世界一可愛いクノイチ
桜が風にほどけ、花びらが畳の縁にひらりと貼りつく季節だった。
木刀が打ち合う乾いた音、汗と白粉の匂い、そして――。
「「押忍!」」
ミカヅキ道場に、威勢のいい声が一斉に弾む。師範台のうしろ、祖父の膝の上で、まだ小さなイブキは目をまん丸にしてそれを見つめていた。
「おじいちゃん、あたしも、つよくなりたいの!」
祖父は「そうか」と笑い、節だらけの手で孫の頭をぽんぽんと叩く。
そのとき、影がひとつ近づいてきた。屈強な肩、日焼けした腕、明るい笑顔――青年シドウが腰を落とし、イブキと同じ目線に合わせる。
「よう、イブキ。今日はなにして遊ぶ?」
「シドウ!」
イブキはぱっと抱きついた。
「きょうはクノイチになる! ほら、しゅりけん!シュッ、シュッ!」
小さな手が空を切る。シドウはおおげさに目を丸くして見せ、やわらかく頭をなでた。
「お、今日は忍者か。昨日は『シドウみたいなお侍になる』って言ってたのにな。クノイチとは、可愛いじゃないか。」
「かっこいいおサムライより、かわいいクノイチになるってきめたの!」
「そうか、イブキ。なら世界一可愛いクノイチになるんだな。」
「うん! つよくておっきいシドウのとなりで、きゅーとでかわいいクノイチ、イブキ・カミシロが――しゅりけん、シュシュッ! ってやるの!」
「そいつは頼もしいな。早く大きくなって、俺の隣に立てよ〜?」
シドウはひょいとイブキを抱き上げる。空気がふわりと軽くなり、桜の花びらが二人のあいだを舞った。
きゃっきゃ、と無邪気な笑い声。道場の木枠越しに、春の光が斜めに差しこむ。
その日、イブキは胸の奥でひっそりと決めた。
――いつか絶対、シドウのとなりに立つ。可愛くて、強いクノイチとして。
それから幾度か季節が巡り、空の色が薄くなるほど冷え込む夕暮れ――道場の庭に、白いものが、はらりとはらりと落ちはじめた。細かな雪が畳の縁に溶け、杉の葉先で丸くなる。
「イブキ。」
背後から呼ばれて振り向くと、門のところにシドウが立っていた。旅装束。肩には風をはらむ外套、腰には磨き込まれた刀、背には小さな荷。見慣れた笑顔はそのままなのに、どこか遠くを見ている目だった。
「シドウ!ねぇ、きょうもあそぼ?」
イブキは駆け寄って、いつものように勢いよく抱きつく。無垢な瞳で見上げる。シドウは少しだけ目を細めて、膝を折った。
「ああ、そうしたいところだが……すまないな、イブキ。」
彼は雪を払うみたいに、そっと頭に手を置いた。手のひらは温かい。
「俺、修行が終わって、ここを出ることになった。冥土ってところへ行く。――そんな悲しい顔すんなって。」
「……まだあそぶもん。あたし、まだクノイチになってないもん。」
イブキは頬をふくらませ、唇を噛む。吐いた息が白く、すぐにほどけた。
「そりゃあ、まだ遊びたいよな、イブキ。」
シドウは笑ってみせ、それでも少しだけ声が低くなる。
「じゃあさ、俺が戻ってきたら、必ず遊んでやる。約束、な?」
差し出されたのは、節の目立つ小指。イブキは一瞬だけ躊躇して――小さな小指を伸ばした。ふたつの指が絡む。
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本の〜ます――」
シドウが歌う。最後に小さく、からり、と指を離して笑った。
「指、切った。」
静かな雪の音がふたりの間に降り積もる。門の脇で、師範――祖父が黙って見ていた。頷きひとつで、旅立ちを許す合図。
「じゃ、行ってくる。」
シドウは立ち上がり、外套の襟を整えた。門を出て、石畳を踏みしめるたび、靴底が雪を鳴らす。背は大きく、まっすぐで、見慣れたはずなのに、今日は輪郭が遠い。
イブキは門の柱に手を添え、背筋を伸ばして見送った。見えなくなるまで、ずっと。白い世界に紛れていく影を、爪で木に印をつけるみたいに、目で追い続けた。涙はこぼさないと決めたのに、目のふちが熱くなる。
(早く、大きくなる。絶対、となりに立つ。)
胸の奥で、幼い声が固く結ばれる。春になる直前の、しんしんと降る雪。やがて姿が完全に見えなくなったとき、祖父がそっと近づき、イブキの頭に大きな手を置いた。
「よう、がまんしたな。」
ざらりとした掌の温もりが、冷えた額に沁みた。イブキはうなずき、まだ小指が温かい方の手を胸に当てる。
約束は、雪の下で眠る種みたいに、静かに埋められた。春が来たら芽を出す――そう信じて。




