防衛本能
三階の訓練室。
床の白線が夕方の光を切り分け、鏡の前で二本の木剣が打ち合うたび、乾いた音が壁に跳ね返った。
ハクヤは息を二拍で整え、間合いを半歩ずつ詰める。エイゼは重心をぶらさず、木剣の刃先だけで圧をかける。
カン、と打ち合わせ、すぐさま肘を畳んで受け流す。もう一合。
汗がこめかみを伝い落ちたところで、ハクヤが切り込むように口を開いた。
「……なぁ、エイゼ。翼は、出さないのか?」
エイゼの木剣が空気を裂き、ぴたりと止まる。瞳が一瞬、窓の外の光を映した。
「あれは、出しているのではない。耐えているんだ。激痛に。」
ハクヤは思わず構えをほどいた。
「痛むのか?どういう仕組みなんだ?」
エイゼは木剣を肩に担ぎ、言葉を選ぶようにゆっくり続ける。
「防衛本能がトリガーだ。逃げるか、折れるか、戦うか。その岐路で、身体が第三の選択を強制する。
変身の際は、全身の筋肉と神経、骨格が再配置される。腱は短くなり、骨は分節し、神経は枝分かれして新しい皮膚へ伸びる。だから痛む。造り直される痛みだ。」
言いながら、エイゼは自分の背中に手を当てた。肩甲骨の内縁を指でなぞる。
「翼はここから。肋骨の影響も受ける。肺の動きが乱れるから、最初の数呼吸は苦しい。」
一拍おいて、目を伏せ、小さな声で付け加える。
「……特に尻尾が生える時が一番痛いんだが……。」
ハクヤは喉を鳴らした。想像が遅れて追いつく。
皮膚が押し上げられ、新しい骨が節を増やし、そこへ神経が通る――そんな映像が脳裏で勝手に形になる。
背筋に冷たいものが走り、訓練室の涼しさと関係なく汗がすっと滲んだ。
「……俺にも、その遺伝子がある。もしかしたら、俺にも起きるのか?」
エイゼはハクヤの額の汗を親指で拭い、木剣の切っ先を下げた。
「無理に引くな。 これは防衛だ。守るべきものが目の前で壊れようとする時、初めて引き金が落ちる。
恐れるのは正しい。恐れを舵にして、呼吸を数えろ。痛みは波だ。来て、去る。」
ハクヤは深く吸って、四つ数え、ゆっくり吐いた。鼓動が少し落ちる。
「……波なら、乗り方を覚えるだけだな。」
エイゼの口元に、わずかな笑み。
「そうだ。乗り方は稽古で覚える。波が来ても、剣を落とすな。」
二人は再び構え直した。木剣の先が、白線の上で触れ合う。
カン――。
響きが収まる前に、ハクヤは一歩踏み込み、恐れと共に刃を押し出した。
鏡の中、二つの影が重なって離れ、また重なる。
灯の寮の静かな夕刻に、木と木の確かな音だけが続いた。
白い線が床を二つに割り、傾いた夕陽が鏡面で増幅されて、訓練室は薄い金と灰の層で塗られていた。
木剣と木剣が触れ、乾いた音が短く跳ねる。息が二つ、間合いが一つずれる。ハクヤの右肩が半歩ぶん先に出た――その、ほんの刹那。
エイゼは峰で手首をはたき、内側へ滑り込む。刃が喉元の線を射程に収める。
ハクヤの呼気がつかえて、体軸がふらつく。危うい。
その瞬間、世界の輪郭がエイゼの視界で研がれた。
ハクヤの瞳孔が、真黒にひらく。
うなじの産毛が、風もないのに逆立つ。
皮膚の下で、見えない何かが向きを変える音がした気がした。
エイゼは追撃を解き、木剣の切っ先を下げる。
「……止め。」
声は低く、命令というより合図に近かった。
近づいて、囁く。
「深呼吸だ。四つ吸って、一つ止めて、六で吐け。」
ハクヤは言われるままに腹へ空気を落とす。四拍で吸い、ひと拍置き、長い吐息で胸を空にする。
二巡、三巡。肩の上下がおさまり、黒目がほどけ、逆立っていた産毛が静かに寝た。指先の震えも、床板の木目に吸い込まれて消える。
「……戻ったな。」
エイゼは確認するように頷き、木剣を肩に担ぎ直した。
「なぁ、今さ――音が遠のいた。部屋が少し重くなった、そんな感じがした。」
ハクヤは首筋に指を当て、汗を拭う。
「いや……ただ焦っただけか。隙、作った。悪かった」
「いいや。焦りを呼吸に変えた。舵は離していない。」
エイゼは短く言い、目だけで彼の全身をなぞる。
(防衛本能、か。視覚と立毛の反射……誘発は弱い。呼吸で収束する。)
ハクヤはまだ自分の変化に気づいていない。
胸の奥に、冷たい潮が一度寄せて引いた感触だけが、うっすら残っている。
「続けるぞ。」
エイゼは白線に踵をそろえ、低く構えた。
「さっきと同じ間合いで、一拍待て。波が来ても、先に手を出すな。」
「了解。」
ハクヤは床の冷たさを足裏で確かめ、木剣の柄を握り直す。
再び、木と木が触れる。
今度の音は、さっきより静かで、遠くまで届いた。
夕方。
窓からの光が斜めに差し、床の白線が薄く光っている。壁際には木剣が二本、汗の匂いと一緒に立てかけられていた。
「……五分、休むぞ。」
エイゼが言い、マットに腰を下ろす。ハクヤも隣に座り、肩で息をした。
「ほら、水。」
エイゼがボトルを押しやる。ハクヤは一気に飲み干し、喉を鳴らす。
「ああ、サンキュ。生き返る。」
呼吸が落ち着く。
ハクヤはあぐらをかいて、目を細く閉じた。肩甲骨のあたりが、わずかに上下している。
エイゼは横目でそれを見て、指先でそっと――つん。
肩甲骨と肩甲骨の間、背骨の上を軽く突いた。
ビクリ、とハクヤの体が跳ねる。
瞳孔がすっと開き、
後頭部の髪がふわりと逆立つ。
呼吸が一拍だけ止まり、心臓が内側から二度、強く叩いた。
(……威嚇してる猫みたいだ。)
エイゼは心の中で苦笑した。可笑しいわけではない。生き物が自分を大きく見せて、怖さを隠す仕草だと知っているからだ。
すぐに、さっきの位置から少し下――背骨に沿って撫で下ろす。
「深呼吸だ。吸って四、止めて一、吐いて六。」
低い声で合図する。
四拍で吸い、ひと拍置き、六拍で吐く。二巡、三巡。
黒目が緩み、逆立っていた髪が静かに戻る。指先のこわばりも消えた。
「……今の何だ?」
ハクヤは胸を押さえ、眉を寄せる。
「音が遠くなって、部屋が重くなった。心臓が二回、ドクンとなったような……。」
「驚いた時の反射だ。今の“つん”で防衛本能が顔を出した。」
エイゼは淡々と答えた。
「悪いな、ハクヤ。触覚のトリガーを確かめたかった。」
「触覚の……トリガー?」
「背中と、うなじ。多くの生き物にとって弱点だ。毛が立つのは、身体を大きく見せる古い仕組み。」
エイゼは自分のうなじを軽く示してから続ける。
「次からは触れる前に二回ノックする。仲間の合図だ。一回は『危険』で学習されやすい。」
「二回が仲間、一回が危険だな。了解。」
ハクヤはうなじに触れ、苦笑する。
「なぁ、なんかここらへんがゾワッと来たんだが、気のせいか……?」
「気のせいでは無いな。見事に逆立っていた。……猫みたいに。」
「まじかよ。」
二人の間に、少しだけ笑いが流れた。
「ちなみに音のトリガーってのは、どうなんだ?」
とハクヤ。
「背後の小さな金属音に弱い。鍵やコインの触れ合う音とかだな。……兵舎の癖が残っている。」
エイゼは、少し間を置いて付け加える。
「それから――番号で呼ばれること。心拍が上がる。」
「……あぁ。」
ハクヤは目を伏せる。
「俺も番号は、嫌いだな。」
「嫌っていい。」
即答だった。
「ここは灯の寮。番号ではなく、名前で呼ぶ。」
窓の外で、風が欄干を鳴らす。遠くで「ギコ、ギコ」と手押しポンプの音。蛇口が開いて水が石に当たる澄んだ響きが続いた。電気があってもなくても、水はここで生きている。
「汲みに行くか。」
ハクヤが立ち上がる。
「もう一杯飲みたい。」
「ああ、行こう。」
エイゼも立つ。
中庭。人工芝の色が午後で深くなる。
ハクヤがポンプのハンドルを押す。ギコ、ギコ、ギコ――規則的な音。蛇口から水が細い糸になって現れ、すぐに小さな流れへ変わる。エイゼは桶を受け、溢れないよう角度を調整した。
「いい音だな。」
ハクヤが笑う。
「そうだな、安心の合図だ。」
エイゼは指先を水で濡らし、見せてから――トン、トン。
合図をして、ハクヤのうなじに触れる。今度は髪は逆立たない。呼吸も乱れない。
「ん……平気だ。」
「合図は効く。」
「ははっ、猫、卒業できたか?」
「猫は賢い。危険も、甘える相手も知っている。」
エイゼは短く笑った。
「甘える相手、ね。」
ハクヤは照れくさそうに、ポンプをもう二回押した。
「……エイゼ。」
エイゼは返事の代わりに、桶を丁寧に受け取った。水面が静かに揺れる。
訓練室に戻る階段の踊り場で、エイゼが足を止める。
「ハクヤ。さっきの猫の話の続きだ。」
「ん?」
「毛が立つのは怖いからだ。怖さは強い。軽く見るな。扱い方を覚えるんだ。」
「了解。」
短い返事だが、芯がある。
訓練室は、さっきより少し影が濃い。
エイゼは白板にメモを書く。
<反射メモ(暫定)>
・触覚 肩甲間、二回ノックで抑制
・音 背後の小金属音、慣らし訓練
・呼吸 四、一、六
・合図 触れる前に名前を呼ぶ
キャップをカチと閉める。小さな音が、新しい決まりが増えたことを告げた。
「もう一合、いけるか。」
エイゼが木剣を取る。
「いける。今度は――波が来ても、一拍待つ。」
ハクヤも柄を握り直した。
構えがそろう。
打突の音がふたたび始まる。
先ほどより静かで、遠くまで届く音だ。中庭ではまだ、ギコ、ギコと一定のリズム。
灯の寮の午後は、訓練と生活の音を重ねながら、少しずつ厚みを増していった。




