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焔翼のグリフォン  作者: いねの
第一部 第2章 灯の寮
18/54

キミは君らしく

 医療室は、薄い薬品の匂いがいつもよりはっきりしていた。

壁の端でUV滅菌器が静かに青白く灯り、天板に置かれた器具の金属面が小さく光を返す。窓は半分だけ開き、中庭の手押しポンプの「ギコ、ギコ」という律動が遠くまで細く届いていた。


レイラは椅子を引き寄せ、アビスの正面に座る。

喉元――首輪の痕は、昨日より明らかに薄い。紫から茶、そして肌色への戻り方が駆け足だ。

レイラはいつもの調子で軽く口笛を吹き、患部に光を当てながらメモを取る。


「やっぱり、治る速度が通常より倍早いね。びっくりするくらい。」


「所詮、兵器……だからね。」


アビスは肩をすくめて、いつもの柔らかい笑みを作る。


「でも僕は全然平気だよ、兵器だけに。」


言った本人が、まず恥ずかしくなって視線を泳がせる。


レイラは一秒だけぽかんとして、それから吹き出した。


「アビスくんって、ちょっと胡散臭いところあるけど、面白いね。ボク、そこが好き。」


「褒められてるのかな、それ……。」


アビスは苦笑しつつ、されるがまま。レイラは消毒綿を新しく取り、指先の圧をほとんど感じさせない手つきで痣の周りを拭く。頬に走る薄い擦過傷も、縫合の必要はなく貼付で足りる深さだ。


「動かすよ。正面、上見て――はいキープ。痛んだら言ってね。」


「うん。……大丈夫。」


一通り処置が終わると、レイラはテープの端を揃え、角を丸く切って貼り直した。

青白い光がアビスの横顔を薄く縁取り、喉元の痕影が呼吸に合わせて小さく上下する。


「ねぇ、レイラ。」


アビスが不意に声を低くする。


「ありがとう。……あの時、エイゼと僕の間に入って、止めてくれたとき。あれ、怖かったよね。でもキミの言葉に救われたよ。」


レイラは一拍だけ黙って、それから肩をすくめた。


「だってボク、男らしくしなきゃって思って。」


「……え?」


アビスは目を瞬かせる。聞き間違いかと思って、思わず身を乗り出した。

レイラはむっと頬を膨らませ、白衣の胸元を指でぴんと弾く。


「こう見えてボクね、れっきとした男だからね!」


言い終えると同時に、頬の赤みが増す。言い慣れているはずの自己紹介に、ほんの少しだけ照れが混じるのがレイラらしい。


アビスは一瞬だけ言葉を探して、ゆっくりと笑った。


「……でもキミはとっても可愛いから、どっちでも素敵じゃないかな。」


レイラは目を丸くしてから、ぱっと口角を上げる。


「でしょ!この世には可愛い男の子がいたっていいと思うんだ!」


「うん、大賛成。」


アビスは素直に頷いた。その声音には、からかいも、慰めもない。ただ肯定だけがあった。


レイラは椅子の高さを少し下げ、視線の高さを合わせる。


「ボクね、ずっと可愛いって言われると、時々弱いって一緒くたにされるのがイヤだったの。

でも、可愛いと強いは両立する。……あの時、怖かったけど進んだ。それでいい。」


「それでいいよ、レイラ。」


アビスは喉に当てられたテープを指先でそっと押さえ、呼吸を整える。


「怖いのは、進むための燃料だね。たぶん、僕らはずっとそれで走ってる。」


レイラはうなずき、カルテにさらりと走り書きする。


〈アビス:治癒速度 2.1倍/痛覚訴え軽微/皮下出血の吸収早い〉


書き終えると、ペン先で空をくるりと回し、軽口を添えた。


「はい、本日の兵器さんはここまで。次の患者さんどうぞー?」


「もう、呼び方ぁ……。」


アビスが困った顔で笑う。


「じゃあ訂正ね。人のアビスさん。」


その一言に、アビスの目の奥が少し緩む。


「ねぇ、レイラ。」


「なぁに?」


「僕、名前で呼ばれるの、やっぱり好きだなぁ。」


「知ってる〜。」


レイラは笑って、指でアビスの額をこつんと小突いた。


「番号呼びは禁止。だってここは灯の寮だもん。」


レイラはふと思い出して滅菌器のタイマーを確認し、明滅する数字を指先で止めた。


「よし、紫外線はカット。器具は清潔。……アビスくん、今日は激しい運動は控えめにね。喉は温かいのを飲んでね。

夜は当番表どおりに見張りだね。眠れなかったら、ボクのところにおいでね〜。」


「うん、頼りにしてるよ、先生。」


「もう〜先生じゃない、レイラ。可愛い男の子、兼、腕のいい医療担当!」


胸を張る仕草がいささか得意げで、アビスは思わず笑った。


二人が医療室を出ると、廊下に非常灯の白が落ちていた。

中庭からは、相変わらず水の音。機械室からは、規則正しい電気の唸り。

人の音が、拠点を満たしている。


歩き出しながら、アビスはふと立ち止まって振り返る。


「レイラ。」


「なぁに?」


「さっきの“男らしく”ってさ。……レイラらしく、でいいと思う。」


レイラは一瞬きょとんとして、それから頬をかすかに赤くした。


「……覚えとく。ボクはボクらしく。アビスくんはアビスくんらしく。」


「うん。名前で、だね。」


医療室の扉が静かに閉まり、薄い薬品の匂いが廊下へ一筋だけ流れて溶けた。

灯の寮は、今日も“人”のやり取りで少しだけ温かくなる。

治る速さが二倍だとしても、言葉が埋める時間は、もっと速い――そんなふうに思える午後だった。


「……あのさ、あのさ。」


アビスが急に足を止め、胸の前で指をもたつかせた。


「もし、“大切な人”にプレゼントを贈るとしたら、何がいちばん喜んでくれるかな?」


レイラは半歩、先に出てからくるりと振り返る。唇の端がもうニヤついている。


「“大切な人”って――もう、エイゼさん一択でしょ〜?」


「えへへ〜、そうなんだよ〜。」


アビスの頬が、情けないくらいわかりやすくゆるむ。耳までうっすら赤い。


「ふむふむ、プレゼントね。実用品が好きそうだけど、なにせ所作が美しいでしょ?質の良い革の手袋とか、白板のマーカーの上等なやつとか、責任感が強い人だから、当番表のカスタム版とか――。」


「手袋、いいね。あと、温かい飲み物とかも……。エイゼ、朝の中庭で、よく手を擦ってるから。」


「わかる〜! エイゼさん、綺麗で、所作が綺麗で、しかもかっこいい……!」


レイラは語彙が尽きかけて、両手で“かっこいい”をなんとか拡張するみたいに空を抱えた。


ふと、彼は首を傾げる。


「そういえば、エイゼさんっていくつ?」


空気が一枚、軽く入れ替わった。

アビスは視線をごく自然じゃない方向へ逃がし、靴先でタイルの目地をなぞる。


「……たぶん……四十……歳……。」


「………ん?」


レイラはニコニコ顔のまま、聞こえた音を頭のなかで一旦置き場所に迷わせた。今のは、四?十?四十? いやいや、まさか。


アビスはもう一段小さい声で、しかし逃げられないと悟った人の潔さで言い直す。


「……よ、四十……歳……だよ……。」


レイラの笑顔は、そのまま固まった。


ニコニコの形のまま、目だけが忙しく左右に動く。頭の中で珠算が始まる。


(ハクヤくんは十八歳。仮に二十歳くらいで出産なら、三十八〜四十。――何もおかしくない。)


(うん、論理的には何もおかしくない。論理的には。)


だが、脳裏に走る映像が追い打ちをかける。

戦闘の時の無駄のない足運び。剣を受けるたびに微塵もぶれない軸。あの肌の張り、目の冴え、呼吸の整い、作戦時の判断の切れ味。


(いや、でも、待って。見た目が。強さが。回復の早さが。あれで四十……?)


「え、え、え……?」


レイラの喉の奥で、擬音にできない音が二、三個ほど跳ねる。


(冥土の生体調整、ホルモン環境、筋膜再生、治癒速度。理屈は立つ。理屈は立つが――。)


――あのエイゼが、四十。


その瞬間、レイラの世界の床が、ほんの一センチだけ沈んだ。

沈んだ分だけ、肺から空気が綺麗に抜け、代わりに真空めいたなにかが入ってきて、次の一拍でそれは悲鳴に変換された。


「ええええええええええぇっっっ!!??」


廊下の白が震え、非常灯が一瞬、小さく瞬く。

中庭のポンプのリズムが半拍だけズレ、機械室の唸りがわずかに低くなる。

三階の訓練室で木剣を握っていたハクヤが思わず顔を上げ、ザハークが耳をそばだて、ガルツが


「んん?な、何だぁ?」


と工具袋を肩に掛け直す。


レイラの悲鳴は、灯の寮の天井に跳ね返り、二秒遅れで柔らかく溶けていった。

アビスは――というと、耳の先まで真っ赤にしながら、ただえへへと頭を掻いていた。


悲鳴の余韻が、廊下の角に薄くひっかかって消えた。

レイラは膝に手をつき、ぜぇぜぇと息を整える。非常灯の白が、顔色の悪さをさらに白く見せた。


「て、ことは……アビスくんも……?」


震え気味の声。青ざめた頬に、ほんの少し血の気が戻る。


「え、へへ……そういうことに、なるね……。」


アビスは誤魔化すように笑ったが、耳まで真っ赤だ。笑うたび、喉元のテープがかすかに上下する。


(どういうことなの……おそるべし。これは平気じゃない、兵器……。)


レイラは内心でダジャレを自分に投げつけ、余計に頭が混線する。


「でもさ、精神年齢は見た目どおりだと思うんだ、ほら。ね?」


アビスは胡散臭い笑みを薄く浮かべ、両手をひらひらさせた。


(……なんか裏がありそ〜う!)


レイラは苦笑いで応じる。自分でも笑いが引きつっているのがわかった。

そして、ぶん、と首を振る。脱線終了。正気へ帰投。


「――話、戻すね。」


レイラは姿勢を正し、人差し指を立てる。


「愛をこめたプレゼント、花の髪飾りとかどうかな?」


アビスの目がぱっと明るむ。


「それ、いいね。……でも僕、センスが微妙だからなぁ……色とか形とか、外したらどうしよう。」



「エイゼさんなら、“想ってくれた”ってだけで十分嬉しいと思うよ。」


レイラは胸を張った。


「それにね、ボク、髪飾りなら可愛い系から綺麗系までいっぱい持ってるし、自分で作ることだってできるから!」


彼の肩から力が抜け、ふっと息がやわらぐ。


「本当に……ありがとう、レイラ。――何年ぶりかな。彼女にプレゼントを渡せるだなんて。」


言いながら、アビスの目が少し潤む。


「僕とエイゼは、ずっと独房にいたから……。」


「……よかったね、アビスくん。」


レイラはそっと言葉を置く。声量を落としても、言葉の芯は薄くならない。


アビスは廊下の向こうを見た。


「独房じゃ、遠くで聞こえるエイゼの悲鳴とか、脱走の騒ぎくらいでしか、彼女のことを“確認”できなかった。

誰かが倒れる音、足音、鉄の鳴る音――それでしか、彼女が“生きてる”って推し量れなかった。」


非常灯が小さく瞬き、中庭から「ギコ、ギコ」とポンプの音が届く。生活の音が、二人のあいだの静けさを埋めていく。


レイラはくるりと身を返し、歩き出しながら話を続ける。


「髪飾り、素材はそれなりにあるよ。リボンは医療用の包帯から清潔に切り出して染め直せるし、針金は倉庫の断線ケーブルの銅線を細工できる。

花は――本物は無理でも、布花なら作れる。布を薄く裂いて、火で端を丸めて、花芯に細いビーズを一粒。かわいくも、凛ともできるよ!」


「……すごい、そんな手があるんだね。」


アビスが目を丸くする。


「ボク、可愛い男の子だからね?」


レイラはウインクしてみせる。


「可愛いと役に立つは両立するから!ね!」


アビスは笑い、手を合わせた。


「じゃあ、お願いしてもいい?僕、材料を運ぶからさ。色は……エイゼの髪は下ろしたままだし、茶色の髪だから、白とか薄い緑が映えるかも。

実用性もいるよね。髪を結ばないから、耳の上にそっと差して留まるタイプがいいな。軽くて、動いても落ちにくいもの。」


「任せて!サイドコームか小さなクリップだね。

細い銅線で小枝型の土台を作り、白い布花をスズランみたいに連ねる。留め具は軽い銀色、髪に触れる面は丸め処理して引っかかりを防ぐ。

スズランの花言葉、『再び幸せが訪れる』ってイメージになるように、透明ビーズを一粒だけ」


「……スズラン。」


アビスは小さく繰り返し、喉元のテープに触れた。


「再び幸せが訪れる、か。……うん、いいね。すごくいい。」


「じゃあ決まり。今夜、試作するね!」


レイラの目がきらりと光る。


「採寸は明日の朝。エイゼさんに触れる前に二回ノックして、耳の上の生え際で位置を確認する。驚かせないように、ね!」


「助かるよ。」


アビスは微笑み、肩が少し軽くなったのを自覚する。


二人が食堂の前に差しかかったとき、アビスはもう一度だけ、後ろへ視線を投げた。

独房の闇、遠くで響いた悲鳴、鉄の軋み――その全ての上に、今の音が重ねられていく。

ポンプの律動。電気の唸り。人の声。

そして近いうちに、テーブルの上でそっと箱が開く、小さな金具の音も。


「……レイラ。」


「なぁに?」


アビスは小さく息を吸い、言葉を選んで続けた。


「……レイラは、レイラ“らしさ”で作って。僕はそこに言葉を添える――『再び幸せが訪れる』って。」


レイラはぱっと笑って親指を立てる。

「任せて。じゃあボクは“可愛い男の子”らしく、仕上げはきっちり――綺麗な仕事で応える!」


食堂から、湯の弾ける音と、誰かの笑い声が重なった。

灯の寮は、今日も少しずつ、贈る準備を覚えていく。

独房の向こう側でしか確かめられなかった気配が、今は手のひらにのる形になろうとしていた。

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