足を止めたハクヤ
川沿いの土手道を進んでいた三人は、小さな堤の上で足を止めた。夕方の風が葦を鳴らし、遠く、畑の畝の向こうにフロウエルの屋並みが影だけ見える。
「……やっぱり、俺、フロウエルには行かないほうがいい気がしてきた。」
先頭のハクヤが言って、布の端を指で押さえた。声は低く落ちている。
「母さんには、“冥土へ行く”って伝えたきりだ。今の俺のことは、さすがに言えない。……一応、母さんも熱心な信者だからな。」
足が止まる。レイラはすぐに並び、うなずいた。
「行かないって選択、立派だよ。守るために距離を置くのは勇気だよ。」
ザハークは風下に半歩寄り、匂いを確かめる。油と鉄――街道のほうへ流れている。
「……いま入れば、匂いも目もこちらに向く。丘から見るだけで十分だろう。」
土手を離れ、三人は畑と低木の影を縫って丘へ回り込む。そこは子どもでも隠れられる浅い窪みで、村全体の屋根と煙が見渡せた。夕食の煙はまっすぐ細く、家々の灯は少ないが揃っている。
ハクヤはじっと見た。目が慣れるにつれ、一軒の窓の前に張られた白布が見える。祈りの印だ。軒下の薪は乾いていて、欠けはない。洗い桶が裏手に伏せてある――いつもの手順だ。小さな影が戸口を出入りし、灯をひとつ移す。
「……生きてるんだな、母さん。」
ハクヤの喉から、やっと音が出た。レイラは袖口で手の甲をそっと触れ、ザハークは視線を動かさずに言う。
「ああ、これで十分だ。いまはこれでいい。」
「手紙は?」
レイラが小声で問う。
「……書けない。嘘はつけないし、真実は渡せない。」
ハクヤは首を横に振り、もう一度だけ家を見た。
「印も置かない。母さんを巻き込むわけにはいかない。」
「了解。」
レイラはそれ以上は言わない。
丘の上で短い段取りを交わす。
「今夜はここから見張り。明け方に川沿いへ戻って、昼は外壁の流れを観る。南門は避ける。水車小屋の土手から。」
「腕章は白と鉛が多い。赤が来たら、引く。」
「レイラは昼の聞き耳。俺は出入りの荷と車輪の跡を見る。」
三人は頷き合い、窪みの陰で小さな焚き火を石で囲った。火は低く、湯は薄く。言葉は要る分だけ。
夜半、村の灯がひとつ、またひとつ落ちる。ハクヤは布の奥で目を細め、最後まで残る灯を数えた。数は以前と同じだった。胸の奥の固さが、少しだけほどける。
「……変化なし。犬が一度吠えた。巡回は北から回っている。」
ザハークは耳を立て、風の向きを数えた。
「じゃあ、今夜は入らない。」
ハクヤは決めるべきところで決め、視線を村から外した。
「いまは見届けるだけ。拠点に戻ったら報告して、次を動かす。」
「うん。戻る灯りは、エイゼさんたちが守ってる。」
レイラの言葉に、ハクヤは笑ってうなずく。丘の斜面を撫でる夜風が、白布の記憶を連れてくる。あの夜ここへ辿り着いた誰かの背中の熱。
――今は、届かなくていい。ただ、生きていると知ればいい。
星が一つ増えた。三人は交代で目をつむり、順番に空を見張った。
灯の寮の方角に、心の中で小さな印をつける。戻るための印。
それだけを合図にして、今夜は終わる。




