冥土への道
青空の下、白を基調とした支給服に身を包んだ青年が、無機質な建物を見上げる。
ハクヤ——18歳。
琥珀色の瞳が真っ直ぐに正面の文字を捉えた。
「冥土」
そこは、この国における奉仕団体の名だった。人々の平和を守るために尽力し、精鋭たちを育成する機関。
少なくとも、表向きはそう語られている。
(ここで俺は強くなる。)
彼はそう信じて疑わなかった。
しかし、ハクヤはまだ知らない。
この場所こそが、生物兵器を生み出し、人々を欺き続ける施設であることを。そして、自分がそこへ足を踏み入れた理由が、決して偶然ではないことを。
施設内は無機質な壁に囲まれ、訓練生たちが整然と並んでいる。新入りの列に並び、無駄のない動きで登録を終える。
その時だった。
ふと、視線を感じた。
振り向くと、廊下の奥に一人の人物が立っていた。
白い支給服のフードを深く被り、顔のほとんどを隠している。それでも、わずかに覗く琥珀色の瞳が、じっとこちらを見つめていた。
(……誰だ?)
ハクヤの胸の奥で、言葉にならない違和感が広がる。
エイゼは無言のまま、僅かに眉間に皺を寄せた。
静寂が、重く空間を支配する。
やがて、エイゼはフードをさらに深く被り直し、ゆっくりとその場を去っていった。
ハクヤは、その白いフードの女の姿が消えるまで目を離せなかった。
(……何なんだ?)
ただの訓練生ではない。あの視線には、言葉以上の何かが込められていた。
「新入り、何してる?」
背後から鋭い声が飛び、ハクヤは反射的に顔を向けた。
「お前は今日から『冥土』の一員だ。余計なことに気を取られるな。」
上官らしき男が冷ややかに言い放つ。
「……はい。」
ハクヤは短く返事をし、訓練生たちの列に戻った。
しかし、心の奥には違和感が残り続ける。
(あの女は、なんだ……?)
琥珀色の瞳。どこか既視感のある面影。
理由の分からない胸騒ぎが、消えなかった。
翌日。
施設内の薄暗い廊下を歩いていると、ふと背後から気配を感じた。
「……そこのお前。」
冷たい声が響く。
ハクヤが振り返ると、そこには昨日の白いフードの女が立っていた。
「……あんた、昨日の……。」
エイゼは無言のまま、ゆっくりと歩み寄る。
フードの下から覗く琥珀色の瞳が、真っ直ぐにハクヤを射抜いていた。
「ここから出ろ。」
低く、しかしはっきりとした声だった。
「は?」
突然の言葉に、ハクヤは眉をひそめる。
「お前は、ここに来てはいけなかった。」
エイゼは静かに剣を抜き、その切っ先をハクヤの喉元に向けた。
「俺が来てはいけなかった?はぁ……何の冗談だ?」
ハクヤは動じることなく睨み返した。
「ここはこの国を守るための団体だろ?俺はここで強くなる。何が問題だ?」
「……お前は何も知らない。」
エイゼの目には、氷のような冷たさが宿っていた。
「冥土は奉仕団体などではない。ただの『生物兵器の養成所』だ。」
「……何?」
ハクヤの眉がさらに険しくなる。
「お前がここにいれば、やがて取り返しのつかないことになる。」
「それが、あんたに何の関係がある?」
ハクヤは一歩も引かずに言い放った。
「俺がどこにいようが、何をしようが、俺の自由だろ?」
エイゼの眉がわずかに動く。
「自由……?」
まるで、その言葉が信じられないものでもあるかのように。
「ならば、お前の自由を証明してみせろ。」
次の瞬間——
エイゼの剣が鋭く閃いた。
ハクヤは咄嗟に後ろへ跳び、剣を構える。
「……やる気かよ。」
「冥土に染まる前に、ここで終わらせる。」
エイゼの声には、一切の迷いがなかった。
「ここから出ろ、お前がまだ”お前自身”のうちに。」
そう言って、エイゼは容赦なく剣を振るった。
金属の衝撃音が廊下に響き渡る。
ハクヤは反射的に剣を振るい、エイゼの一撃を受け止めた。
(……重い!)
剣越しに伝わる力の差に、ハクヤは驚愕する。
目の前の女は、一撃の鋭さ、速さ、そして迷いのない動き——どれを取っても自分の想像を超えていた。
「ちっ……!」
ハクヤはすぐさま後方に跳び距離を取る。
しかし、エイゼは無駄な動きを一切見せず、再び間合いを詰めた。
「お前には勝てない。」
エイゼは静かに言い放つ。
「試してみなきゃ分からねぇだろうが!」
ハクヤは低く息を吐き、一気に踏み込んだ。
渾身の一撃——
だが、それはあまりにもあっさりと受け流された。
「何——。」
エイゼの体が、まるで霧のように消えたかと思った次の瞬間、
——ドンッ!
背後に回り込まれ、膝裏を蹴られる。
ハクヤの視界が大きく揺れ、無様に膝をついた。
「ぐっ……!」
立ち上がろうとするが、その瞬間——
「終わりだ。」
冷たい声と共に、喉元に剣の切っ先が突きつけられる。
ハクヤは動けなかった。
「……お前は、俺を殺すのか?」
「……。」
エイゼの手が、わずかに震えた。
「お前がここに居る限り、私の邪魔になる。」
「邪魔……?」
「だから忠告した。」
エイゼの瞳が、静かに揺れる。
「——ここから出ろ。」
「……。」
ハクヤは歯を食いしばる。
「冗談じゃねぇ……俺は、ここで強くなるって決めたんだ……!」
その言葉に、エイゼの目が僅かに細まる。
そして——
「ならば、生き残ってみせろ。」
エイゼの体が、不意に変化した。
骨が軋む音。羽が生える音。
「何……!?」
ハクヤの目の前で、エイゼの姿が大きく変わっていく。
巨大な翼。鋭い爪。琥珀色の瞳。
それは、伝説の獣——グリフォン。
「———っ!!」
ハクヤの全身に、強烈な寒気が走った。
(……こいつは、一体……!?)
エイゼは鋭い目でハクヤを見下ろし、まるで獲物を仕留めるかのように飛びかかる。
「——っくそ!!!」
ハクヤは必死に剣を振るうが、その攻撃はあまりにも軽すぎた。
——ズガァァン!!
凄まじい衝撃が走り、ハクヤの体は吹き飛ばされた。
視界が歪む。
(……強すぎる。)
立ち上がろうとするが、体が動かない。
(俺は……一体、何を相手にしてるんだ……?)
意識が、闇に沈んでいく。
そして、その瞬間——
ハクヤの中で、何かが蠢いた。
「……ッ!」
ハクヤの視界が揺れる。
意識が暗闇に沈みかけた瞬間、胸の奥が熱を持ったようにざわめいた。
(……なんだ、これ……。)
体の奥底から湧き上がる何か。血が騒ぐような、心臓が高鳴るような感覚。
しかし——それはすぐに掴めるものではなかった。
「……。」
エイゼが上空から鋭い眼差しを向ける。
——殺すべきか。
その迷いは一瞬だった。
彼がここに居る限り、自分の目的の邪魔になる。それだけは確かだった。
だが——
(……まだ、死ぬには早い。)
エイゼはハクヤを見下ろしながら、ゆっくりと翼を広げた。
「お前の力は、まだ目覚めていない。」
低く冷たい声が響く。
「……は?」
呻くように、ハクヤが顔を上げた。
「……私と同じ目をしている。」
エイゼの琥珀色の瞳が、まっすぐにハクヤを射抜く。
「だが……お前はまだ、その力に気づいていない。」
「……力……?」
「お前の中には、私と同じものが流れている。」
エイゼの言葉に、ハクヤの胸が再びざわめいた。
(俺と、同じ……?)
まるで血が騒ぐような感覚——
エイゼのグリフォンの姿を見たときから、自分の内側で何かが反応している。
だが、それが何なのかはわからなかった。
「……そんなこと、知るかよ……!」
ハクヤは歯を食いしばり、剣を杖代わりに立ち上がろうとする。
しかし、エイゼは興味を失ったかのように、軽く羽ばたくと背を向けた。
「目覚めない力は、ただの枷に過ぎない。」
冷たく言い放ち、エイゼはその場を去ろうとする。
ハクヤの中に、怒りとも焦りともつかない感情が広がった。
「おい、待てよ……!」
剣を握りしめるが、体が動かない。
エイゼは振り返らずに言う。
「お前は、この場所にいるべきではない。」
「どういう意味だよ……!」
「お前がこのまま冥土に居続ければ、いずれ……。」
言いかけた言葉を、エイゼは飲み込んだ。
(……今言うべきではない。)
「……。」
エイゼは最後にもう一度、ハクヤを見つめる。
琥珀色の瞳が交錯する。
「次に会うときは——」
エイゼは静かに告げた。
「お前が何者なのか……知ることになる。」
そして、彼女は白い支給服のフードを被り、闇に溶けるように姿を消した。
ハクヤは、その場に膝をついたまま、拳を握りしめる。
(……クソッ……何なんだよ、あの女は……!)
胸の奥に残る、得体の知れない感覚。
エイゼの言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
「……俺は、何者なんだ……?」
闇の中で、ハクヤはひとり呟いた。
夜の闇が冥土の施設を包み込んでいた。
ハクヤは、まだ地面に膝をついたまま拳を握りしめていた。
(俺の中に……何かがある?)
エイゼの言葉が頭から離れない。
「お前の中には、私と同じものが流れている。」
一体何を意味していたのか。
「チッ……訳が分からねぇ……。」
怒りとも困惑ともつかない感情が渦巻く。
(俺とあの女に何の関係があるっていうんだ……。)
だが、彼女の瞳を見たとき、確かに何かが胸の奥をざわめかせた。
まるで、ずっと前から知っていたような——
「……!」
その時、遠くから誰かが駆け寄る足音がした。
「ハクヤ!お前、大丈夫か!?」
仲間の兵士が駆け寄ってくる。
「ああ、問題ない。」
ハクヤは痛む身体を押さえながら立ち上がる。
「何があった?あの女……奴はどこに?」
「逃げられた。」
「チッ……。まぁいい、あの女は最高危険度の脱走者だ。今に始まったことじゃねぇがな。」
「……最高危険度?」
ハクヤは顔を上げた。
「お前、知らなかったのか?あの女、たしか…エイゼって名前で——」
仲間が言いかけたとき、別の兵士が慌ただしく駆け寄ってきた。
「ハクヤ、お前に上層部から呼び出しがかかってる。」
「……上層部?」
「そうだ。至急、研究区画に向かえってさ。」
ハクヤの眉が動く。
(……何かがおかしい。)
エイゼと接触した直後に上層部の呼び出し——
「わかった。」
ハクヤはゆっくりと剣を鞘に収め、施設の奥へと歩き出した。
(あの女……エイゼ……一体、お前は……。)
胸の奥でざわめく違和感を抱えたまま、ハクヤは研究区画へと足を踏み入れた。