私の嫁いだ町
きっと自分は将来、面白味もない権力に固執した男と結婚するのだろうなと思っていた。
かつて内閣の一員をも務め国民から絶大な指示を受けていた大叔父の影響もあってか、私の親族には政治の道に進むものが多かった。父も例外ではなく、市議会議員や県議会議員を何度も経験している。その一人娘との結婚はそのまま人脈が一気に増えることを意味し、ある種の人間にとってそれは喉から手が出るほど渇望しているものであるらしかった。漠然とではあるが幼い内からその運命を何となく理解していたので、せめて未来の自分が己の存在価値に疑問を抱くようなことの無いよう、他者に依存しない価値付与を心がけてきた。それは例えば教養であったり人間性であったりという、金や権力のような他者に簡単に奪われるようなもの以外を身に付けるということだと考えた。そんな小難しい思考をする以前から元々両親が「蝶よ花よ」と育ててくれたということもあり、親の名を知らない他人が見ても「理由子さんは育ちの良いお嬢様に違いない」と思ってもらえるような娘に成長した。
齢が二十を超えた頃から、次々と縁談の申し込みが届くようになった。父も母も私の気持ちをなるべく尊重しようとしてくれていたのだが、私が二十六歳の時に事態は急変した。県議会議員をしていた父の弟がある企業と癒着していたことが発覚し、それまで一族を支持してくれていた層が離れていってしまったのだ。癒着事件発覚の直後に行われた選挙は親族みんな悉く落選し危機に陥った。収集をつけるためには、世辞に疎く団結力がある集団を束ねており、かつ金銭的援助の見込める相手と縁を結ぶことが必要とされた。こんな好条件の相手はそうおらず、私宛にたくさん届いていたお見合い申し込みの中で合致したのは『高宮光久』という男だけだった。彼はとても業績の良い中小企業に勤めていて、次期中小企業組合長となることが内定していた。その人口約四千人の閉鎖的な田舎町は昔から組合長が取り仕切っているらしく、つまり高宮家と縁を結ぶことで財力と四千人の支持者を得ることが見込めるということだった。一方相手方の家はというとその輝かしい業績に対して人脈が著しく足らないらしかったから、我が家と高宮家が手をとることは両者にとって最良の選択肢と言えた。
「はじめまして、高宮光久です」
顔合わせの食事会場に着くと既に着席していた長身の男性がすくっと立ち上がり、柔らかく微笑んで会釈をした。たったそれだけの所作からも伺える育ちの良さは、想像していた“田舎のお坊っちゃま”とはかけ離れていてその優しげな風貌に好感を持った。お互いの両親も交えた顔合わせは無事に終わり、その後に何度か二人きりで会ってから正式に結婚が決定した。同じ時間を過ごすほど彼の魅力を次々と発見し、気づいたときには恋をしていた。きっと面白味もない権力に固執した男と結婚するのだろうなと思っていたのに、家の都合で引き合わされたとはいえ、恋情を抱ける、自分の意思で結婚したいと思える相手と結ばれることになることがとても幸せだった。
嫁いでいった先は都会暮らしに慣れていた私にとって新しいことばかりで戸惑うことも多かったけれど、初めて経験する密な人付き合いに感激し毎日を楽しく過ごせた。結婚から二年ほどして子宝にも恵まれ、元気な男の子を出産した。町人達からも盛大に祝福され、後継ぎも生まれたことだしこれでこの町は安泰だと皆口々に言い合った。もちろん光久も息子、宏樹の誕生を喜んでくれたが、時折宏樹の姿を見て涙を流した。心配になり理由を問うと始め頑として口を割ろうとしなかったが、根気よく尋ねるとついに腹を括ったのか答えを教えてくれた。
「今まで言い出せなくて本当にごめん。実は俺には宏樹の他にも子供がいるかもしれないんだ」
思っても見なかったカミングアウトの内容に、文字通り頭が真っ白になった。光久は私の動転が少し落ち着くのをまってから、詳しい説明を続けた。
「子供の母親はアキさんという、五年くらい前にうちと製品の共同開発をしていた隣の県の企業で、専務付き秘書を勤めていた女性だ。会議の度に顔を会わせるうちにお互いに惹かれていって、お付き合いすることになった。結婚を望んだけれど、俺の両親は彼季が孤児院出身と知るや否や、結婚を認めないどころか関係を断ち切るよう強要してきたんだ。俺も彼季も勿論抵抗したが、結論から言えば見事に引き裂かれた。その後彼季が身籠っていたことを知ったけれど、もうどうしようもなかった。それ以来一度も連絡をとっていないから、アキが子供を産んだのか否かはわからない」
同じ女性として剰りに酷い話だと憤る反面、そのおかげで自分は最愛の人と結ばれたのだから、義理の両親に感謝しないわけにはいかなかった。
「貴方は、まだアキさんのことが好きなのですか」
言葉が全然出てこなくて、私が訊ねることができたのはそれだけだ。光久はそっと私の手をとり目を見て優しい声色で応えた。
「理由子のことが好きだよ」
* * *
幸せな時間は、突然終わりを告げた。朝、いつもの習慣で郵便受けの中を確認すると一通の封筒が届いていた。宛先はやたら丸い文字で高宮光久とボールペンで綴られていた。彼は既に仕事に出ていたから書斎に置いておこうと、屋敷の中へきびすを返す。何の気なしに手紙を裏返すと『大野彼季』の署名が目に入った。
「おおの…かれ……」
とても小さな町だった上に、高宮家はとりわけ交流が多かったから、その頃にはもう町人の名前を苗字くらいは把握していたが、大野という人物に心当たりは無かった。仕事関係の人なら私も粗方知っているはずだったが、この人物名は記憶に無い。第一この名前は何と読むのか。記憶力はかなりいい方なので『彼季』なんて読み方もわからない珍しい名前を忘れるとは考え難かった。明らかに女性の筆跡も相まってどうしても差出人が気になりその読み方をしばし考え込むと、突然閃いた。
「もしかして、アキさん…?」
一度その名が浮かんでしまったら、もう自分を律することが出来なくなった。はっと我に返ったときには既に封筒の口は開いていた。仮に本当に差出人が光久の元恋人だったとして、今更何故手紙を送ってきたのであろうか。震える指で中の便箋を抜き出す。復縁を願い出てていたらどうしよう、あるいは隠れてまだ関係を持っていたのだとしたらどうしよう。呼吸をするのも忘れていた。そっと三つ折りに畳まれていたのを広げると、まず書き出しの『お久しぶりです。』という文にほっと息を吐く。一先ずしばらく連絡をとっていないという光久の言葉は真実であったようだ。さて、わざわざ手紙を出してくるなんて何の用件だろうか。
最後まで読み終えて愕然とした。文面からは光久に対する愛情を微塵も感じられないどころか、子供を楯に金銭を要求していた。たかが一人分の養育費くらい大した額でもないのに、弱味に漬け込んで貪ろうとする態度が腹立たしかった。そして我が夫はお金を無心するような女に誑かされていたのかと憐れに思った。
便箋を封筒の中に戻してようやく我に返り、さてこの手紙をどうしたものかと思案した。封を開いてしまったから、このまま渡したら勝手に読んだことがばれてしまうだろう。新しい封筒を買って偽装しようにも、筆跡は真似られても消印は作れない。盗み見てしまっことを白状しようかとも思ったが、愛想を尽かされるのがとても怖かった。それに私はこの手紙に怒りしか感じなかったが、光久は違ってまた恋心を思い出してしまうかもしれない。私はこの時、三つの過ちを犯した。一つ目は光久に無断で手紙を読んでしまったこと。二つ目は光久に手紙を見せないことにしたこと。そして三つ目は、私が光久の代わりに返事を出してしまったことだ。放っておけば良かったものを、このままにしたらいつまでも光久を当てにされそうで寝覚めが悪くて、とりあえず金銭的援助をする気はないということを簡潔に述べて返事とした。かなり冷たい言い回しをしたから諦めるだろうと思っていたのだが、予想に反してそれから数週間後に再び彼季から手紙が届いた。もう光久に見せるわけにはいかないと開き直って前回より罪悪感もなく開封すると、内容は変わらずお金を欲していてほとほと呆れた。幾ら郵便受けの確認が私の役割になっているとはいえ、絶対に他の人が見ないとも限らない。そう何度も手紙を送ってこられて運悪く光久に見つかりでもしたら思うと、背中につうっと冷や汗が伝った。もう二度と手紙なんて送ってこないようにと更に冷徹な文章を返信したが、また数週間後に懲りない手紙が届いた。始めに感じていた後ろめたさや罪悪感は消え失せ、今は兎に角手紙をやめさせなければと必死で返事の文面を考えた。その後も二、三回やりとりがあった後、手紙の要求が変わった。もう金はいいから、自分が死んだら息子を育ててくれと言うのだ。度が過ぎる身勝手さ、そして同じ親として我が子を放り出す無責任さに軽蔑せずにいられなかった。剰りにも軽蔑したために返事をする気にもなれず、今までの手紙全てを木箱に仕舞い、誰にも見つからないように寝室の戸棚の最奥に押し込んだ。
* * *
「理由子、ちょっと話があるんだがいいか」
いつになく真剣な固い声色に不安を抱きつつ、光久に向かい合うようにソファーに腰かける。
「何かあったの」
「実はさっき電話があってな、以前話した俺の元恋人、彼季さんが亡くなったらしい」
「えっ………」
動揺で硬直している私の目の前で、光久は静かに涙を流した。ひしひしと伝わるその深い悲しみが、これは現実なのだと突き付ける。
「自殺らしい。現場に遺書が残されていて、そこに『息子の親権を高宮光久へ託す』と記されていたそうだ。それで俺のところに警察から連絡が来たんだ」
耳の奥で地響きのような音がする。機能戸棚の奥に仕舞い込んだ手紙には、何て書いてあったか。
「やはり彼季は、一人でも産んでくれていたんだ。俺の子を。彼季を幸せにしてやれなかった分、せめて子供には辛い思いをせずに育って欲しい。半分は俺の血が流れているんだ、引き取って育てることを了承してはくれないだろうか」
雑音の向こう側から、声がする。音としては認識できても、その意味するところがわからない。理解することを脳が拒否している。
「ほんとうに、貴方の血縁なのでしょうか」
絞り出した返答は、自分でも呆れるような。
「息子さんの年齢は十歳だそうだ。俺が彼季から妊娠したと聞いたときと時期が一致する。彼季はとても真面目な女性だった。同時期に他の男と、なんて考えられない」
違う、そういうことが聞きたかったわけでは無いのだ。そんな愛おしそうに、他の女性の名前を呼ばないで。
「そんなに心配なら、遺伝子検査をさせよう。親子関係は金さえ払えば、今や簡単に調べられるだろう。手配するよ。だから今は仮に、ちゃんと俺の息子だったとして答えて欲しい、一緒に息子を我が子として育ててくれるだろうか」
私はずっと前から気づいていたのに。「貴方は、まだアキさんのことが好きなのですか」この質問をしたときから、光久の気持ちがわかっていた。「理由子のことが好きだよ」
光久は“応えて”はくれたけれど“答えて”くれはしなかった。だがそれこそが答えなのだろう。つまり、私のした問いにきちんと答えるとしたらこうだ。『アキさんのことが一番好きだ。理由子のことも次いで好きだよ』
私の意見など関係は無い、それでもこうして、私の意見を尊重する体をとってくれる。それで満足しないと罰が当たる。元は彼季からの手紙を勝手に開けてしまった私が起こした悲劇。
「これからは四人家族になりますね」
* * *
屋敷に連れてこられた彼季の息子一俊は、久光さんの面立ちにとてもよく似ていて、彼の実子であることを疑いようが無かった。私は彼季さんの命を奪ってしまった要因かもしれないという罪悪感から、この幼子の幸せに尽くそうとした。それは久光も同じであった。図らずも私たち夫婦は、同じ罪を抱え、贖罪で強く結ばれることとなった。
子らが成長していくにつれ、私たち家族の絆はしかし、第三者の好奇に穢されていく。当然、当主である久光の耳にはより多くの声が届いていただろう。
それでも跡継ぎについて言及しないことこそが、一俊に後を次がせたいという光久の心情を如実に表していた。
私たち夫婦は、一俊への贖罪意識が強いあまり、宏樹のことをきちんと考えてあげられなかった。
私はただ普通に愛されて、愛したかっただけだったの。最愛の夫を愛し、最愛の息子を愛し。妻として、母として愛されたかった。
彼季さん、貴方もそうだったのかしら。
どこまでが自分の身体かもわからない。薄れゆく意識の中で、ただただ、息子たちが幸せであれと、そう願った。
――――――fin.
最後までお読みいただきありがとうございました。
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次回作をお楽しみに。