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焔翼のグリフォン  作者: いねの
第一部 第2章 灯の寮
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繭の子

 ハクヤ、レイラ、ザハークの三人は、拠点を出て北へしばらく歩くと、風の匂いが変わった。冷たさの残る春の空気に、湯で晒した糸と桑の枝の甘い香りが混じっている。


道の両側の木々には、帯のように長い白布が結ばれて揺れていた。軒先にも白布。窓枠にも白布。陽を受けるたびに、その白は少しだけ金色を含んで見えた。


「……ここがユラシノ村か。」


 ハクヤが小さくつぶやく。顔を覆う古布の内側で、声が自分に跳ね返る。


 村の中心に広場があり、そこに低い祭壇が組まれていた。白木に真白な絹布を幾重にも垂らした、簡素で清らかな壇だ。四方から細い布が張られ、風が通ると、鈴の音みたいなかすかな擦れる音が広がる。祭壇の脇には、小さな籠がひとつ。中には白い布と、瑞々しい桑の葉が一枚。


「祈願祭だね。春蚕(はるご)がはじまる前の、村の祈りの日。」


レイラが周囲を見回して言う。人々はみな白布を身につけ、静かに準備を進めていた。


白衣に、薄布で顔の下半分を覆った巫女が近づき、三人に軽く頭を下げる。


「遠いところをようこそ。今日は春蚕の祈りの日。“繭の子”をお迎えして、桑の実りと糸の無事を願います」


「“繭の子”って?」


レイラが首を傾げる。


「幼い子や赤子を白いおくるみに包み、お蚕様の分身としてしばし祭壇にお預けします。村が祝福を捧げ、長く健やかにと願い、すぐにご家族へお戻しします。」


そのときだ。ひとすじの風が吹き、ハクヤの頭にかけた古布がふっとずれて、琥珀色の瞳が光の中に現れた。


巫女が目を細める。


「……まあ。太陽みたいに綺麗な琥珀。この村でも、そうは見ません。」


ハクヤは慌てて布を押さえ、目深にかぶり直す。


「……失礼。」


巫女は責めずに微笑み、背後へ視線を送った。


「長老をお呼びします。」


ほどなくして、白布の羽織を重ねた長老が現れた。背は曲がっているが、まっすぐな目をしている。近づくと、躊躇なく手を伸ばした。


「琥珀色の瞳だと?……どれ、よく見せてごらん。」


「や、やめ――。」


ハクヤが布を深く下げようとするより早く、長老は目元だけに光が入るよう、布の端をほんの少しだけ持ち上げた。乱暴ではない。指は桑の粉の匂いがして、温かい。


白一色の景色のなかで、琥珀がひとしずく、静かに輝く。


「……やはり太陽の瞳だ。」


長老は満ち足りたようにうなずく。


「太陽がなければ桑は育たん。桑が育たねばお蚕様は糸を紡げん。その瞳は、この村ではありがたい印じゃ。」


長老は今度はハクヤの手を包んだ。掌は節くれ立っているが、力は優しい。


「少年よ。もし良ければ“繭の子”になってはくれぬか?」


ハクヤは固まった。布の内側で、耳まで熱が登る。言葉が出ない。


視線が無意識に仲間へ走る。

まずレイラ。彼女は驚いた顔をすぐに引っこめ、目だけで短く問いかけた――。


(危険は?意味は?)


次にザハーク。彼は一歩、風下へ寄って匂いを確かめる。血の気配、薬品、嫌な鉄。しばしののち、低く囁いた。


「……血の匂いはない。儀は穏やかだ。ただ、目立つ」


「でも、信を得られる。」


とレイラが続ける。


「それに、時間も短い。ボクはいいと思うよ。」


長老は二人のやり取りを邪魔しなかった。ただ、包んだ手にほんの少しだけ力を足し、静かに言葉を置く。


「名は聞かん。名は枠を作る。今日は名ではなく、瞳の光だけ借りたい。」


ハクヤは喉の奥で息を飲み、ふたたび仲間を見る。

レイラは小さくうなずく。

ザハークは目で


「近くにいる。」


と告げた。片手は外套の内側、いつでも動ける姿勢。


白い布が風にふわりと揺れる。祭壇の小さな籠の上、白いおくるみが柔らかく開かれて、中央の桑の葉が朝の色で待っていた。


ハクヤはおそるおそる口を開く。


「……やるとして、どうすればいいんだ?」


長老の提案は簡潔だった。


「“繭の子”は、お蚕様の分身として白布に身を包み、祭壇に座って祈りを聞くだけ。それだけでよい。」


ハクヤは祭壇裏の小さな控えに通され、巫女からたたみ皺ひとつない絹の白布を受け取る。布は薄く、指に吸いつくように柔らかい。


「目元だけ、琥珀がのぞくように……はい、ここを少し上げますね。」


巫女の手つきは手慣れていた。額から鼻筋にかかる折り返しを整え、頬は影に沈める。裾は背後へ流れるように広げ、歩けば音もなく付いてくる。


表へ出ると、広場の白は風にふくらみ、天蓋つきの祭壇が静かに待っていた。白木で組んだ低い壇に、絹の垂れが四辺から落ちている。ハクヤは促されるまま中央に座した。座面はわずかにひんやりして、まとったた布の裾が湖面のように広がる。


村人たちは距離を保って輪を作り、祈りの言葉を織り込むように重ねていく。鈴のかすかな音、()が糸を打つような拍子、春の風が白布の海を梳く音――それらがひとつの調べになって祭壇に満ちた。


(……ただ、座っていればいい。)


そう言い聞かせた途端、張りつめていた肩の力が少し抜ける。白に包まれた光は柔らかく、布越しの世界は輪郭がほどけて見えた。一定のリズムで流れる祈りが心臓の鼓動に寄り添い、まぶたの裏をゆっくりあたためていく。


――こくり。


頭が、わずかに傾ぐ。ハクヤは、はっとして背を正し、目元だけで広場の白を追う。だが祈りの波は心地よく、眠気がまた静かに戻ってくる。


少し離れた屋台の陰、レイラが袖で口元を隠して笑った。


「ハクヤくん、眠そうだね。」


隣でマントの奥のザハークは、視線を祭壇から外さない。


「……しばらくは身を動かせない。神聖な儀式だが、あれは退屈にもなる。」


言いながら、彼の耳は風下と人いきれ、遠い煮炊きの匂いまで拾い続けている。レイラは頷き、祭の輪に紛れるふりをしつつ、指先で合図の節を木机の縁に軽く打った――いつでも退き、いつでも戻る準備。


祭壇では、白布に包まれた“繭の子”が目だけで春を見つめている。裾は風にふわりと揺れ、祈りの言葉が一段やさしく重なった。


(桑が育ち、糸が延び、春が無事に続きますように。)


ハクヤはその願いだけを静かに胸へ置いた。眠気は消えない。けれど、不思議と心地よい。白い布の内側で、琥珀の光が一度だけ瞬き、またそっと閉じられた。


祈りの唄が広場に満ちると同時に、レイラとザハークは人の輪に紛れ、露店の並ぶ路地へ滑り込んだ。白布が風に揺れてつくる影の下、木箱と(はかり)の音が小さく重なる。


「……時間は長くない。塩、油、針金、細い針、糸――優先だ。」


ザハークは低く告げ、風下の匂いを嗅ぐ。血も薬品もない、安心の匂いだ。


まずは塩の屋台。粗塩が小袋に詰められ、白い山がいくつも積まれている。レイラは二袋を選び、銀貨を一枚置く。次いで灯用の菜種油を陶瓶で一本、糸屋で絹糸と麻糸を少量。金具の台では、髪留めにも使える細い針金と小さな留めピンを手早く確保した。


支度がほぼ整ったころ、レイラの足がぴたりと止まる。

白布の屋台の端――木の台に、白い花飾りが並んでいた。絹布で作られた細い白いリボンに、小さなスズランの造花がいくつも束ねられている。花弁は薄い絹と蝋で形作られ、朝露のような極小のビーズが一粒、光った。


「……綺麗!」


レイラは思わず囁き、目を輝かせた。


 店の女主人が微笑む。


「祭りのあいだだけの品だよ。髪にも、襟にも留められるよう、ピン金具を裏に仕込んである。髪を結ばない人でも、肩口や胸元にそっとね。」


その一言に、レイラの胸が跳ねた。――エイゼでも、使える。

彼女はそっと品を手に取り、裏の金具を確かめる。針先は丁寧に丸められ、絹の包みが肌を守る作り。作法も美しい。


「一つください。……いえ、二つ!」


一つは贈り物に。もう一つは、作りの勉強に。


代金を渡す間、ザハークは屋台の周囲へ視線を走らせる。人の呼吸、歩幅、視線の向き――危うい気配はない。鼻先で短く合図を送り、包みを受け取ったレイラにうなずく。


「……急ぐぞ。油が重い。」


「うん。……ねぇ、これ、エイゼさん、絶対に喜ぶよね。」


「……たぶん、無表情のまま喜ぶだろう。」


ふたりは小さく笑い合った。


さらに薬草屋で消毒用の酒と乾いた包帯を少し。麻ひもを巻いた小束を腰袋に挟み込むと、遠くの広場から祈りの調べが一段高くなった。儀の後半に入った合図だ。


「……そろそろハクヤが解放されるだろう、拠点に戻るぞ。」


ザハークがマントの端を払う。レイラは花飾りの包みを胸当ての内側に大切に滑り込ませた。白の世界の風が道を戻すふたりの背を押す。


広場の手前、白布の影から祭壇が見えた。天蓋の下、白布に身を包んだ“繭の子”が、琥珀の目だけで祈りを受け止めている。裾が風にふわりと揺れ、こくり、と小さな船のように眠気に揺れた。


「ハクヤくん、やっぱり眠そう。」


「……退屈で無事、いい兆候だ。」


ザハークは淡々と答え、周囲の動きを見張り続ける。


レイラは胸の中の包みをそっと押さえた。白いスズランが、まだ言葉にならない気持ちごと、指先にひんやりと寄り添っている。


(終わったら、アビスくんに渡そう。――戻る場所のしるしとして。)


祈りの唄が、もう一段、やさしく重なった。白い村の春が、そっと満ちていく。


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