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焔翼のグリフォン  作者: いねの
第二部 東の国 第1章 継ぎ接ぎの影
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雨夜の潜入

 山を降りる道は、竹の葉に夜露が重くつくたび、音を細くした。湿った土を踏む足音だけがつづく。誰も口を開かないまま、麓の灯が点の群れになりはじめた頃――。


「……まさか、あの鵺の正体がシドウなわけ……な。」


先頭のハクヤが、誰にともなくこぼす。布の陰で喉が乾く音がした。


横を行くアビスは、返す言葉を探して、結局、息だけを長く吐いた。さっきの白い室内、壁に掛かった写真の一枚――日に焼けた肌、笑っていないのに明るく見える目、鍛えあげた体。余白に“シドウ”と墨。あれは、忘れようとしても消えない種類の像だった。


「シドウの手がかりになるもの、見つけたの?」


後ろからイブキが顔をぐっと近づけてくる。夜目のきく瞳が、まっすぐハクヤを射る。


「おい、イブキ。近ぇな……。」


ハクヤは半歩だけ距離を取り、静かに続けた。


「壁に写真があった。日焼けした肌に、屈強な体。名前は――シドウ。お前の言ってた、あのシドウなのか?」


イブキの瞳が、ぐらりと揺れた。冗談を言う余裕は、どこにもなかった。


「……まさか、ね。シドウはもっと強いよ。きっと同じ名前の人違いだよ。だって、兵器になるなんて……そんなの、あたしが許さないよ。」


最後の一言だけ、かすれた。唇を結ぶ音がした。


「……そう、だよな。」


ハクヤも声を落とす。エイゼがそのやりとりを黙って見て、短く言った。


「確定はしていない。だが、どちらでも動ける準備はしておく。救出も、阻止も。」


ザハークが風下に鼻先を向けたまま、低く付け加える。


「……隔離舎の匂いの中に、人間の匂いが混じっていた。消えてはいなかった。」


レイラがイブキの肩にそっと手を置く。


「大丈夫。ボクらはここにいる。ひとつずつ、確かめよ。」


イブキはうなずいた。喉仏が上下した。


 裏路地の紙灯籠がひとつ消え、板塀の隙がするりと開く。オボロ組の座敷。畳の青は夜で深まり、卓の向こうにクロウ・カスミが座していた。


「戻ったか。」


クロウは視線だけで人数を数え、顎をわずかに引いた。ハクヤが一歩出る。


「報告する。施設の外周は三重。二重目の柵に低い電流、三重目は人感に反応する照明。防犯カメラは三角配置。死角は――。」


 卓の紙に、エイゼがさらさらと速記で線を引く。アビスが指で“見られない角度”をなぞり、ザハークが交代の間合いと足音の数を言語化して置く。レイラは薬品と消毒の匂い、冷却装置の唸りの周期を記す。ガルツは配線の入り口、非常用発電の位置、爆風の逃げ場を小さく印した。


「それから……。」


ハクヤは一拍だけ間を置いた。


「隔離棟の廊下に、写真があった。名前は“シドウ”。」


イブキが息を飲む音が、畳に吸われる。


クロウの目は揺れなかった。ただ、茶碗のふちを指で一度、なぞった。


「ミカヅキ道場から冥土に渡った若いのがいた、と昔聞いたことはある。名は、シドウ。……だが、写真一枚で判断はせんほうがよい。」


「判断は急がない。」


ハクヤは短く答え、身を起こす。


「俺たちは“鵺”を止める。もし、その中に人が残っているなら、連れ出す。やることは、それだけだ。」


クロウはわずかに目を細め、紙を二枚、卓へ滑らせた。ひとつは施設の古い施工図、もうひとつは水利の図。


「裏口がある。表の門ではない。オオヤマの雪解け水を落とす導水の“吐け”だ。水車小屋の奥、鉄の扉。夜半、二刻だけ水量が落ちる。そこで開く。鍵はないが、重い。三人ぶんの力が要る。」


ガルツが低く


「上等。」


と笑い、エイゼが図の端に印を打つ。クロウは続ける。


「監視の交代は丑三つ。だが、今夜は避けろ。今日の風は匂いを押し返す。明晩――一度だけ雨が来る。雨音は足音を隠す。」


「恩に着る。」


ハクヤが礼を置いた、その時だ。クロウは何気ない調子で、もうひとつの問いを投げた。


「山の上の“声”は、聞いたか?」


エイゼが答える。


「獣とも鳥ともつかぬ、濁った鳴き。短く、かすれて、消える。」


クロウは鼻で笑うともつかない息を吐いた。


「……そしてイブキ。さて、お前は一行に着いて……。」


イブキが堪えきれず、前のめりになる。


「行く。あたしも、行く。絶対に。」


クロウは一瞥をくれて、


「足でまといになったら、置いていけ。」


とだけ言った。イブキはすぐに笑顔を取り戻す。


「置いてかれないよ。だって、あたし、最強のクノイチだもん。」


場の空気が、ほんの少しだけ軽くなる。だが、イブキの手は卓の下で小さく握られていた。爪が掌に食い込み、熱い。


(待ってて、シドウ。もしあれがあんたなら――連れ戻す。たとえ、世界を全部敵に回したって。)


クロウが巻物を閉じる音が、合図になった。


「明晩、雨。導水の扉。三人で押す。中へ入ったら、音を出すな。……“声”の正体を確かめろ。」


頷きが座敷を一周する。立ち上がる足の裏に、畳の目が確かな感触で返ってきた。


 外に出ると、竹の葉がざわりと鳴った。雲が低く、匂いは湿っている。ハクヤは空を仰ぎ、深く息を吸う。


「行くぞ。」


誰も「待て」とは言わなかった。誰も「やめろ」とも言わなかった。


オオヤマの裾へ――“声”のもとへ。


 翌晩。雲は低く、山裾に雨が落ち始めた。葉の裏で水が弾け、土は静かに重くなる。音は十分に増えた。――合図どおりだ。


「行くぞ。」


ハクヤの一言に、全員が影へ沈む。竹林を抜け、古い水車小屋のわきへ回り込む。雨脚は少し強い。軒下に隠れていた鉄の扉は、苔に縁取られて黒く濡れている。


「三人で押すぞ。合図で一斉にだ。」


ガルツが腰から短いバールを出し、蝶番の錆をひと撫で。ハクヤ、エイゼ、ザハークが肩を並べ、息を合わせる。


「――今だ。」


ガルツが蝶番に油代わりの指先を走らせ、ハクヤ、エイゼ、ザハークが肩を揃える。息が揃い、腕が沈み、扉が重たい喉を鳴らしてわずかに開く。冷えた湿気が頬に触れ、導水の通路が口を開いた。


イブキが白糸で簡単な目印を結ぶ。


「ここ、死角。三歩で抜けるよ――一、二、三。」


アビスは細い黒粉末を指にすくい、前方へふっと吹いた。薄い霧の筋が天井近くで歪む。


「赤外が一本。斜めに走ってるね。」


「二歩分……天井が低いな。」


 雨音が掻き消してくれる範囲で、それでも限界まで息を細くする。身体を紙一枚ぶん傾け、影の継ぎ目に身体を滑り込ませる。通路の奥、次の扉は金属ではなく、静かな重みを湛えた機械の息を漏らしていた。


 通路の奥、金属扉。カードスロットの横に古い手回しの非常ロック。ガルツが身をかがめ、耳で機構の噛みを確かめる。


「……静かにいける。三十数えるぞ。」


小さな工具が金属の間を泳ぎ、歯車がひとつ、またひとつ息を漏らす。二十八、二十九――。


「よし。」


扉は息を飲むように開いた。


内側は保守廊下。明かりは抑えられ、床の矢印が青く浮かぶ。壁際には小型のカメラが三角に配置され、死角が互いを埋めるように動いている。


保守廊下は薄明かり。床の矢印が青く光り、壁に小さな眼が三角に並ぶ。エイゼが動きを見切り、掃引が止む一秒に身体を溶かす。レンズがわずかにこちらをかすめる感覚を背に受け、角を取る。


人の匂いが近づく。ザハークの耳が静かに立つ。


「……二人、同じ歩幅で来る。」


ザハークが鼻先で情報を重ねる。ハクヤが顎を引き、右へ手のひらを見せ――「制圧」。全員が頷いた。


角の向こう、巡回の二人。足音が合う瞬間、アビスが影から滑り出て、後ろの男の口を封じる。刹那のうちに睡眠針が首筋へ。前の男の前腕へエイゼの逆手の一閃、肘を軽く折り、喉へ刃先“だけ”を置いて静止させる。ハクヤが柄で側頭部を打ち、崩れる身体をレイラが静かに受け、布で縛る。声は漏れない。床に転がるのは短い吐息だけ。


「急ごう。」


保冷装置の唸りが強くなる廊下を進む。ガラス張りの観察室の前で立ち止まった瞬間、イブキの肩が硬くなった。


壁に掲げられた古い掲示。『被験体基盤、シドウ』――黒い墨字が、白い紙から冷たく浮いている。横に、最新の管理札。『検体S001、夜間運動 観察、担当:***』


「……っ。」


イブキの指がほんの一瞬、震えた。エイゼが視線だけで彼女を捉え、短く頷く。ハクヤは掲示から目を剥がし、観察室の奥――更に内側の隔離区画へ視線を滑らせた。


 そのときだ。遠く、鉄と鉄が擦れるような音に混じって、例の濁った鳴きが微かに響いた。鳥とも獣ともつかない、かすれたひゅうという声。続けて、低い唸り。床がわずかに震える。


「……近い。」


ザハークの耳が立つ。アビスが手で合図を切り替え、足音の間合いを“音”に合わせて変える。ガルツは非常扉の押し戻し防止に楔をひとつ差し、レイラは口に出さずに手当の準備を整えた。


隔離区画の手前、最後の扉。鉄ではなく、厚い強化ガラス。内側の照明は抑えられ、影の奥に巨大な影が膝をつき、呼吸を絞り出すように肩を上下させているのが見える。狐のように尖った耳、獣のような四肢、鳥の羽の残骸のようなものが肩にへばりつき――“継ぎ接ぎ”の輪郭。


首輪が光を反射した。刻印――S001。


イブキの喉がわずかに鳴る。ハクヤは一歩、彼女の前に出た。


「まだ、見るだけだ。突っ込むな。」


「わかってる。」


声は小さいが、芯は折れていない。


端末の前にアビスが膝をつく。指先が軽く跳ね、受光部をだます小さな路を組み上げる。ガルツがその手元に短い灯を落とし、エイゼは背を広げて視線を遮る。


その刹那。ガラスの向こうで赤い光が一つ、こちらを見た。闇になじんだ目――イブキの瞳と重なる。


(……誰?)


時間が止まるほどの一瞬。影は顔を近づけ、砕けた声で空気を擦った。


「……イ……ブ……」


雨音が遠くなる。誰も言葉を持てなかった。


天井の隅で、赤い点がひとつ灯る。細い電子音が走り、端の扉が開く音が続いた。靴の群れが床を叩く、規則正しい足音。


「来る。」


エイゼの声に、皆が散る準備を重ねる。ガルツが退路に差した楔を指で弾き、ザハークは気配を散らすように低く唸る。レイラはイブキの手首を掴んだ。


「イブキ、今は引くよ。助けるために引くんだよ。」


「……でも、今――。」


「今じゃない。次の“今”をつくる。」


ハクヤが決断を飛ばす。


「退くぞ。次は目を潰す。上から落ちる。――そして“鍵”を探す。呼び戻す音か、印だ。」


アビスが最後の線を外し、端末の顔を元に戻す。赤い点がひとつ消える。代わりに、人の気配が増える。


「走らず、速くだ。」


エイゼの言葉どおり、呼吸だけを速くして影から影へ。紙一重で曲がり、雨の匂いが戻る通路へ。鉄の扉。三人で押し開け、夜の冷たさが肌にまとわりつく。


扉が閉まる直前、イブキは振り返った。ガラスの向こうの赤は、もう見えない。


「……待ってて。絶対、行くから。」


言葉は鉄に吸われたが、その重さは全員の胸に落ちた。


外は雨脚が強くなっていた。竹の葉はざわめき、土は深く息をする。水車小屋の影で、ハクヤが空を仰ぐ。


「次は内部の電源を部分的に落として監視を盲にする。導水からじゃない、上の配電からだ。」


「配電盤の位置は見た。雨なら火花も紛れるぞぉ。」


ガルツが工具袋を叩き、エイゼが短く頷く。


「“鍵”は必ずあるよ。声でも、所作でも、匂いでも――その人だけが持つものだから。」


アビスの言葉に、イブキが唇を噛み、雨の中でも笑みをつくった。涙はどこまでも透明で、雨と区別がつかない。


ザハークが肩で合図を送る。


「……戻るぞ。体を温め、次の手を詰める。」


山を下る途中、鵺のかすれ声が一度だけ遠くで揺れた。呼ばれた気がした。呼び返す言葉は、まだ見つからない。


だが、夜は味方だ。音が増え、匂いが流れ、足跡は消える。

彼らは雨に紛れ、雨を背負い、寮へと戻っていった。次は届かせるために。

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