キミは君らしく
医療室は、薄い薬品の匂いがいつもよりはっきりしていた。
壁の端でUV滅菌器が静かに青白く灯り、天板に置かれた器具の金属面が小さく光を返す。窓は半分だけ開き、中庭の手押しポンプの「ギコ、ギコ」という律動が遠くまで細く届いていた。
レイラは椅子を引き寄せ、アビスの正面に座る。
喉元――首輪の痕は、昨日より明らかに薄い。紫から茶、そして肌色への戻り方が駆け足だ。
レイラはいつもの調子で軽く口笛を吹き、患部に光を当てながらメモを取る。
「やっぱり、治る速度が通常より倍早いね。びっくりするくらい。」
「所詮、兵器……だからね。」
アビスは肩をすくめて、いつもの柔らかい笑みを作る。
「でも僕は全然平気だよ、兵器だけに。」
言った本人が、まず恥ずかしくなって視線を泳がせる。
レイラは一秒だけぽかんとして、それから吹き出した。
「アビスくんって、ちょっと胡散臭いところあるけど、面白いね。ボク、そこが好き。」
「褒められてるのかな、それ……。」
アビスは苦笑しつつ、されるがまま。レイラは消毒綿を新しく取り、指先の圧をほとんど感じさせない手つきで痣の周りを拭く。頬に走る薄い擦過傷も、縫合の必要はなく貼付で足りる深さだ。
「動かすよ。正面、上見て――はいキープ。痛んだら言ってね。」
「うん。……大丈夫。」
一通り処置が終わると、レイラはテープの端を揃え、角を丸く切って貼り直した。
青白い光がアビスの横顔を薄く縁取り、喉元の痕影が呼吸に合わせて小さく上下する。
「ねぇ、レイラ。」
アビスが不意に声を低くする。
「ありがとう。……あの時、エイゼと僕の間に入って、止めてくれたとき。あれ、怖かったよね。でもキミの言葉に救われたよ。」
レイラは一拍だけ黙って、それから肩をすくめた。
「だってボク、男らしくしなきゃって思って。」
「……え?」
アビスは目を瞬かせる。聞き間違いかと思って、思わず身を乗り出した。
レイラはむっと頬を膨らませ、白衣の胸元を指でぴんと弾く。
「こう見えてボクね、れっきとした男だからね!」
言い終えると同時に、頬の赤みが増す。言い慣れているはずの自己紹介に、ほんの少しだけ照れが混じるのがレイラらしい。
アビスは一瞬だけ言葉を探して、ゆっくりと笑った。
「……でもキミはとっても可愛いから、どっちでも素敵じゃないかな。」
レイラは目を丸くしてから、ぱっと口角を上げる。
「でしょ!この世には可愛い男の子がいたっていいと思うんだ!」
「うん、大賛成。」
アビスは素直に頷いた。その声音には、からかいも、慰めもない。ただ肯定だけがあった。
レイラは椅子の高さを少し下げ、視線の高さを合わせる。
「ボクね、ずっと可愛いって言われると、時々弱いって一緒くたにされるのがイヤだったの。
でも、可愛いと強いは両立する。……あの時、怖かったけど進んだ。それでいい。」
「それでいいよ、レイラ。」
アビスは喉に当てられたテープを指先でそっと押さえ、呼吸を整える。
「怖いのは、進むための燃料だね。たぶん、僕らはずっとそれで走ってる。」
レイラはうなずき、カルテにさらりと走り書きする。
〈アビス:治癒速度 2.1倍/痛覚訴え軽微/皮下出血の吸収早い〉
書き終えると、ペン先で空をくるりと回し、軽口を添えた。
「はい、本日の兵器さんはここまで。次の患者さんどうぞー?」
「もう、呼び方ぁ……。」
アビスが困った顔で笑う。
「じゃあ訂正ね。人のアビスさん。」
その一言に、アビスの目の奥が少し緩む。
「ねぇ、レイラ。」
「なぁに?」
「僕、名前で呼ばれるの、やっぱり好きだなぁ。」
「知ってる〜。」
レイラは笑って、指でアビスの額をこつんと小突いた。
「番号呼びは禁止。だってここは灯の寮だもん。」
レイラはふと思い出して滅菌器のタイマーを確認し、明滅する数字を指先で止めた。
「よし、紫外線はカット。器具は清潔。……アビスくん、今日は激しい運動は控えめにね。喉は温かいのを飲んでね。
夜は当番表どおりに見張りだね。眠れなかったら、ボクのところにおいでね〜。」
「うん、頼りにしてるよ、先生。」
「もう〜先生じゃない、レイラ。可愛い男の子、兼、腕のいい医療担当!」
胸を張る仕草がいささか得意げで、アビスは思わず笑った。
二人が医療室を出ると、廊下に非常灯の白が落ちていた。
中庭からは、相変わらず水の音。機械室からは、規則正しい電気の唸り。
人の音が、拠点を満たしている。
歩き出しながら、アビスはふと立ち止まって振り返る。
「レイラ。」
「なぁに?」
「さっきの“男らしく”ってさ。……レイラらしく、でいいと思う。」
レイラは一瞬きょとんとして、それから頬をかすかに赤くした。
「……覚えとく。ボクはボクらしく。アビスくんはアビスくんらしく。」
「うん。名前で、だね。」
医療室の扉が静かに閉まり、薄い薬品の匂いが廊下へ一筋だけ流れて溶けた。
灯の寮は、今日も“人”のやり取りで少しだけ温かくなる。
治る速さが二倍だとしても、言葉が埋める時間は、もっと速い――そんなふうに思える午後だった。
「……あのさ、あのさ。」
アビスが急に足を止め、胸の前で指をもたつかせた。
「もし、“大切な人”にプレゼントを贈るとしたら、何がいちばん喜んでくれるかな?」
レイラは半歩、先に出てからくるりと振り返る。唇の端がもうニヤついている。
「“大切な人”って――もう、エイゼさん一択でしょ〜?」
「えへへ〜、そうなんだよ〜。」
アビスの頬が、情けないくらいわかりやすくゆるむ。耳までうっすら赤い。
「ふむふむ、プレゼントね。実用品が好きそうだけど、なにせ所作が美しいでしょ?質の良い革の手袋とか、白板のマーカーの上等なやつとか、責任感が強い人だから、当番表のカスタム版とか――。」
「手袋、いいね。あと、温かい飲み物とかも……。エイゼ、朝の中庭で、よく手を擦ってるから。」
「わかる〜! エイゼさん、綺麗で、所作が綺麗で、しかもかっこいい……!」
レイラは語彙が尽きかけて、両手で“かっこいい”をなんとか拡張するみたいに空を抱えた。
ふと、彼は首を傾げる。
「そういえば、エイゼさんっていくつ?」
空気が一枚、軽く入れ替わった。
アビスは視線をごく自然じゃない方向へ逃がし、靴先でタイルの目地をなぞる。
「……たぶん……四十……歳……。」
「………ん?」
レイラはニコニコ顔のまま、聞こえた音を頭のなかで一旦置き場所に迷わせた。今のは、四?十?四十? いやいや、まさか。
アビスはもう一段小さい声で、しかし逃げられないと悟った人の潔さで言い直す。
「……よ、四十……歳……だよ……。」
レイラの笑顔は、そのまま固まった。
ニコニコの形のまま、目だけが忙しく左右に動く。頭の中で珠算が始まる。
(ハクヤくんは十八歳。仮に二十歳くらいで出産なら、三十八〜四十。――何もおかしくない。)
(うん、論理的には何もおかしくない。論理的には。)
だが、脳裏に走る映像が追い打ちをかける。
戦闘の時の無駄のない足運び。剣を受けるたびに微塵もぶれない軸。あの肌の張り、目の冴え、呼吸の整い、作戦時の判断の切れ味。
(いや、でも、待って。見た目が。強さが。回復の早さが。あれで四十……?)
「え、え、え……?」
レイラの喉の奥で、擬音にできない音が二、三個ほど跳ねる。
(冥土の生体調整、ホルモン環境、筋膜再生、治癒速度。理屈は立つ。理屈は立つが――。)
――あのエイゼが、四十。
その瞬間、レイラの世界の床が、ほんの一センチだけ沈んだ。
沈んだ分だけ、肺から空気が綺麗に抜け、代わりに真空めいたなにかが入ってきて、次の一拍でそれは悲鳴に変換された。
「ええええええええええぇっっっ!!??」
廊下の白が震え、非常灯が一瞬、小さく瞬く。
中庭のポンプのリズムが半拍だけズレ、機械室の唸りがわずかに低くなる。
三階の訓練室で木剣を握っていたハクヤが思わず顔を上げ、ザハークが耳をそばだて、ガルツが
「んん?な、何だぁ?」
と工具袋を肩に掛け直す。
レイラの悲鳴は、灯の寮の天井に跳ね返り、二秒遅れで柔らかく溶けていった。
アビスは――というと、耳の先まで真っ赤にしながら、ただえへへと頭を掻いていた。
悲鳴の余韻が、廊下の角に薄くひっかかって消えた。
レイラは膝に手をつき、ぜぇぜぇと息を整える。非常灯の白が、顔色の悪さをさらに白く見せた。
「て、ことは……アビスくんも……?」
震え気味の声。青ざめた頬に、ほんの少し血の気が戻る。
「え、へへ……そういうことに、なるね……。」
アビスは誤魔化すように笑ったが、耳まで真っ赤だ。笑うたび、喉元のテープがかすかに上下する。
(どういうことなの……おそるべし。これは平気じゃない、兵器……。)
レイラは内心でダジャレを自分に投げつけ、余計に頭が混線する。
「でもさ、精神年齢は見た目どおりだと思うんだ、ほら。ね?」
アビスは胡散臭い笑みを薄く浮かべ、両手をひらひらさせた。
(……なんか裏がありそ〜う!)
レイラは苦笑いで応じる。自分でも笑いが引きつっているのがわかった。
そして、ぶん、と首を振る。脱線終了。正気へ帰投。
「――話、戻すね。」
レイラは姿勢を正し、人差し指を立てる。
「愛をこめたプレゼント、花の髪飾りとかどうかな?」
アビスの目がぱっと明るむ。
「それ、いいね。……でも僕、センスが微妙だからなぁ……色とか形とか、外したらどうしよう。」
「エイゼさんなら、“想ってくれた”ってだけで十分嬉しいと思うよ。」
レイラは胸を張った。
「それにね、ボク、髪飾りなら可愛い系から綺麗系までいっぱい持ってるし、自分で作ることだってできるから!」
彼の肩から力が抜け、ふっと息がやわらぐ。
「本当に……ありがとう、レイラ。――何年ぶりかな。彼女にプレゼントを渡せるだなんて。」
言いながら、アビスの目が少し潤む。
「僕とエイゼは、ずっと独房にいたから……。」
「……よかったね、アビスくん。」
レイラはそっと言葉を置く。声量を落としても、言葉の芯は薄くならない。
アビスは廊下の向こうを見た。
「独房じゃ、遠くで聞こえるエイゼの悲鳴とか、脱走の騒ぎくらいでしか、彼女のことを“確認”できなかった。
誰かが倒れる音、足音、鉄の鳴る音――それでしか、彼女が“生きてる”って推し量れなかった。」
非常灯が小さく瞬き、中庭から「ギコ、ギコ」とポンプの音が届く。生活の音が、二人のあいだの静けさを埋めていく。
レイラはくるりと身を返し、歩き出しながら話を続ける。
「髪飾り、素材はそれなりにあるよ。リボンは医療用の包帯から清潔に切り出して染め直せるし、針金は倉庫の断線ケーブルの銅線を細工できる。
花は――本物は無理でも、布花なら作れる。布を薄く裂いて、火で端を丸めて、花芯に細いビーズを一粒。かわいくも、凛ともできるよ!」
「……すごい、そんな手があるんだね。」
アビスが目を丸くする。
「ボク、可愛い男の子だからね?」
レイラはウインクしてみせる。
「可愛いと役に立つは両立するから!ね!」
アビスは笑い、手を合わせた。
「じゃあ、お願いしてもいい?僕、材料を運ぶからさ。色は……エイゼの髪は下ろしたままだし、茶色の髪だから、白とか薄い緑が映えるかも。
実用性もいるよね。髪を結ばないから、耳の上にそっと差して留まるタイプがいいな。軽くて、動いても落ちにくいもの。」
「任せて!サイドコームか小さなクリップだね。
細い銅線で小枝型の土台を作り、白い布花をスズランみたいに連ねる。留め具は軽い銀色、髪に触れる面は丸め処理して引っかかりを防ぐ。
スズランの花言葉、『再び幸せが訪れる』ってイメージになるように、透明ビーズを一粒だけ」
「……スズラン。」
アビスは小さく繰り返し、喉元のテープに触れた。
「再び幸せが訪れる、か。……うん、いいね。すごくいい。」
「じゃあ決まり。今夜、試作するね!」
レイラの目がきらりと光る。
「採寸は明日の朝。エイゼさんに触れる前に二回ノックして、耳の上の生え際で位置を確認する。驚かせないように、ね!」
「助かるよ。」
アビスは微笑み、肩が少し軽くなったのを自覚する。
二人が食堂の前に差しかかったとき、アビスはもう一度だけ、後ろへ視線を投げた。
独房の闇、遠くで響いた悲鳴、鉄の軋み――その全ての上に、今の音が重ねられていく。
ポンプの律動。電気の唸り。人の声。
そして近いうちに、テーブルの上でそっと箱が開く、小さな金具の音も。
「……レイラ。」
「なぁに?」
アビスは小さく息を吸い、言葉を選んで続けた。
「……レイラは、レイラ“らしさ”で作って。僕はそこに言葉を添える――『再び幸せが訪れる』って。」
レイラはぱっと笑って親指を立てる。
「任せて。じゃあボクは“可愛い男の子”らしく、仕上げはきっちり――綺麗な仕事で応える!」
食堂から、湯の弾ける音と、誰かの笑い声が重なった。
灯の寮は、今日も少しずつ、贈る準備を覚えていく。
独房の向こう側でしか確かめられなかった気配が、今は手のひらにのる形になろうとしていた。




