきた。オボロ組の影たちが町の通りを封じ、人々を外へ導いていく。クロウは濡れた髪を振り払い、静かに告げた。


「証は残った。首輪も、血も。だが――お前たちの心にはもっと重いものが残ったはずだ。」


イブキは立ち上がり、刀を鞘に収める。その頬は赤く、涙と雨の境目はもうなかった。


「……あたし、絶対に許さない。あんなふうに人を兵器にするやつらを。」


 雨の筋が細くなり、割れた瓦の音がしずんだ。石畳の真ん中に、首輪だけが冷たく光っている。刻まれた「S001」の文字が、雨粒のたびに微かに揺れた。


「これが冥土のやり方かよ!!」


ハクヤが吐き捨てるように叫んだ。


「罪のない人間で生物兵器を作って、罪のない人々を襲って……こんな最低なやり方って、ありなのかよ!!」


ざわ、と通りが波立つ。戸口から顔をのぞかせた町人たちが互いに目を見交し、誰かが震える声でつぶやいた。


「……妖の正体が、人間……?」


拍子木の乾いた音が一度。人垣を割って、白髪の師範――ミカヅキ道場の長、イブキの祖父が駆けつけてきた。濡れた草履を払う間もなく、彼はまずイブキの肩を両手でつかむ。


「イブキ、無事だったか!!」


イブキは返事をしない。ただ俯いて、唇を噛み、ぽたぽたと雨か涙かわからぬものを落とし続けた。師範はその視線の先――石畳に横たわる“鵺”の遺骸へ目を移し、長い息を吐く。


「……やはり、か。あれからシドウが帰ってこなかったのは――こういう事なのか。」


エイゼが一歩前へ出る。翼はすでに畳み、刃を下ろしたまま、師範と町の人々へ向き直った。


「これが冥土の本性だ。」


彼女の声は低く、揺れない。


「冥土は、罪のない人間を国の兵器にする。それが『生物兵器』だ。作られた者には番号を与え、従わなければ廃棄物として扱う。――人以下の“物”として。」


アビスがフードの影から顔を上げる。深紅の瞳が雨を映した。


「僕たちは冥土から逃げてきた身。いま言ったことは、すべて真実なんだよ。」


しん、と通りに静けさが落ちた。雨樋の雫が一度だけはねる。


ハクヤは鞘に刃を納め、首輪のそばへ歩いた。拾い上げた金属は冷たく、指に重みを残す。彼はそのまま、人々のほうへ向き直った。


「どうか、鵺を……いや、この“ひとりの人間”の犠牲を、忘れないでくれ。」


誰かが息を呑む音。誰かが小さく「南無」と唱える声。道場の若い門弟が無言で走り、店先の白手拭いを束にして戻ってきた。師範はそれを受け取り、深く頭を垂れる。


「……手向けを。名は口にせずとも、想いは届く。皆、手を貸してくれ。」


人々がそっと集まり、白布が広げられる。ハクヤは「S001」の首輪を布に包み、イブキの前へ差し出した。イブキは震える手でそれを受け取り、胸に抱きしめる。


「おじいちゃん……あとで、道場に……。」


「ああ。わしが責任をもって預かる。」


エイゼは短く頷き、負傷者のほうへ視線を走らせた。レイラが合図し、アビスが肩を貸す。ガルツは散らばった瓦を路の端へ寄せ、ザハークは耳を立てたまま、最後の危険がないか風下を見張り続ける。


薄く雲が切れ、紙灯籠に遅い明かりが戻る。人の声が、少しずつ、町へ帰ってきた。


その輪の外で、ハクヤは一度だけ空を仰いだ。喉の奥が焼けるように痛む。だが、声はもう荒れていない。


(終わらせる。こういう終わり方を、もう誰にもさせない。)


布に包まれた首輪が、イブキの腕の中で静かに音を立てた。彼女は涙を拭い、強く頷く。


「――絶対に、忘れない。」

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