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焔翼のグリフォン  作者: いねの
第一部 第2章 灯の寮
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寮で待つ者

 拠点の奥、風呂場の戸口から白い湯気が廊下へ薄く流れ出していた。壁の配管は温度差でかすかに鳴り、簡易ボイラーの唸りが低く続く。使用時間は短く、今は入浴スロットの十五分――エイゼの番だ。


アビスは戸口の脇でタオルを胸に抱え、落ち着きなく足先を揺らしていた。濡れた床に光が揺れ、湯気の向こうで水の落ちる音が規則正しく途切れる。耳を澄ますたび、胸の鼓動も真似をする。


工具袋を提げたガルツが、金属靴の音をコツコツ鳴らして曲がり角から現れる。眉を上げ、呆れ半分のおかしさ半分で口を開いた。


「風呂場の前でなにしてんだぁ、お前さんよ。」


アビスはにへら、と笑い、抱きしめていたタオルをぎゅっと握る。


「エイゼのことを待っているんだ。」


「……ったく、若いってのは良いなぁ。」


ガルツは肩をすくめ、笑いを喉の奥に残したまま通り過ぎた。工具の金具が、遠ざかるたびに小さく触れ合う。


アビスは戸の向こうへ、わざと少し大きめの声で投げかける。


「ねぇエイゼ。僕たち、実年齢より若く見られるって良いね♡」


湯気越しに間が一拍。続いて、水音がひと筋だけ鋭くなる。


「……うるさい。」


風呂場の奥から、いつもの調子の返事。アビスはタオルを抱え直し、耳まで赤くしながら、けれどどうしようもなく嬉しそうに廊下の壁にもたれた。湯気はまだ白く、配管の唸りは、もう少しだけ続く。


脱衣所の戸がすうっと開き、白い湯気の切れ目から細い手だけがのびてきた。手首には水滴がしたたり、骨の線がきれいに浮く。


「……すまない、アビス。タオルを忘れてしまった……。」


声はいつもより半歩だけ小さい。わずかな気恥ずかしさが混じっていた。


アビスは待ってましたと言わんばかりに、胸に抱えていたタオルを即座に差し出す。


「大丈夫だよエイゼ、僕が気づいてたから。ほらね。」


指先が触れる。温い布と、濡れた指の冷たさ。戸の向こうで一拍、息が止まる気配がして――。


「……お前、変態か?」


即座に落ちる低音。アビスはにへら、と口の端を上げた。


「僕たち“変体”できるから、そうかもね〜。」


「そういうことじゃない……。」


素っ気なく切る声。けれど、戸の向こうでタオルを握り直す音は、どこか呆れ笑いを含んでいる。


廊下の奥で工具袋をいじっていたガルツが、鼻で笑った。


「あのバカップルの会話、漫才みてぇで飽きねぇな。」


アビスは聞こえないふりで肩をすくめ、戸口に向けて小さく囁く。


「ゆっくり温まって。外はちょっと冷えるから。」


返事は短い。


「……助かる。」


戸がそっと閉じ、湯気の白がまた継ぎ目なく満ちる。配管の唸りが低く続き、タイルに落ちる水の音が規則正しく刻まれる。アビスはしばらく戸の前に立ったまま、満足げにエイゼのことを健気に待っているのであった。


灯の寮は、こんな他愛もないやり取りで、少しずつ温度を上げていく。


しばらくして、タオルを頭にぽすりと被ったエイゼが湯気といっしょに廊下へ現れた。濡れた前髪がこめかみに張りつき、首すじを伝った水滴が鎖骨のあたりで細く消える。


「おかえり。後ろの髪、僕が乾かしてあげるよ。」


「……大丈夫だ。」


素っ気ない返事。だがアビスは嬉しそうに一歩、また一歩とついていく。尻尾を振る子犬のような足取りで。


「はぁ……お前は犬か?」


「僕は、元冥土の犬だよ〜。」


「そういうことじゃないんだが……。」


呆れを引きずったまま、エイゼは洗面所へ。鏡の縁に指をかけ、壁のコンセントへ冥土製のドライヤーのプラグを差し込む。アビスはもう隣にいて、当然のように本体を受け取った。


「風量は弱。三分だけだ。蓄電の配分を崩すな。」


「了解。温冷切替は……温、低だね。」


スイッチが入る。低めの唸りと、掌にたまごのようなぬくさ。アビスはエイゼの背後に回り、タオルをそっと外してから、毛先へ風を当てる。鏡越しに目が合うと、エイゼはすぐ視線を落として


「後ろだけだ。」


と小さく付け足した。


「知ってるよ。はい、うつむいて。そう、襟足からだよ。」


流れる風に合わせて指先でくし目を作る。水滴が一粒、二粒、ふわりと跳ねた。わずかに立つ産毛が温風に揺れて、銅の羽根を思わせる色が一瞬だけよぎる。


「……手際は悪くない。」


「でしょ?変体は得意だけど、乾かすのも得意なんだ。」


「……。」


言葉の代わりに、エイゼの人差し指が軽く跳ねた。

こつん――額にデコピン。


「そういうことじゃないと言っている。」


「いったぁ……でも、はい、もう八割。あと一分。」


アビスは素直に風を弱め、最後に冷風で艶を整える。鏡の中、エイゼの後ろ髪がさらりと流れ、首すじの水気が消えていく。


「完了。動いていいよ。」


「……助かった。」


短い礼。コードを抜く音がして、洗面所の唸りが止む。エイゼはタオルを畳みながら、去り際に横目でアビスの額を見る。


「赤い。自業自得だ。」


「愛の印ってことで。」


「違う。」


それでも、エイゼの口元はわずかに緩んでいた。廊下に出ると、機械室の低い鼓動が聞こえる。灯の寮の空気は、風呂上がりの湯気みたいに、少しだけあたたかかった。


アビスは上機嫌のまま、エイゼと並んで食堂へ向かった。廊下の非常灯が二人の影を細く伸ばす。


「ねぇエイゼ、今日の夕食は僕が手伝うよ。それに、帰ってくるのが遅くなるハクヤくんたちの分は、大事に取っておこうね。」


「お前は単に頼りになるんだか、単にくっつき虫なだけなのか……本当に謎だな。」


「くっつきキマイラって呼んでもいいんだよ〜。」


エイゼの指が、今度はやさしくアビスの額をこつんとはじいた。


「……バカか。」


食堂に入ると、金属天板のIHコンロが静かに光を帯びていた。流しの蛇口をひねると、井戸につながる水が真っ直ぐ落ちる。アビスはステンレス鍋に井戸水を張り、IHのタッチパネルを弱から中へと滑らせた。低い電子音と、微かな唸り。やがて底から小さな気泡が昇り、乾燥野菜と豆が水面でゆっくり回り始める。


エイゼは隣でフライパンを載せ、設定を弱に固定してから硬いパンを薄く切り、オイルをひと刷毛。表面がふわりと温むまで片面ずつ当て、焦げ付かないようヘラの角度を調整する。


「塩は控えめ。帰ってくる三人の分、小鍋に取り分けて布で包む。」


「了解、IHは短時間で切るね。電力は温存。」


湯気が静かに立ち上がり、食堂に柔らかな匂いが広がる。アビスは電気ケトルに井戸水を注ぎ、スイッチを入れた。ランプが点き、間もなく細い沸騰音。棚の端から冥土印の保存茶葉の缶を取り出す。


「お茶はどうする?」


「紅茶にしよう。沸いたら一度だけ沸騰、茶葉はひとり分ティースプーン1、三分で引き上げ。戻ったら淹れ直す。」


エイゼは白板に短く書き足す。


夕食、豆と野菜のスープ、温パン。

取り置き、三

飲み物、紅茶、戻り次第淹れ直し。


鍋が落ち着き、アビスは味を見て頷く。


「……うん、帰ってきたら一番に温まる味だね。」


 エイゼは小鍋に三人分をよそい、布を二重に掛けておく。


「目印をつけておこう。」


「任せて。」


アビスは紙片に丸印を三つ描き、器の取手に紐で結わえた。


IHの火力を落とし、音がするりと静まる。エイゼは短波受信機のスイッチを入れ、耳を傾けた。


「……雑音のみ。異常なし。」


「外周もあとで見てくる。食べ終わったらね。」


紅茶の香りが立ちのぼり、二人は湯気の向こうで椀を持った。


「……こうして戻るための用意をしている時間が、一番静かでいい。」


「うん。灯りを残して待つの、好きだよ。」


アビスは照れ隠しにマグをくるりと回し、笑った。さっきのやさしいデコピンの場所が、まだほのかに温かかった。

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