孤児院の記憶
朝の空気は薄く冷たく、人工芝の上に溜まった露が、夜の名残をまだ手放さずにいた。
中庭のベンチに、エイゼは一人腰を下ろしていた。金属製の背もたれは冷え、掌を置くと皮膚の下で血の流れが一段深くなるのがわかる。東の空は墨色から白磁、やがて淡い橙へ――色の層を薄く重ねるように少しずつ明るくなっていく。
屋上のパネルが、薄日を受けてわずかに鈍く光った。機械室の方角から、ごく小さな振動が床を伝ってくる。電気が動き始める前の、微かな「予感」のような気配――エイゼは、それを確かに感じ取って、目を細めた。
足音。
靴裏が人工芝を柔らかく撫でる音と、呼気の乱れで誰だかがわかる。
「……起きてたんだね、エイゼ。」
「アビス、あまり眠れていなかったのか?」
アビスが少し肩をすぼめて笑った。昨夜、包帯で押さえた喉元の赤い痕は、色こそ薄くなったが、そこに在るという主張だけは消えていない。
彼はエイゼの隣に、遠慮がちに腰を落とす。冷えた金属が二人の体温でゆっくり温まっていく。
「首輪の音が、まだ耳の奥に残ってる気がしてさ。眠ろうとすると、ふいに思い出すんだ。――でも、これは過去の残響だよね。」
「過去の残響に、いまの呼吸を重ねろ。」
エイゼは東の空を見据えたまま、低く言った。
「心臓の拍動は『現在』のリズムだ。いずれ残響は小さくなる。……それでも消えないなら、上から新しい音で上書きする。」
「新しい音……?」
アビスは朝の空気を深く吸い込み、吐いた。白い息が一度だけ揺れて消える。
「たとえば?」
「湯の沸く音。鍋の煮える音。仲間の足音。――そして、夜明け前の静けさも、その一つだ。」
二人の間を、静寂が通り過ぎる。いや、静寂ではない、とエイゼは思う。人工芝の繊維が露を放すときの、きわめて小さな軋み。遠くの通りで転がる小石。屋上で金属が温度差にきしむ音。世界は、静かにだが確かに鳴っている。
「……ねぇ、覚えてる?」
アビスが、不意に口を開いた。
「孤児院の中庭。朝一番に、あの古いポンプをギコギコさせて――。」
「水を汲んで、手を洗ってから台所に立った。」
エイゼはすぐに続ける。
「粉はきちんと計量。バターは手の熱で溶かしすぎるな。……お前が『目分量でいける』とか言って、最初に焦がしたのがスコーンだったな。」
アビスは頬を赤くして、肩をすくめた。
「うん。あのときは、みんなの分を二倍作ろうとして、粉もバターもだいたい倍にしたら、全然まとまらなくて。――エイゼに水は小さじ一杯ずつだよって怒られた。」
「怒ってはいない。教えただけだ。」
エイゼは口元だけで笑った。
「それに、焼き上がりの半分は上出来だった。残りの半分は……皆のリーダー、ルシウスが平然と食べた。『焦げは香りだ』と言ってな。」
「そうだったね。ミィカは『苦いかも……』って泣きそうな顔で、でも最後まで食べた。イチタカは『次は俺が混ぜてやる』って言って、腕が棒みたいになるまで混ぜてくれた。ヴェールは……『粉が舞うのって僕みたいで美しいね』とか言って見てたね。」
名前を口にした瞬間、ベンチの上の空気が一度だけ重くなった。
失われた時間の重さ――それでも、エイゼは目を逸らさない。
「……あの日々は、無駄ではない。私たちが番号の檻に落ちても、あの朝と手の温度は、私の中から消えなかった。」
アビスは頷き、喉元をそっと撫でた。
「番号を呼ばれ続けるうちに、僕は名前に触れること自体が怖くなってた。名前は、奪われるものだって。――でも、キミが昨日、僕を『アビス』って呼んだ時、やっと大事なものが戻った気がした。」
「あなたは、最初からアビスだ。私が呼んでいなかった時間が、間違いだっただけだ。」
「……ねぇ、エイゼ。」
アビスは視線を空から彼女へ移し、少し照れたように笑う。
「孤児院の頃のキミ、皆の『お姉さん』みたいだったよね。針仕事も、料理も、掃除も。手の甲に小さな傷、ぜんぶ覚えてる。」
「あなたが服の裾を破るからだ。」
エイゼは肩を落とすふりをして、わざとらしくため息をつく。
「新しく支給された服を、二日で膝から裂くのは、あの孤児院の歴史であなただけだ。」
「あはは。僕、走るの好きだったから。」
アビスは人工芝に目を落とし、その緑がわずかに濃く見えることに気づく。朝露が光を返し始めていた。
「ここにも『中庭』があるの、少し不思議。あの頃のやり直しを、別の形でしてるみたいだ。」
「やり直しではない。」
エイゼは首を横に振る。
「継続だ。私たちは、あのとき失ったものを、いまの手で別の形にして積み上げている『灯の寮』は、そういう場所だ。」
「うん、そうだね。」
アビスはベンチの端に片手を置き、指先で金属の冷たさを確かめた。
「名前、いいね。“灯”。戻る場所に、光があるって、すごく救われる言葉。」
東の雲が薄く裂け、縁から光がにじむ。朝日の最初の一刃が、屋上のパネルを斜めに切り、反射が中庭の壁に一瞬だけ走った。
アビスはその光の筋を目で追い、微笑んだ。
「ねぇ、いつか……あの子たちの名前を、どこかに刻まない?」
躊躇いがちに、しかし確かな声で言う。
「大げさな碑じゃなくていい。金属片でも、木の板でも。毎朝、誰かが見上げられる場所に。」
エイゼは短く考え、頷いた。
二人はしばらく黙って日の出を見つめた。言葉を挟む余地がないほど、朝が美しかったからだ。
太陽が地平線に顔を出すと、人工芝の露が一斉に光り、風がそれを撫でて、きらめきが波のように走る。遠くの機械室の方角で、インバータの中のファンが低く回り出す気配があり、寮の深部が「起きる」準備をしているのがわかる。
「……ねぇ、エイゼ。」
アビスが、もう一度声を落とした。
「僕は、あの頃――孤児院でさ。いつか“連れて行かれる日”が来るって、どこかでわかっていた。十六になったら、冥土の本部に連れてかれて……。だから、『いま』が怖くて、未来を小さく畳んで、今日に押し込めて生きてた。」
「わかっている。」
エイゼの声は短いが、柔らかかった。
「私もだ。十六の壁の向こうを、真正面からは見られなかった。――だから私は、いま、見るんだ。未来の方を。あの頃の私たちが見られなかった景色を、いまの私たちに見せるために。」
アビスはゆっくりと頷いた。
「キミとなら、見られるね。」
「当然だ。」
エイゼは立ち上がる。ベンチの金属がわずかに鳴り、人工芝が一列だけ寝返りを打つ。
「さて、日の出が終わったら、現実だ。屋上のパネル清掃、機械室点検。レイラは朝の診療準備。ザハークは外周。ガルツは食料物資の調達。ハクヤには……」
「当番表の更新と、食堂の換気だね。」
アビスがすぐに言い、笑った。
「僕は、朝食を作る。……スコーンは、今日はやめておこうかな。」
「賢明だ。」
エイゼはわずかに口角を上げた。
「だが、いつかまた焼いてほしい。焦げさせないために、ではない。焦げさせても構わないために、だ。」
「……うん。」
アビスは立ち上がり、空を見上げる。
「名前で呼べる朝は、焦げてもいい。」
中庭の出入口の方から、足音が近づいてきた。
「……お前ら、朝から仲良しだな。」
あくび混じりの声。ハクヤが寝癖で跳ねた髪をかき上げながら現れ、二人を見て片手を上げた。
「なぁアビス、俺らの朝飯、焦がすなよ。」
「努力するよ、ハクヤくん。」
アビスは肩をすくめ、
「でも焦げは香りだからね。」
と悪戯っぽく付け足す。
ハクヤは呆れたふりをし、しかし目は笑っていた。
エイゼは二人の背を並べて見遣り、東の光へ視線を戻した。
太陽はもう、屋上の縁から肩を持ち上げ、光が灯の寮の陰影を鮮やかに塗り替えている。
過去の残響は、今日という音で少しずつ上書きされていく。檻ではなく、戻る場所で。
「――行くぞ。」
エイゼは短く言い、中庭を後にした。
新しい朝の段取りが、もう始まっている。




