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焔翼のグリフォン  作者: いねの
第一部 第2章 灯の寮
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防衛本能

 三階の訓練室。

床の白線が夕方の光を切り分け、鏡の前で二本の木剣が打ち合うたび、乾いた音が壁に跳ね返った。

ハクヤは息を二拍で整え、間合いを半歩ずつ詰める。エイゼは重心をぶらさず、木剣の刃先だけで圧をかける。


カン、と打ち合わせ、すぐさま肘を畳んで受け流す。もう一合。

汗がこめかみを伝い落ちたところで、ハクヤが切り込むように口を開いた。


「……なぁ、エイゼ。翼は、出さないのか?」


エイゼの木剣が空気を裂き、ぴたりと止まる。瞳が一瞬、窓の外の光を映した。


「あれは、出しているのではない。耐えているんだ。激痛に。」


ハクヤは思わず構えをほどいた。


「痛むのか?どういう仕組みなんだ?」


エイゼは木剣を肩に担ぎ、言葉を選ぶようにゆっくり続ける。


「防衛本能がトリガーだ。逃げるか、折れるか、戦うか。その岐路で、身体が第三の選択を強制する。

変身の際は、全身の筋肉と神経、骨格が再配置される。腱は短くなり、骨は分節し、神経は枝分かれして新しい皮膚へ伸びる。だから痛む。造り直される痛みだ。」


言いながら、エイゼは自分の背中に手を当てた。肩甲骨の内縁を指でなぞる。


「翼はここから。肋骨の影響も受ける。肺の動きが乱れるから、最初の数呼吸は苦しい。」


一拍おいて、目を伏せ、小さな声で付け加える。


「……特に尻尾が生える時が一番痛いんだが……。」


ハクヤは喉を鳴らした。想像が遅れて追いつく。

皮膚が押し上げられ、新しい骨が節を増やし、そこへ神経が通る――そんな映像が脳裏で勝手に形になる。

背筋に冷たいものが走り、訓練室の涼しさと関係なく汗がすっと滲んだ。


「……俺にも、その遺伝子がある。もしかしたら、俺にも起きるのか?」


エイゼはハクヤの額の汗を親指で拭い、木剣の切っ先を下げた。


「無理に引くな。 これは防衛だ。守るべきものが目の前で壊れようとする時、初めて引き金が落ちる。

恐れるのは正しい。恐れを舵にして、呼吸を数えろ。痛みは波だ。来て、去る。」


ハクヤは深く吸って、四つ数え、ゆっくり吐いた。鼓動が少し落ちる。


「……波なら、乗り方を覚えるだけだな。」


エイゼの口元に、わずかな笑み。


「そうだ。乗り方は稽古で覚える。波が来ても、剣を落とすな。」


二人は再び構え直した。木剣の先が、白線の上で触れ合う。


カン――。


響きが収まる前に、ハクヤは一歩踏み込み、恐れと共に刃を押し出した。

鏡の中、二つの影が重なって離れ、また重なる。

灯の寮の静かな夕刻に、木と木の確かな音だけが続いた。


白い線が床を二つに割り、傾いた夕陽が鏡面で増幅されて、訓練室は薄い金と灰の層で塗られていた。

木剣と木剣が触れ、乾いた音が短く跳ねる。息が二つ、間合いが一つずれる。ハクヤの右肩が半歩ぶん先に出た――その、ほんの刹那。


エイゼは峰で手首をはたき、内側へ滑り込む。刃が喉元の線を射程に収める。

ハクヤの呼気がつかえて、体軸がふらつく。危うい。


その瞬間、世界の輪郭がエイゼの視界で研がれた。

ハクヤの瞳孔が、真黒にひらく。

うなじの産毛が、風もないのに逆立つ。

皮膚の下で、見えない何かが向きを変える音がした気がした。


エイゼは追撃を解き、木剣の切っ先を下げる。


「……止め。」


声は低く、命令というより合図に近かった。

近づいて、囁く。


「深呼吸だ。四つ吸って、一つ止めて、六で吐け。」


ハクヤは言われるままに腹へ空気を落とす。四拍で吸い、ひと拍置き、長い吐息で胸を空にする。

二巡、三巡。肩の上下がおさまり、黒目がほどけ、逆立っていた産毛が静かに寝た。指先の震えも、床板の木目に吸い込まれて消える。


「……戻ったな。」


エイゼは確認するように頷き、木剣を肩に担ぎ直した。


「なぁ、今さ――音が遠のいた。部屋が少し重くなった、そんな感じがした。」


ハクヤは首筋に指を当て、汗を拭う。


「いや……ただ焦っただけか。隙、作った。悪かった」


「いいや。焦りを呼吸に変えた。舵は離していない。」


エイゼは短く言い、目だけで彼の全身をなぞる。


(防衛本能、か。視覚と立毛の反射……誘発は弱い。呼吸で収束する。)


ハクヤはまだ自分の変化に気づいていない。

胸の奥に、冷たい潮が一度寄せて引いた感触だけが、うっすら残っている。


「続けるぞ。」


エイゼは白線に踵をそろえ、低く構えた。


「さっきと同じ間合いで、一拍待て。波が来ても、先に手を出すな。」


「了解。」


ハクヤは床の冷たさを足裏で確かめ、木剣の柄を握り直す。

再び、木と木が触れる。

今度の音は、さっきより静かで、遠くまで届いた。


夕方。

窓からの光が斜めに差し、床の白線が薄く光っている。壁際には木剣が二本、汗の匂いと一緒に立てかけられていた。


「……五分、休むぞ。」


エイゼが言い、マットに腰を下ろす。ハクヤも隣に座り、肩で息をした。


「ほら、水。」


エイゼがボトルを押しやる。ハクヤは一気に飲み干し、喉を鳴らす。


「ああ、サンキュ。生き返る。」


呼吸が落ち着く。

ハクヤはあぐらをかいて、目を細く閉じた。肩甲骨のあたりが、わずかに上下している。


エイゼは横目でそれを見て、指先でそっと――つん。

肩甲骨と肩甲骨の間、背骨の上を軽く突いた。


ビクリ、とハクヤの体が跳ねる。

瞳孔がすっと開き、

後頭部の髪がふわりと逆立つ。

呼吸が一拍だけ止まり、心臓が内側から二度、強く叩いた。


(……威嚇してる猫みたいだ。)


エイゼは心の中で苦笑した。可笑しいわけではない。生き物が自分を大きく見せて、怖さを隠す仕草だと知っているからだ。


すぐに、さっきの位置から少し下――背骨に沿って撫で下ろす。


「深呼吸だ。吸って四、止めて一、吐いて六。」


低い声で合図する。


四拍で吸い、ひと拍置き、六拍で吐く。二巡、三巡。

黒目が緩み、逆立っていた髪が静かに戻る。指先のこわばりも消えた。


「……今の何だ?」


ハクヤは胸を押さえ、眉を寄せる。


「音が遠くなって、部屋が重くなった。心臓が二回、ドクンとなったような……。」


「驚いた時の反射だ。今の“つん”で防衛本能が顔を出した。」


エイゼは淡々と答えた。


「悪いな、ハクヤ。触覚のトリガーを確かめたかった。」


「触覚の……トリガー?」


「背中と、うなじ。多くの生き物にとって弱点だ。毛が立つのは、身体を大きく見せる古い仕組み。」


エイゼは自分のうなじを軽く示してから続ける。


「次からは触れる前に二回ノックする。仲間の合図だ。一回は『危険』で学習されやすい。」


「二回が仲間、一回が危険だな。了解。」


ハクヤはうなじに触れ、苦笑する。


「なぁ、なんかここらへんがゾワッと来たんだが、気のせいか……?」


「気のせいでは無いな。見事に逆立っていた。……猫みたいに。」


「まじかよ。」


二人の間に、少しだけ笑いが流れた。


「ちなみに音のトリガーってのは、どうなんだ?」


とハクヤ。


「背後の小さな金属音に弱い。鍵やコインの触れ合う音とかだな。……兵舎の癖が残っている。」


エイゼは、少し間を置いて付け加える。


「それから――番号で呼ばれること。心拍が上がる。」


「……あぁ。」


ハクヤは目を伏せる。


「俺も番号は、嫌いだな。」


「嫌っていい。」


即答だった。


「ここは灯の寮。番号ではなく、名前で呼ぶ。」


窓の外で、風が欄干を鳴らす。遠くで「ギコ、ギコ」と手押しポンプの音。蛇口が開いて水が石に当たる澄んだ響きが続いた。電気があってもなくても、水はここで生きている。


「汲みに行くか。」


ハクヤが立ち上がる。


「もう一杯飲みたい。」


「ああ、行こう。」


エイゼも立つ。


中庭。人工芝の色が午後で深くなる。

ハクヤがポンプのハンドルを押す。ギコ、ギコ、ギコ――規則的な音。蛇口から水が細い糸になって現れ、すぐに小さな流れへ変わる。エイゼは桶を受け、溢れないよう角度を調整した。


「いい音だな。」


ハクヤが笑う。


「そうだな、安心の合図だ。」


エイゼは指先を水で濡らし、見せてから――トン、トン。

合図をして、ハクヤのうなじに触れる。今度は髪は逆立たない。呼吸も乱れない。


「ん……平気だ。」


「合図は効く。」


「ははっ、猫、卒業できたか?」


「猫は賢い。危険も、甘える相手も知っている。」


エイゼは短く笑った。


「甘える相手、ね。」


ハクヤは照れくさそうに、ポンプをもう二回押した。


「……エイゼ。」


エイゼは返事の代わりに、桶を丁寧に受け取った。水面が静かに揺れる。


訓練室に戻る階段の踊り場で、エイゼが足を止める。


「ハクヤ。さっきの猫の話の続きだ。」


「ん?」


「毛が立つのは怖いからだ。怖さは強い。軽く見るな。扱い方を覚えるんだ。」


「了解。」


短い返事だが、芯がある。


訓練室は、さっきより少し影が濃い。

エイゼは白板にメモを書く。


<反射メモ(暫定)>

・触覚 肩甲間、二回ノックで抑制

・音 背後の小金属音、慣らし訓練

・呼吸 四、一、六

・合図 触れる前に名前を呼ぶ


キャップをカチと閉める。小さな音が、新しい決まりが増えたことを告げた。


「もう一合、いけるか。」


エイゼが木剣を取る。


「いける。今度は――波が来ても、一拍待つ。」


ハクヤも柄を握り直した。


構えがそろう。

打突の音がふたたび始まる。

先ほどより静かで、遠くまで届く音だ。中庭ではまだ、ギコ、ギコと一定のリズム。

灯の寮の午後は、訓練と生活の音を重ねながら、少しずつ厚みを増していった。

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とても読みやすかったです! ご馳走様でした! おうえんしてきます! ☆5入れときました! 頑張ってください!
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