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焔翼のグリフォン  作者: いねの
第一部 第2章 灯の寮
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影の一族

 扉が閉まる微かな音が、胸の内側までやさしく届いた。

エイゼの足音が廊下の向こうへ遠ざかる。部屋に残ったのは、机のランプの円い明かりと、包み紙の乾いた匂いだけ。


アビスは椅子に腰を下ろし、指先でそっとこめかみを撫でる。さっきエイゼの指が触れていった気配が、まだ温かい。ただそれだけで、胸がいっぱいだった。言葉は要らない、と思えるほどに。


――けれど、胸の奥で、別の色が静かに浮かぶ。

黒。影。沈む色。


彼の出自は、誰にも言っていない。冗談めかして胡散臭い笑みでごまかす癖はあるが、空白は消えない。

アビス――それは生まれ持った名だ。

南西の地図の端、擦れて消されかけた小さな字――セファレル。そこに住む希少な部族、『深淵の一族』。光から距離を置き、顔や肌を黒布で隠し、滅多に人前に現れない影の民。


赤い瞳、漆黒の髪、陶器のような白い肌、全身を覆う黒衣。

――けれど、彼はその「力」を持たなかった。影に身を沈める術が、どうしても身につかなかった。


 いまよりずっと小さな世界の、地面を深く掘って作った家々。竪穴式の住居が円を描く、セファレルの夜。

風が吹くたびに、地表の黒い布がさわさわと鳴る。人々の歩く音は柔らかい。影を踏まない歩き方を、皆が知っているからだ。


幼いアビスは、三兄弟の末っ子。長兄ノクス、次兄アンブラは、影へ溶ける術を楽しげに覚えていく。足首から、肘から、輪郭が黒へと馴染むのを見せびらかしては、アビスの前でわざと姿を消し、背後から肩をはたいた。

父は黙ってそれを見て、アビスには目を向けない。長老は「見てはならぬもの」として視線を逸らした。部族にとって「影へ沈めない子」は、輪から零れる欠片にすぎなかった。


唯一、彼の名を正しく呼ぶ人がいた。母だ。痩せた指で黒布の端を持ち上げ、子の頬に当て、夜の匂いに混ぜて抱きしめる。


「おかあさん、いつかぼくも、かげのなかに、はいれるようになるよね……?」


母は頷いた。うそでもいい、頷くしかなかった。「いつか」を信じることだけが、彼に残された糸だったから。


やがて五つの年。成長の儀の日が来た。

広場の中央に浅い窪み。夜のはじまり、一族は輪になる。長老の杖が地を三度叩き、合図が落ちる。

アビスは言われたとおり、影へ手を伸ばす。黒い水面に触れるように。……何も起きない。腕は輪郭のまま。指は指のまま。影はただ、彼の足元で夜の形をしているだけだった。


「……開かぬ。」


長老の声は水を打つ音より冷たく、早かった。

その一言で輪は解け、言葉にならないさざめきが彼に降った。兄たちの肩が揺れ、父の唇が固く結ばれ、誰かの手が背を押し、誰かの足がすねを蹴った。

耳の奥で血の音がざわめき、視界の黒が波打つ。

そして、宣告。


「お前は一族には必要ない。……出ていけ。」


その言葉は、夜よりも深い影を口の中に落とした。

乱暴に引き立てられ、投げ出される。黒布が破れ、膝に土がめり込み、頬に冷たい風が刺さる。


母の手だけが、最後まで躊躇した。

それでも、彼女は抱いた。腕の中の小さな体を、森の奥へ。足元の枝は折れ、葉は濡れ、鳥は飛び立つ。

彼女は何度も立ち止まり、何度も振り返り――それでも前へ進んだ。集落の目が、影の形で追ってくるからだ。


森の深いところで、彼女はアビスを下ろし、黒布を一枚、胸にかけた。唇が震え、声がかすれる。


「……ごめんね、アビス……。」


その言葉は風にほどけ、子の耳には半分しか届かない。熱と寒さの境目で、アビスの視界が白く滲む。


「お……かあ……さん……。」


伸ばした指は、ただ冷たい布の端を掴んだ。

母は、走った。戻らないために走った。村へ、家へ、影の輪へ。――彼女自身もまた、輪の一部だったから。


残された森に、別の足音。重く、地面を確かめる旅人の歩き方。

黒布の下で半ば眠る目に、異国の色の外套が映る。肩に大きな荷。ベルトに留められた器具。一族ではない匂い――鉄、油、乾いた土。


「……大丈夫か?まだ、生きてるか?」


太い手が、薄い体をそっと抱き上げる。視界が揺れる。外套の匂いは、知らないけれど嫌ではなかった。

旅人は躊躇しなかった。ためらえば、夜が戻ってくるだけだと知っている歩き方だった。


森の外れ、道の向こう。

彼は、アビスを冥土の孤児院へ連れていった。磨かれた廊下、木のベンチ、陽の差す窓。消毒と石鹸の匂いが混ざり、清潔で、少し温かみのある施設。名簿には番号が添えられ、規律は厳しかったが、毛布はいつも乾いていたし、スープはぬるくても必ずあった。


そこから先は、別の箱に入る話だ。天井の灯りは眩しく、泣く子は泣き、眠る子は眠る。アビスは番号を与えられ、影の術の代わりに別の術へと繋がれていくことになる――それが、この世界のもうひとつの「輪」だった。


机の上の灯りが、いまの彼へ戻す。

アビスは深く息を吐き、口元だけで笑った。

あの村の黒布は、いまはもう似合わない。代わりに、この寮で白い布が肩を包む光景を、彼は知っている。番号ではなく、名前で呼ばれる場所。輪ではなく、戻る場所。


窓の外は静かだった。人工芝を撫でる夜風、機械室の低い唸り、遠い階のどこかで鳴る配管の細い音。それらが重なって、灯の寮の呼吸になる。


(影に沈めない子は、ここでは要らない子じゃない。)


胸の内側で、ひっそりと声が言う。

あの夜、森で伸ばした指は空を掴んだ。けれど今は、差し出せば誰かの手が返ってくる。ハクヤ、エイゼ、レイラ、ザハーク、ガルツ。

彼は立ち上がり、ランプを少し絞めた。部屋が夜に馴染み、光がやわらかく床に落ちる。


(いつか、言おう……必要になったときに。過去は鍵にも檻にもなるけれど、使い方は、いまの僕が決める。)


胸の奥でそっと決めて、アビスはドアに手をかけた。

廊下の静けさが広がる。遠くの部屋では、誰かの寝息が規則正しく続いている。


彼は一度だけ振り返り、机の上の包み、『再び幸せが訪れる』の紙片がないことを確かめて微笑む。渡すべき言葉は、もう渡した。


黒い支給服のフードを取って、裸電球の下をまっすぐ歩く。

影に身を潜めはしない。ここではもう、潜む必要がないのだから。

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