基盤
山の腹をくり抜いた地下区画は、夜でも白々と明るかった。消毒薬と金属の匂い、蛍光灯の唸り、壁一面の観測ガラス。その向こうに、四角い檻。
檻の中央で、それは身を丸めていた。人の骨格を土台にしたもの――だが、すでに「人」と呼ぶ輪郭は崩れかけている。肩から背にかけて硬い毛が斑に逆立ち、腹は獣のように沈み、四肢の筋肉が時おり痙攣して波打つ。目は獣じみた琥珀に揺れ、瞳孔は針のように細く、また滲むように広がる。尾の「芽」のような筋束が腰からのたうち、皮下で別の骨が形を探している。首には黒い金属――。
《検体ナンバー S001》
それは檻の格子に身を打ちつけ、壁を叩き、床を噛み、やがて力を失うと、喉の奥から低く短い声を漏らした。怒りでも威嚇でもない、どこへも届かない悲しみの声。人の言葉だった場所に、もう言葉は残っていない。
「……S001、覚醒波形、夜間優位。コアの馴染みは進行。今夜も外へ出す。」
観測室で白衣が淡々と言う。隣の技師が端末に指を走らせた。
「行動半径、段階三へ。目標、五百から一キロ。誘導は香囮こうおとりと帰還刺激で。首輪の閾値、今夜は十五パーセント増し。」
「市街側への逸走は?」
「計画どおりだ。……範囲を広げ、帰巣を覚えさせる。慣らしさえ終われば、鵺は自分から町へ降りる。」
別の白衣が口の端だけで笑い、モニターに映る地図に印を付ける。オオヤマの裾、山道、用水、町並み。印はゆっくりと街区へ近づいていた。
「冥土の信仰が薄い土地は、抵抗が少ない。啓蒙の前に“駆除”だ。……示威は夜がいい。顔は見えず、声だけが残る。」
スピーカー越しの声に、観測室の誰も顔をしかめない。手順は手順、計画は計画。薄い笑いのみが、規格化された空気の中で音を持った。
電磁ロックが外れる音。厚い扉が引かれ、二重扉の先に、夜の匂いが細く流れ込む。山肌の冷気、湿った土、遠い水の気配。
S001――基盤名「シドウ」。その名を知る者は、ここには誰もいない。首輪が一度だけ低く鳴き、皮下の針が微電流を落とす。悲鳴は出ない。代わりに、古い獣が戸惑うようなうなりが喉の奥で震えた。
「放出、三十分。監視四体、補助二。異常行動は即座に帰還刺激。」
「了解。」
外扉が開く。闇は思ったより近く、思ったより明るかった。星の光と町の灯が混ざり合い、オオヤマの裾に細い境界を作る。S001は一歩、また一歩と夜へ踏み出す。鼻孔が大きく膨らみ、空気を嗅ぐ。どこか遠くで、犬が一度だけ吠えた。
檻の中では暴れたのに、外に出ると足取りは低く滑らかだ。影から影へ、匂いを追い、耳を倒し、尾の芽を左右に揺らす。山道の砂利が爪の下で転がり、用水の匂いが濃くなる。視界の端に、瓦屋根の稜線がうっすらと浮かんだ。
観測ドローンの目が、それを追う。超音波の短い合図が、離れすぎないよう首輪の中をかすめる。S001は顔を上げ、空中の見えない糸を一瞬探す仕草をして、また闇へ溶けた。
「……戻る道を覚えさせろ。行ける距離が伸びれば、戻れる距離も伸びる。やがて町に入り、やがて町から戻る。それを二、三度繰り返せば――声も姿も定まる。……“鵺”になる。」
観測室の白衣は、モニターの音量をほんの少しだけ上げた。夜の音が増幅されて耳に届く。風、竹の葉擦れ、遠い踏み石の水音。そして、混ざる低い鳴き声。
どこかで「人」だった響きが、まだ微かに残っている。誰もそれを拾わない。記録には「試料鳴声、良好」とだけ打たれる。
S001は一度、山の闇の中で立ち止まった。鼻先が街の灯の方へ向き、喉がわずかに震える。首輪の内側で、電流が針の先ほど走った。シドウだったものの足が、ゆっくりと方向を変える。
帰るために、夜を覚える。やがて町へ降りるために、夜を覚える。
冥土の計画は、冷たく、正確に進んでいた。




