鵺の行方
夜の冷たさがようやく抜けはじめる頃、東の空が薄く明るんだ。竹の葉から露が落ちる小さな音が、道の端々で弾ける。
一行に、ひとり影が増えた。イブキだ。紫の装束に腰の小袋、足取りは軽いが、目は真面目だ。
「ここから先は山の裏道だよ。人が踏まない獣道。」
先頭のハクヤが小さくうなずく。出発前、エイゼが皆を見回して言った。
「約束を確認する。――必ず名で呼ぶこと。撤退は恥ではない。指示は私、異論は後。以上。」
「了解!」
エイゼは細い白布を一本、イブキの手首に巻いた。
「“灯の印”だ。これを見れば、戻る場所を思い出す。迷った時の目印にしろ。」
「ありがと。大事にする。」
竹林へ入ると、湿り気を含んだ空気がひやりと頬を撫でた。道はじきに細くなり、獣の踏み跡に変わる。ザハークが風下へ半歩寄って鼻を利かせる。
「……鉄と樟脳。人の匂いは遠い。かわりに……獣の匂いが二つ、三つ。重なってる。」
「一匹で、複数の匂い?」
レイラが小声で返す。ザハークは短く頷いた。
「……形が定まらない。嫌な感じだ。」
やがて、崩れかけの茶屋跡が見つかった。庇だけが残り、裏は低い崖に寄りかかっている。休憩にちょうどいい。
「一息いれて、段取りを詰めっぞぉ。」
ガルツは柱と柱の間に極細の糸を張り、触れれば指にだけ震えが伝わる簡易警戒を作る。レイラは包帯と止血帯の位置を再確認。アビスは崖上の見張りに回り、ザハークは風の筋を三度確かめた。
イブキが庇にするりと上がり、前方を覗いて囁く。
「この先で沢が二股。右は滝、左はぬかるみ。鵺が居るなら、右だと思う。声が響くから。」
ちょうどそのとき、森の奥から短い鳴きがした。猫のようで、鹿の子のようで、どこか人の嗄れ声に似ている。ひゅう、と風に千切れて消えた。
「……聞こえた。」
ハクヤがうなずき、土間に指で簡単な地図を描く。沢、分岐、滝。伏せ位置と退路。エイゼが風向きの矢印を添え、ザハークが「鼻」の線を入れる。アビスは影の濃い場所を点で印し、レイラは負傷時の運搬ルートを別線で示した。イブキは自分の動きをその間へ滑らせていく。
「イブキ。」
ハクヤが布の奥から名を呼んだ。
「お前は先行偵察。滝の手前、三本目の杉に印をつけろ。そこから中へは入るな。合図は二回。戻りが遅れたら置いていく。」
「了解!すぐ戻る!」
影がひとつ、音もなく森へ消えた。
十分ほどで風と一緒に戻ってくる。膝をついたまま、小声で報告した。
「いた。滝壺の脇の岩穴。入口は低いけど中は広い。足跡は……全部バラバラ。木の根に噛み付いたような跡もあった。」
アビスが唇を引き結ぶ。
「そいつは、勇気がいるな。」
ガルツが舌打ちしつつも、工具袋を漁りながら対策できる道具を探している。
「先頭は俺が行く。」
ハクヤが即答し、反対は出ない。エイゼが手短に配置を決める。
「二番手は私、三番手アビス、四番手ザハーク。最後尾はガルツ。レイラは入口の少し手前で引き上げ準備。イブキは穴の上で見張り。――飛び込むな。引けと言ったらその場で離脱。」
「了解!」
イブキの返事は明るいが、顔つきはもう仕事のそれだった。
日が傾く。森の色が濃くなり、沢の音が近づく。滝の霧が細かく頬に触れた。
見えてきた。岩肌の裂け目。中から、浅く速い息の音。ひゅう、とかすれた鳴き。続いて、低い唸り。
「……いる。」
ザハークが囁く。ハクヤは短く深呼吸をし、布の内側で目を開けた。柄に手が馴染む。足裏が土の傾きを掴む。
エイゼが小さく顎で示す。
「行け。」
『灯の印』を巻いた手首が最初の一歩を刻む。イブキは岩陰で身を薄くし、息を止める。
滝壺の白い霧の向こうで、影が身じろぎした。猫でも猿でも犬でもない。肩の線は途中で変わり、背の毛並みも場所ごとに違う。形は、継ぎ接ぎだ。
鵺の巣へ――
一行は静かに、闇の入口へ踏み込んだ。




