驚かせないで
外周の門の内側は、夜の匂いが濃かった。アスファルトに冷えが降り、人工芝の縁で風が小さく草を撫でる。
アビスは黒い冥土の支給服のフードを目深にかぶり、柱の影に身を溶かしていた。深紅の瞳だけが薄闇を拾い、猫のように静かに光る。息は浅く、足裏の重心は外に逃がさない。――待つ。
川沿いからの足音が三つ。土の音、布擦れ、鉄の鳴り。近づくほどに、ひとつは警戒を散らし、ひとつは呼吸が短く、もうひとつは匂いを先に伸ばす。
門をくぐった瞬間、アビスは影のまま声だけ落とした。
「やぁ、おかえり。」
闇の中、赤い瞳が二つ、ふっと浮いた。
「うわあああああぁ!?」
レイラが跳ね、ハクヤの喉が詰まる。ハクヤは反射で後頭部の髪が逆立ち、腰の剣に手がかかった。レイラは慌ててハクヤの背中にぴたりと隠れる。
「シッ……!」
ザハークが短く制した。鼻をひくつかせ、すでに笑いを喉の奥で噛み殺している。
アビスはそっと一歩、灯りの端へ出た。フードの縁を指でつまみ、目元だけ明るみに晒す。
「ごめんごめん。試してみたかったんだ、僕の見張りの精度。……ザハークには隠れきれないけどね。」
「……匂いは隠せないな。」
ザハークが鼻先で笑う。
「……紅茶と、冥土の布の匂い。少しの夕飯の匂い。まさしく、お前だ。」
「ったく……やめろよアビス、心臓に悪い。」
ハクヤは剣から手を離し、逆立った髪を掌で押さえた。
「暗がりで目だけ光らせるの、反則だろ。」
「だって、夜に紛れるには最適な顔だから。」
アビスは肩をすくめ、すぐ真面目な声に戻した。
「うん、外周、異常なし。罠は生きてる。北東の路地に足跡二、古い。――入ろう。二回ノックでね。」
ザハークが先に出て、二回ノックして戸を開ける。レイラはまだハクヤの背に半分隠れたまま、こそこそとアビスを睨んだ。
「もー……心の準備ってものがあるんだよ、アビスくん……。」
「今度は鈴でもつけようか?」
「つけなくていい!」
三人の肩の力が抜けるのを確かめ、アビスは門を振り返って一度だけ外を見た。風の流れ、音の途切れ、匂いの層――すべて問題なし。
「じゃ、入るぞ。」
ハクヤが指を合わせ、二度、はっきり戸を叩く。中からボルトの音が返り、拠点の灯がわずかに濃くなった。深紅の瞳はそこでやっと光を消し、フードの影に隠れた。
夕食の片づけがひと段落すると、食堂の長テーブルに調達物資が並んだ。塩袋が二つ、菜種油の陶瓶、麻糸と絹糸の束、縫い針と細い針金、包帯と消毒用の酒。ほかに乾燥野菜、固い黒パン、布切れ、そしてユラシノの通し布が小さく巻かれている。
「塩は三週もつ。油は加熱用に限定、冷やし調理は控える。」
エイゼが数を読み上げ、白板に転記する。
「針は十二、糸は良質。包帯は洗って再利用、消毒酒は医療室と厨房で半分ずつ。」
ガルツは陶瓶を光に透かし、鼻を鳴らす。
「悪くねぇ。糸はユラシノの手だな。強ぇよ、これ。」
その端で、ハクヤが包みをいくつか取り出した。小麦の焼き菓子、干した果実、塩漬け肉の小袋、薄焼きのパン――どれも丁寧に紙で包まれ、端が白い糸でくくられている。
「……村の連中が、旅のお土産だって。見張りの時間に食べよう。」
それ以上は言わない。繭の子の件は胸にしまったまま、ただ「ありがたかった」とだけ付け加える。
「善意は受け取る。代わりに静けさを返す。」
エイゼは短く頷き、包みを三つに分けて冥土製の冷蔵庫(通信モジュール撤去済み)の中段へ収めた。温度は弱、開閉は最小。
その合間、レイラがアビスの袖を小さくつまむ。
「アビスくん……ちょっと、こっち。」
食堂の隅、窓の影。レイラは胸当ての内側から小さな包みを取り出し、声を落とす。
「ね、約束のやつ。ユラシノの屋台で見つけたの。ボクが作るより綺麗すぎて、つい。」
包み紙をそっと開くと、絹の白いリボンにスズランの小花が織り込まれた髪飾り。裏には細いピン金具。光に当たると、花びらが雪の欠片みたいに淡く光った。
アビスは目を瞬き、すぐに微笑む。声は本当に小さい。
「僕のためにありがとう、レイラ。」
「うん。……言葉は、アビスくんが添えて。」
アビスはうなずき、髪飾りを掌で包んで上着の内ポケットへ滑らせた。近いうちに、エイゼ本人に手渡すために。
(夜の見回りが終わって、人が引いたころ。『再び幸せが訪れる』――その一言を添えて、だね。)
テーブルでは、ガルツが乾燥野菜の袋を指で弾いた。
「これ、半分は保存。残りはスープの出し殻と合わせてパン粥だ。腹ん中が温まるぞ。」
「了解。明朝の分に回す。」
エイゼが白板に「朝、パン粥+紅茶」と書き加える。
ザハークは窓際で外の匂いを確かめる。
「……巡回は北から。犬の声一度。風向きは東、問題なし。」
「よし。」
エイゼが手を叩いて締める。
「物資は冷蔵庫へ。取り置きは上段に入れてテープで封印。今日は休め、交代見張りは計画どおり。」
それぞれが持ち場へ散り、食堂に再び静けさが戻る。アビスはポケットに触れ、指先で小さな花の感触を確かめた。
(渡すんだ。ちゃんと、名前で。)
胸の奥で、静かに決意だけが温度を上げていった。




