再び幸せが訪れる
遠征の熱が引くころ、寮の廊下には機械室の低い唸りだけが残っていた。
ハクヤは自室のドアを閉めるなり、靴を蹴って、そのままベッドへ倒れ込む。スプリングが小さく鳴り、洗い立ての白い寝具がふわりと肩を受け止めた。昼間、エイゼが洗って干したものだ。布は軽く、手触りは少しだけきしむ。まるで昔、彼を包んだおくるみの名残が、形を変えて戻ってきたみたいに。
「……俺……生きてる……。」
珍しく寝言が零れる。布の影で唇がかすかに動き、まぶたの奥で目が何かを追う。手は剣も持たず、胸の上で緩んで重ねられていた。無防備――その言葉がぴたりと当てはまる寝姿だった。
しばらくして、廊下を渡る足音。そっと開いたドアから、エイゼが顔をのぞかせる。
非常灯に照らされた白は、夜の色を少し吸ってやわらかい。エイゼは部屋の空気を一度吸い込み、近づいて掛け布団の端を整えた。角を折り、肩口まで静かに引き上げる。髪が頬にかからぬように、指先で一筋だけ退ける。
「……よくやった、ハクヤ。」
誰にも聞こえないほどの声で言う。
雪の夜――あの透明な箱から抱き上げた、温い重み。白い布に包んだら泣き止んだ小さな呼吸。胸のすぐ下で揃う鼓動。
いま、同じ白が彼の肩を覆っている。もう檻ではない。戻る場所の布だ。
ハクヤがまた短くうわ言をこぼした。
「……行かない……見届ける……だけ……。」
エイゼはそっと頷き、窓の隙間を二指ぶん閉める。夜風で布が冷えないように。灯りを一段落として、ドアを静かに引いた。
部屋の中では、白い寝具がおくるみのように胸から背中までをゆっくり包み、寝息は等間隔に落ちていく。
ハクヤは、その夜はずっと――無防備に眠っていた。
その夜。アビスは、廊下の角で足音を聞き取り、そっと顔を上げた。非常灯の白に縁取られて、エイゼが無言で歩いてくる。アビスは小さく手を上げた。
「ねぇ、エイゼ。……大したことじゃないんだけど、少しだけいい?」
足を止めたエイゼに、アビスは自室の扉を開ける。中は簡素で、机の上の小さな灯りだけが温度を持っていた。
「これ、キミにプレゼント。レイラと一緒に考えたんだ。……気に入ってくれると、いいな。」
アビスが差し出したのは、淡い紙で包んだ小さな包み。エイゼは無駄のない手つきで紐を解き、紙を開いた。中から現れた白は、雪みたいに静かな光を含んでいた――スズランの髪飾り。絹の細いリボンに、小花がいくつも寄り添っている。裏側には目立たない細いピン。
エイゼは一拍だけ黙り、目を細めて微笑んだ。
「……綺麗だ。」
アビスの肩がほっと落ちる。
「つけてみてよ。絶対、似合うと思うんだ」
エイゼは頷き、鏡も見ずに指先で髪を整える。茶の髪に、前髪だけ一房、雪のような白が混じる――結わずに流したその耳上、こめかみの少し後ろに、ピンを静かに留める。白い花は茶の色に映え、前髪の白と呼応してほのかに光った。
「どうだ?」
問いは短い。アビスは思わず笑って、首を横に振った。
「綺麗だよ。……その言葉しか、出てこない。」
机の灯りが花弁の縁に沿って揺れ、白がわずかに呼吸するように見えた。エイゼは指で一度、確かめるように触れ、視線をアビスへ戻す。
そのとき、開いた包み紙の底から、小さな紙片がひらりと落ちた。エイゼが拾い上げる。そこには、整った字で一行――『再び幸せが訪れる』。
エイゼのまぶたが、きゅっと和らぐ。紙片を折って支給服のポケットにしまいながら、低く言った。
「……受け取った。」
沈黙がひと呼吸ぶん。アビスは照れ隠しに笑って、ふと思い出したように言葉を継いだ。
「何十年ぶりのプレゼントだろう。孤児院のとき、キミの似顔絵を渡した以来かな。」
「……そうかもな。」
エイゼはかすかに肩を揺らし、口元だけで笑う。
「お前は絵心があった。……だいぶ美化されていた記憶があるが。」
「事実を丁寧に描いただけ、ってことで、ね。」
「強弁だ。」
くす、と短い息が混ざる。エイゼはドアの方へ半歩寄り、白い一房の前髪に触れてから、もう一度だけ髪飾りを確かめた。
「大事にする。……ありがとう、アビス。」
アビスは首を振る。
「こちらこそ。……僕を受け入れてくれて、ありがとう。」
エイゼは返事を言わず、代わりに机の灯を指先で少しだけ絞った。花の白が夜に馴染む。扉を開けて出ていく背の横顔に、スズランが静かな音もなく揺れた。
扉が閉じる。残ったのは、灯りのぬくもりと、包み紙のかすかな手触り。アビスは胸の奥で息を整える。
(願いは言葉になった。あとは、守り続けるだけ。)
廊下の先、足音が遠ざかる。白い花は、茶の髪と白い前髪のあいだでそっと光り、明日の出発と帰還のしるしになるはずだった。




