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焔翼のグリフォン  作者: いねの
第二部 東の国 第1章 継ぎ接ぎの影
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冥土の影

 滝壺に響いたあの奇怪な鳴き声の主――鵺は、霧の向こうから姿を見せるや否や、森を縫うように駆け出した。

四肢は獣、尾は蛇のようにうねり、肩口からは羽毛がちらつく。継ぎ接ぎの体が、月明かりにギラリと瞬く。


「……逃げるぞ!」


ハクヤが声を殺して駆け出す。


一行は鵺を見失わぬよう、距離を保って尾行した。ザハークが鼻先で風を嗅ぎ、アビスが木の影から影へ飛び移る。エイゼは目線を切らさずに全体の間隔を測り、レイラは息を整えて必死に脚を動かす。イブキは慣れた忍び足で枝から枝へ跳び、先導するように森の前を走った。


やがて、木々の切れ間から鉄の匂いが流れてきた。人工の匂い。油、薬品、焼けた電線。


「……ここだな。」


ガルツが低く呟く。


森を抜けると、そこは大きな山の裾。岩盤を削って造られた灰色の施設が、夜に口を閉ざしていた。高い塀に囲まれ、金属の門が二重に閉じられている。屋根から伸びる鉄骨には、赤い点滅灯。


「……冥土の実験場。」


ハクヤの目が細められる。


鵺は迷わず塀の隙間から潜り、施設の奥へと姿を消した。


一行は茂みに伏せ、しばし言葉を失う。やがて、イブキが目を凝らして囁いた。


「ねぇ……あれ。」


彼女の指が示す先。建物の角に、黒い目玉のようなものが光っていた。旋回する、小さな機械の眼――防犯カメラ。


「カメラか……。」


エイゼは眉を寄せる。


「どこにどんな角度で設置されているか、数を数えろ。」


ハクヤが即座に命じる。


イブキは枝を蹴って素早く移動し、戻ると小さな地図を地面に描いた。


「四つある。西門、北門、塀の角、建物の正面。回転角は大体……ここ!ここ!ここ!……で、死角はこの辺。」


指先で示されたのは、塀の影と、二つのカメラの間にできる細い通路だった。


「動きは一定か?」


「うん。左から右、三秒、止まって二秒、また左へ……の繰り返し。」


「……なら、突破できるな。」


エイゼが短く結論する。


「俺とエイゼで先に動く。アビス、ザハークは影と嗅覚で後方を監視。ガルツとレイラは最後尾で支援。イブキ、お前は先に死角を走って、合図を送れ。」


ハクヤが一行を見渡す。


「合図は?」


「クノイチの見せどころだ。手裏剣を石に当てて、チンって音を一回。それが『今』だ。」


イブキはにやりと笑い、腰の袋を叩いた。


「任せなさいな!クノイチの十八番だよ。」


やがて、風が止み、施設の赤い点滅灯だけが瞬いていた。

イブキが地面を蹴った。黒影が走り、塀の影へ。――次の瞬間、金属に当たる乾いた音が夜に響いた。


「……今だ!」


ハクヤ一行は、防犯カメラの死角を縫って、静かに灰色の壁へと迫っていった。


鉤縄が、闇の中で猫のように一度だけ鳴いた。

イブキが投げた爪が塀のひさしに噛み、絞った縄が月明かりに細い線を描く。


「次。」


小声の合図に、ハクヤが先に走る。防犯カメラの首が左から右へ――三、二、いま。

死角の細い溝へ滑り込み、塀の基礎に背を預ける。続いてエイゼ、アビス、ザハーク、レイラ、ガルツ。最後にイブキが縄を外し、影の中に畳んだ。


塀際の芝は人工の匂いが強い。油と薬品が層になって流れてくる。

耳を澄ませば、建物の心臓部から一定の唸り。インバータの音。――生きている施設だ。


「二つ目の目玉、右へ三…二…一。」


イブキの囁きに合わせ、低く、短く、身体を送る。塀と塀の角がつくる三角の陰、そこだけ空気が冷たい。

角を回った先、壁面に胸の高さの箱があった。グレーの金属、ネジ四つ、横に警告の黄テープ。


ガルツが膝をつく。


「外周カメラの分電。落とすな、触るな。……見てるだけだ。」


指先は動かないが、目が配線の取り回しを飲み込んでいく。


「よし、死角の筋は合ってる。行け。」


次の死角へ。建物の張り出しの下、換気口のスリットがある。

エイゼが膝をつき、指で風を測った。


「ここ、排気だ。内圧が外より負。――この先は通路だ。」


「開けるよ。」


アビスが細いドライバーを取り出し、ネジを二つだけ外す。金属の音が出ない角度、出ない力。

スリットがわずかに浮いた。イブキが薄い刃を差し入れ、爪のように持ち上げる。内部は蜂の巣のようなフィルタ。アビスがそれを一枚だけ外して、内側の鉄格子に目を寄せた。


「固定は二点。……切らない。曲げる。」


アビスの親指が静かに力を集める。無理はしない。ギィ、とほんの一呼吸ぶん、金属が呻いた。

成人一人が腹這いで通れるだけの隙間ができた。


「俺が先に行く。」


ハクヤが身を伏せる。肩をすぼめ、胸で息をしながら、冷えた鉄と埃の匂いの中を進む。

内側、細いメンテナンス空間に足が触れた。床はグレーチング、下を空気が抜けていく。


「クリア。」


ハクヤの小声に続いて、ひとり、またひとり。

最後にエイゼが入り、イブキが外側のカバーを元どおりに閉じ、ネジを二つ戻した。外には誰の痕跡も残らない。


薄暗いメンテ通路は、低く長い。壁に沿って銀色のダクトとケーブル束。足元の金属が靴底に乾いた響きを返す。

ザハークが風下に寄り、鼻をすっと細くした。


「……消毒と、血と、獣。――三つの匂いが交わってる。」


レイラは喉を鳴らし、掌で自分の鼓動を押さえる。


「大丈夫……大丈夫。」


角を一つ曲がると、視界の先に観音開きの扉。黄色い縁取りの非常口標識。

エイゼが耳を当て、次に蝶番に指を置く。


「磁気でロック。火災信号が入れば外れる。」


イブキが嬉々として腰袋を叩く。


「煙、あるよ。けど、ここで炊いたら、こっちに人が来る。」


「離れた廊下で鳴らす。」


エイゼが即答する。


「流量計が近い場所を選べ。警備が流れる側に空間を作る。」


「じゃ、任せて。」


イブキが片膝をつき、床の隙間から先の影を覗く。


「右二十歩、左五歩。天井に古い感知器。――あれ、鈍い。」


ガルツが工具を渡す。


「煙は三秒だけだ、点けたら即戻れ。」


「押忍!」


イブキは影の中を、影のまま走った。足音が空気に溶け、次の瞬間、遠くでちいさくカチ、と乾いた音。

続いて、薄く白い煙が天井近くに広がり、遅れてピン、と高い警告音が点る。赤いランプが一度、二度、明滅した。


エイゼが手を上げる。


「今だ。」


ハクヤが非常口のバーに掌を載せる。磁気の力がふ、と抜け、扉が呼吸のように開いた。

廊下。白い床、白い壁。左右に扉が連なる。壁の端の表示板に、黒い文字が浮かんでいる。


――第三隔離棟 鵺系統 試験区画。


レイラが息を呑み、アビスが目だけでエイゼを見る。

エイゼは頷き、短く三つの指示を切った。


「ハクヤ、アビスは右。わたしとザハークは左。レイラとガルツはここで控え、戻り道を重ねろ。二十分経過で撤収。合図は二回ノック。」


「了解。」


それぞれが散る。白い廊下の空気は冷たく、乾いている。足音を潰すため、歩幅は短く、一定に。

右の廊下を進むと、最初の扉の小窓に影がよぎった。呼吸ではない。揺れ方が違う。ハクヤが覗く。

ガラスの向こう、無人の観察室。その奥にもう一枚、厚いガラス。青白い光の中、金属の枠と透明の管が林立し、中央で何かがゆっくりと脈動していた。


「……生きてる。」


アビスの声が、音になる手前で止まった。脈動する肉塊。獣の尾と羽の茎、なりかけの牙。まだ“声”にならないものが、そこにあった。


「開けるな。」


ハクヤが低く言う。


「見て、覚える。壊すのは帰りでもできる。」


さらに進む。別の扉の端に、紙片が貼られていた。小さな丸印が三つ。見慣れた印――オボロ組の連絡印だ。

ハクヤは歯の奥で息を噛む。クロウは『器』を貸している側――印は、「通る筋」を示す目印にもなる。


「……やっぱり、繋がってるんだ。」


アビスが小声で言い、首を横に振った。


「でも、使える。帰りの道にする。」


左の廊下。エイゼとザハークは無人の管理区画へ入る。壁の端末が並び、光点がいくつも点滅している。

エイゼが端末に手を伸ばしかけ、手を止める。


「絶対に触るな。ログが残る。」


ザハークが耳を立てる。


「……足音、二。金属。こっちへ。」


エイゼは視線で壁のキャビネットを示し、扉をわずかに開ける。二人が身を滑らせた直後、白衣二人が廊下の角を曲がってきた。

談笑の声、キーホルダーの触れ合う小さな音。


「鵺の核、今日で一段落だってさ。」


「ふん、また指示が変わるさ。」


白衣は通り過ぎ、足音が遠ざかる。


「核……。」


エイゼが低く繰り返す。茶色の瞳が一瞬だけ鋭くなり、すぐに平静に戻る。


「戻る。時間を喰いすぎるな。」


合図の時間が近づく。各々が来た道の記憶をなぞるように引き返す。

角の手前、ハクヤが立ち止まった。小窓の向こう――別の観察室。ガラス越しに、鉄の柵と椅子。そして、壁に掛けられた写真が一枚。


「……これ。」


アビスが肩越しに覗き、目を細める。白を基調とした冥土の支給服を着て、日焼けした肌、肩幅のある肉体、結い上げた黒髪。証明写真のようだった。

写真の下部分に、手書きの名前がある。


――シドウ。


「イブキの……。」


言いかけて、ハクヤは言葉を吞んだ。ここにあるのは名だけだ。本人は、どこか別の部屋に。


二回、乾いたノック。レイラの合図だ。

時間だ。


「戻るぞ。」


ハクヤは写真を目に焼き付け、アビスとともに踵を返した。

分岐を一つ、二つ。非常口の内側でレイラとガルツが待っている。ガルツは誰にも気づかれぬよう、床の端に小さな印を一つ残した。


「撤収。」


エイゼが合流する。


「尾行は?」


ザハークが鼻先を震わせる。


「……ひとつ。薄い。撒ける。」


非常口をすり抜け、メンテ通路へ。来た順路を逆に辿り、換気口から外へ。ネジを戻したカバーが、闇の中でただの壁に戻る。

塀の影で全員が揃い、息を合わせた瞬間――


森の向こうで、あの声が一度だけ鳴いた。

獣とも鳥ともつかぬ、濁った鳴き。生まれかけの何かが、世界に名前を求めているような。


「間に合うの?」


レイラの声が震える。


「間に合わせる。」


ハクヤが即答する。


「場所は見た。核という単語も聞いた。……一度、クロウに借りを返してからだ。」


「やることは三つ。」


エイゼが簡潔にまとめる。


「仲間へ共有、侵入経路の固定、そして破壊の段取り。」


イブキが拳を握る。


「シドウのことも……探すよ。」


ザハークが頷く。


「……匂いは覚えた。次は見つける。」


闇が濃くなり、山裾の施設は何事もなかったように赤い点滅灯を瞬かせている。

一行は森の影へ溶け、音もなく山を下った。

戻る灯りは遠い。けれど、道はできた。次は、切り込む番だ。

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