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  作者: 桜田 優鈴
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君の描いた町

 大きな家や美人の母親。そんなものは俺にとって何の価値も無かった。ましてやそれが、自分の本当の親でないのなら尚更だ。

「何か欲しいものとかあったら、遠慮なく言ってね。一俊くんも、今日から私たちの家族なのだから」

 お母さん、と呼ぶことを暗黙の内に強要されたその女性は、美人で淑やかで、理想的な母親像そのものだった。いっそお伽噺に出てくる継母のような、誰から見ても悪役の性悪女だったら良かったのに。そうしたら俺は正当にこの人を恨めたし、反抗できた。でもどこまでも優しくて綺麗に取り繕われたこの人に、そういった隙は一切無かった。本当の母親は、もっとずっと欠点だらけだった。酒癖は悪いし、機嫌が悪いと直ぐに怒った。だけどその方がよほど人間らしかったと幼いながらに感じた。


 母子家庭で、決して裕福とは言えなかったけれど、二人きりの小さなアパートの部屋は俺にとってはかけがえのないものだった。子どもとして、守られるのが当然だと思える場所。愛されて当然だと思える人。それら全てが、そこにはあった。贅沢ができなくても父親がいなくても、そんなことは俺にとって些細なことでしかなかった。そもそも生まれたときから貧乏であり片親であったから、それに不満を覚えたことは殆ど無かった。

「この子の名前は、宏樹(ひろき)っていうの。弟として仲良くしてあげてね」

 だから人から羨まれるような富も両親も、俺にとっては逆に違和感の塊だったし、況してや異母兄弟なんて気持ち悪さしか感じなかった。まだ二歳になったばかりだという宏樹が、無邪気に俺の指を握った。


 *     *     *


 引っ越した先はとても閉鎖的な町だった。公共交通機関は一日に五本走るバスだけだし、周囲を山々に囲まれていたため町の南東にある道路が塞がれば孤立状態になってしまう。陸の孤島とも呼べるような場所だ。人口は三千人を少し上回る程度。それも代々その土地に住み着いている者ばかりなので、町人は互いのことをよく知っていたし、みんな余所者はすぐに判別できた。新しく住人となった男児が十歳であるとか、その子が高宮家当主の隠し子であるとか、妾がその隠し子を利用して財産を狙っているとか……録でもない噂話が引っ越したその日中に町内全体を駆け回る程度には、町人同士の情報は筒抜けだった。

 “碌でもない噂”とは言ったが、あながちその内容に間違いがないのだからやはりこの町のネットワークは恐ろしい。俺―――高宮一俊は確かに当時十歳だったし、父親は現高宮家当主である高宮光久(みつひさ)だ。違うのは妾云々のことくらい。そもそも噂の渦中の人は既にこの世にいなかった。母親を亡くして身寄りが無くなったからこそ、俺は仕方無く本家に引き取られたのだ。こんな事態を望んでいた者は誰一人として存在しなかっただろうと思った。誰一人として。

 自然に囲まれた田舎ではあったものの、この町の主要産業は第一次ではなく第二次産業。豊富な清水を生かした精密機械工場が立ち並んでおり、総じて業績が良かった。便の悪過ぎるこの町でここまでの結果を出せていたのは、町ぐるみで情報漏洩を防ぎ、代々伝承してきた特別な技術とそれを成し得る職人の腕があればこそ。そしてその、町の生命線となる技術を開発したのが、俺の曾祖父である高宮寛吉(かんきち)だ。それ以来代々高宮家当主は中小企業組合長をしており、更なる技術開発を続けている。この町において組合長は町長よりも何よりも格上と見なされており、絶対の存在だった。そんな御家の長男として、俺はこの町にいる限り何処に居ても特別視された。それはまるで町人全員に監視されているようですらあった。とても息苦しかった。それでも、行き場の無かった俺を引き取って、周囲に陰口を叩かれようとも気にする素振りを見せず何不自由なく育ててくれている高宮夫婦の手前、泣き言を吐くことは許されないと思った。代々長男が当主となっている慣例から考えて光久の血を継いでいる以上、順当にいけば俺が当主を継ぐであろうことは皆知っていたし、何よりその慣例について説明してくれたのは父だった。自分のせいでそうなったのでないにしろ事実として悪評高い俺を当主に据えようと考えてくれている父のためにも、高宮の名に恥じない人間になりこの御家に尽くそうと、早い段階から決意していた。先に述べたような状況であったから、町の何処へ行っても心が休まることなど一瞬たりとも無かったが、それでも無力な子供だった俺は、ただ期待された通りの道を歩く従順な操り人形たろうとした。

 元々高宮家はこの町において注目される家ではあったが、俺が来てからその眼差しの意味するところが羨望から好奇へと変わったと使用人たちが話しているのを耳にしたことがある。家族間で仲は悪いのか、妾の子で年上の俺と、正妻の子で年下の宏樹。どちらが家を継ぐのか。そんなことをひそひそと噂しては、俺が子供なのをいいことに無遠慮な視線を向けたり、近づいてくる者も少なからずいた。だから俺は誰とも深く関わりを持とうと思えなかった。それは異母弟の宏樹も同じであったようで、多くの友達を作ろうとは考えていないようだった。ただひとつ俺と違ったのは、宏樹には一人だけ心を許せる相手がいた。それは幼馴染みの向田(むかいだ)佐千代(さちよ)だ。二人は大抵一緒にいた。何をするでもなく、ただそばにいるという感じで、一緒にいることが当然のようだった。俺はそれをとても羨ましく…そう、羨ましく感じていたのだきっと。

 町内にある学校は、小さく古い小学校と中学校が一つずつあるのみだ。その先の進路として流石に高校くらいは行くというのが主流であったが、中には便が悪く移動手段も限られることを理由に、中卒も珍しくはなかった。高校に進学する者も、同様の理由のためにほぼ全員が一番近く――近いと言っても、バスは当てにならないことが多かったから自家用車や原付で登校する他ないが――にある翠高校に入学をした。俺も例外ではなく、当たり前のように翠高校へと進学し無難に高校生活を送り卒業、父を継ぐために高宮有限会社に就職した。そして比較的平穏に月日は流れ、俺が社会人五年目に、宏樹が中学三年生になった。その頃になると宏樹の能力が周囲から逸脱していることが誰の目から見ても明らかになってきて、それは地元教師の手に剰るほどの出来だった。周囲から翠高校よりも難易度の高い高校へと進学することを散々勧められていた。その様を目の当たりにし、俺は自分の立場の危うさを自覚した。流石に高宮家の人間には聞かれないように気を付けてはいたようだが、意識して聞き耳をたててみると町人達は「真に高宮家当主に相応しいのはやはり、正妻であり出自のはっきりしているご令嬢である理由子(りゆこ)さんのご息子、宏樹さんだ」とひそひそ話していた。焦る俺に対して、宏樹はというと実に呑気なものだった。結局大人たちが押し付けてきた沢山の高校の資料に一度も目を通すことなく、翠高校への進学を決めてしまった。入学式の朝、車に佐千代も乗せていって欲しいと使用人に頼むのを聞いて、全てを悟った。佐千代は母子家庭で当然使用人なんているはずもない上に母親に甲斐性がないらしく、高校までの通学手段が無かった。きっとそのせいで一度は進学を諦めかけていたはずだ。宏樹は佐千代のために、翠高校へ通うことにしたのだ。

 父親であり上司となった光久は、仕事に厳しい人間だった。来る日も来る日も俺は光久に叱責された。その一方で宏樹は高校で更に才能を開花させ、試験という試験で飛び抜けた好成績を残し続けた。その様を受けて町人達は「宏樹さんは高宮家次期当主の座を狙っているのでは」と真しやかに言い合った。それらの噂を知っているのは、どうやら俺だけであるようだった。両親ともに後継ぎを変えるなどという話をちらりとも口に出さなかったし、宏樹も後を継ぎたいと一度も言わなかった。俺はその事が逆に怖かった。いっそこの時点で最後通牒を出されていた方が、楽だったのかもしれない。

 隣町で開かれた会合に出席するために出掛けた両親が、深夜になっても帰って来なかった。代わりに一本の電話がかかってきた。その電話は、無機質に、二人の人間の最期を通達した。俺が社会人七年目、宏樹が高校二年生の冬のことだった。沢山の説明やら手続きやらをしたが、どれも記憶が曖昧だ。はっきり覚えているのは、両親は酒酔いダンプに跳ねられたらしいという何の救いにもならない情報くらいなものだ。葬儀は盛大に執り行われ、町の全家庭から各一名以上が参列していたはずだ。通夜振舞いの場は、後継ぎ問題で町人達が好き勝手に盛り上がっていた。普通に考えればまだ高校二年生の子供に当主など任せられるはずもないのだが、宏樹にはそれさえ有り得ると思わせるに足る能力と血筋があった。親戚一同で話し合い、慣例通り一年間喪に服したら次の当主をはっきりさせようということにまとまった。使用人たちはそのとき初めてその問題に気づいたような顔をして、俺と宏樹を遠巻きにどちらに付いて良いか判らずあわあわしており滑稽だった。噂の当人である宏樹はというと、そんな話題を耳にしたくないとばかりに会を抜け出し、ずっと棺の傍でぼうっとしていた。


 *     *     *


 四十九日も過ぎ落ち着いてきたところで、放置していた両親の部屋を片づけることにした。使用人にやらせても良かったのだが、ここまで育ててもらった恩返しのつもりで自分が引き受けた。もうしばらく誰も寝室を使用しないし折角だから普段なら掃除しないような奥の奥まで徹底的にやろうと、戸棚の中も次々荷物を退けていく。すると最奥に押し込むように入れられた小さな木箱を見つけ、何の気なしに蓋を開けてしまった。―――今となって思えば、それはパンドラの箱であった。中身は何通もの手紙で、差出人は全て俺の実母である大野彼季(おおのあき)だった。その懐かしい名前と筆跡を前にしてじっとしていられるわけもなく、気づけば封筒から便箋を抜き出して目を通し始めていた。いけないことだと良心が警鐘を鳴らしたが、手紙の差出人・受取人共にもうこの世にいないという事実が自分の行動を後押しした。彼季の決して達筆とは言えない丸っこい文字が示したのは、剰りに酷い過去だった。何通にもわたる彼季と光久との文通。当然手元にあるのは彼季からのものだけなので光久の返事は推測する他無かったが、それでも状況を大まかに把握するには事足りた。

 俺を身籠った彼季は光久にそのことを告げると、彼季の出自がしっかりしていないことを理由にあっさり捨てられた。子供をおろすことはどうしてもしたくなかったため、シングルマザーとなってでも産み育てることを決意したものの、現実はそう甘くなかった。元々大した稼ぎ口があったわけでもなかった彼季の生活はすぐに傾いてきた。光久に手紙を出していたのは、必ず返すからお金を貸してほしいと頼むためだった。しかし光久は自分には関係のない話であるとして断固拒否し続けた。

 手紙を要約すると、つまりこういうことだった。そして最後の手紙で、彼季はお金を頼む代わりに別の依頼をしていた。

『もうお金はお願いしません。代わりに、ひとつだけ約束してください。もしも私の身に何かあったら、息子の一俊のことを不自由なく育ててやってください。私の願いは、終始それだけでした。よろしくお願いいたします。』

 その手紙の消印は、母の命日だった。プツン、と自分の中で何かが切れる音がした。

 新年度になっても、宏樹は相変わらず毎朝佐千代と登校し毎夕佐千代と下校していた。その光景は、俺にとある策を閃かせた。

「こんにちは。いつも弟の宏樹が、お嬢さんにお世話になっております」

 菓子折を手に向田家へ赴くと佐千代の母親、向田瑞姫(みずき)が出迎えた。

「えーっと……どちら様ですか」

 瑞姫の第一声は、間の抜けたものだった。この町に住んでいながら俺の顔を知らない者が存在したのかと、柄にもなく感動してしまったのを今でも覚えている。名を名乗ると流石に組合長の家の息子だと思い当たったようだったが「一俊さん……宏樹でないということは、お兄さんの方かしら」と要領を得ない返事だった。そういえば葬儀にも娘が出席していてこの人の姿は見えなかった。もしかしたら、俺が隠し子であるとか今当主争いの真っ直中であるとか、そういったことについて全く知らないのではなかろうか。この町で唯一この人だけは、ちゃんと俺個人を見てくれるのではなかろうか。そんな淡い期待が、沸々と沸いてきた。その淡い期待は、これからしようとする残忍な計画への躊躇いを失わせ寧ろ助長させるに充分だった。瞬時に脳内で今後の予定を組み立て直し、もう随分としていなかった笑顔という表情を綺麗に作った。

「日頃のお礼がしたいのです。もしお時間があれば、ご一緒にランチでもいかがですか」

 瑞姫は当時三十四歳で俺の十歳年上だったが、何度か会ううちにだんだんと彼女の年齢にそぐわぬ本質が見えてきた。正に少女のまま年齢だけが増えていってしまったような人で、夢見がちな乙女思考を捨てられずに生きている姿を憐れにすら感じた。佐千代の実父をはじめとして男運が悉く無く過去話は聞くに耐えなかったが、それらの経験を何ら生かせていなかったし生かそうともしていなかったから、何度でも同じ場所に傷を負っていくのだった。娘の佐千代の心中としてはいい加減学習して欲しいものだったろうが俺としては寧ろ好都合で、少しくさい台詞で口説いただけで簡単に落ちた。

「同い年の弟がいるからわかりますが、娘さんも多感なお年頃でしょう。僕とのことはしばらく秘密にしておきましょう」

「しばらくって、いつまで?」

 鼻にかかった甘え声。

「結婚するまで」

 瞳を見詰めて囁けば、頬を染めて。

「いつ結婚できる?私、一俊さんと早く結婚したいわ」

「そう思ってくれて嬉しいです、僕も瑞姫と直ぐにでも結婚したい。結婚しよう」

 そこに至るまであっという間で、ここまで上手くいっていいものかと逆に不安を感じたりもしたが、結論からいうと出逢って半年で婚姻届にサインさせることに成功した。町役場へ二人で提出しにいくと、その日の内に町中で大変話題となった。俺はもちろん、言いつけを守り抜いた瑞姫も家族を含めた誰にも結婚のことを教えていなかったから、噂を耳にした親族らははじめそれを全く信じようとしなかった。念のためにと冗談混じりに事実を確認されあっさり結婚を認めたところ、騒ぎは一気に大きくなった。光久が彼季との結婚を散々反対されたくらいであるから、てっきり離婚しろと言われるかとも思っていたのだが、流石そこは昔ながらの田舎町。婚姻はそう簡単に破棄できるものではない、離婚なんてしてはいけないという古くさい考え方の者が大半で「結婚してしまったものは致し方ない」という風潮になった。こんなに簡単に結婚を納得されられるなら何故光久はもっと頑張らなかったのかと怒り心頭だったが、その感情の矛先はもうどこにも無い。俺と瑞姫の結婚に一番最後までごねていたのはやはり佐千代で、彼女は母親と違って当時まだ俺ですら自覚していなかった俺のどす黒い部分をしっかり見抜いていたようであった。佐千代が反対してきた時点で宏樹もそれに加担するとばかり考えて警戒していたが、意外にも終始何も文句を言ってはこなかった。

 結婚から一週間と経たぬ内に、高宮家の屋敷に瑞姫と佐千代が引っ越してきた。引っ越し業者が次々に段ボールを運び込むのを廊下の隅で突っ立って眺めている宏樹を発見し、その肩を叩いた。

「ここはこれから俺達夫婦の家なんだ。新婚なんだぜ、気遣えよ」

 憎らしいほど聡明な義弟はそれだけで俺が何を言いたいのか理解したようで「改めまして御結婚おめでとうございます」と宣い、微笑みさえした。善人の見本のような回答が気持ち悪く、おめでたくなどないと叫びそうになって俺はその台詞を吐き気と共に飲み込まねばならなかった。


 *     *     *


 秋分の日を過ぎた頃、宏樹が珍しく俺の部屋を訪れた。話があるというので椅子を回転させて仕事机に背を向けると、両の拳を強く握り唇を噛み締めてキッと俺を睨み付ける雄々しい表情をした男が目の前に立っていた。普段からは全く考えられない別人かと見紛うほどの荒々しい感情が表に現れていたのは、入室直後の僅か数秒。直ぐに宏樹はいつもの何も考えていないような呆けた顔に戻って―――つまりはこれがただ呆けているのではなく作られたものなのだと種明かししてしまったようなものだが―――ゆっくりと口を開いた。

「大学に行かせてください」

 意外なその頼みは俺にとって願ってもないことだった。町から通える範囲に大学など無い。つまり、宏樹が高校を卒業したら町を離れるつもりだということを意味した。それは同時に、この町を束ねる高宮家当主の座を手放すということでもある。忌々しい人間の顔をもう見なくて済むかもしれないと歓喜の声を上げそうになるのを堪え、苦悶する振りをした。そして瞬時に脳内を様々な可能性、未来のパターンでいっぱいにし、念には念を入れることにする。

「大学にかかる費用は全て俺が出してやる。だからその代わり、もう二度とこの家に帰ってくるな」

 反発されると思った。冷静に考えたら両親の遺産を取り分ければ、どの大学に入るにしろ費用に困ることなんて無いはずだった。それでも俺がこの台詞を苦々しく吐いたとき、宏樹は怒るどころか寧ろ安堵の表情を浮かべて頷いたのだった。

 両親の一回忌、親戚らが談義を始めてしまうより前に宏樹が大学進学を予定してることを宣言した。「宏樹さんの能力は高校で終わってしまうには勿体無いものねぇ」とか「更なる知を得て高宮家に貢献してくれるだろう」とか好き勝手なことを口々に言い合い、反対よりも応援する者が多かった。後取りとして宏樹を推すつもりでいた者達も「取り合えず一俊を仮で据えておいて、大学で力をつけた宏樹が戻ってきたら代わらせればいい」という浅はかなことを都合よく考えたようで、当主の座は拍子抜けするほど簡単に俺のものになった。瑞姫は果たして高宮家の現状をどこまで理解できていたのかわからないが、それでも俺が当主となることが正式に決定して一番喜んでくれたのが彼女であることもまた事実で、正直このとき初めて瑞姫が俺の妻なのだと実感した。剰りに上手く行きすぎて、親戚たちの前でにこにこと御行儀良く微笑む宏樹の姿を横目で見ながら勝負に勝ったはずなのに俺は何か重大な見落としをしているのではないかと疑念を持ったものの、瑞姫が手放しで喜ぶ様子にそれらはきっと杞憂であろうと自らを説得した。

 大学に合格した宏樹は予定通り家を出て、それきり一度たりとも家に戻ってくることは無かった。全く便りが来ないことを怪訝に思った宏樹派の親族らにせがまれ、彼が大学二年生の正月に渋々手紙を出してみたところ、住所が違うと返ってきた。このご時世に珍しく携帯電話も持っていなかったから、家を出て僅か二年足らずで音信不通になってしまった。大学に連絡すれば本人を捕まえることなど容易ではあったのだが、住所を変えてまで宏樹はこの御家と縁を切りたかったのだ、前々から宏樹には家を離れたいと相談されていたと親戚一同に力説してやった。納得しないものも少なからずいたが、難しい年頃だからしばらくそっとしておいてやろうということで何とか落ち着いた。宏樹のいない町は話題性に欠けてやたら静かだと感じた。それに反比例するかのように、今まで活気の無かった家の中は騒がしくなっていた。予想外にも宏樹から大学進学について直接は聞かされていなかったらしい佐千代は、彼が本当に引っ越していなくなってしばらくの内は生ける屍のごとく意気消沈していたのに、失踪が明らかとなったとたん自棄になったのか何なのか急に活動的に変わった。それまで何の将来性も意志も示さなかったのが一転、画家になりたいと宣い出したのだ。始めは無視していたものの、毎日毎日騒がれるのが煩わしくなってきたし、瑞姫にも頼まれたし、金は有り余っていたし、他に面白いことも無かったので、画材道具一式を買い与えて試しに数枚描かせてみることにした。するとこれが想像を遥かに上回る力量で、訊くと小学生の頃からことあるごとに絵で大きな賞をもらっていたとのことだった。次に美大に通わせろと言ってきたが、折角見つけた退屈しのぎの玩具を手放すのも惜しく、引っ越すことは却下した。すると何を思ったか屋敷を抜け出そうとするようになったので監視を付け、町人には佐千代は重病を患っているため外出は身体に障るのだとか適当な理由をつけて外で佐千代を見かけたら必ず報告するよう命じた。見えない鎖に繋がれたも同然となった佐千代は自室に閉じ籠り塞ぎ込むようになってしまいつまらなくなったので、大学へ行かせる代わりに美術教師を屋敷に呼んでやることにした。一対一で手解きを受けられるなど、ある意味大学に行くより厚遇だ。世間知らずな佐千代であってもそれくらいは理解していたようで、機嫌を少し戻した。肝心な佐千代の画家としての腕は驚く早さで成長し、数年もすると描く度描く度絵が売れるようになった。値も段々と上がっていった。そんな佐千代の目まぐるしい変化と共に生活する日々はあっという間に過ぎ、気づけば佐千代は二十六歳、俺が結婚した歳になる誕生日を目前にしていた。その事実を感慨深いものだと思った俺は、数年間平穏だったため心にゆとりがあったことも手伝って、初めて誰かに誕生日プレゼントというものを贈る気になった。しかし肝心の贈り物の中身はどうにも思い浮かばず、商品棚に陳列された物品に何ら魅力を見出だせなかった。無いならば作ってしまえばいい、というのが職人で、仮にも技術者として十五年仕事をしてきたから腕にも多少自信があった。まず市販されている無地のジッポをひとつ購入し、佐千代の初期の作品の内のひとつを元にしてジッポに彫りを入れ装飾を施した。蓋に佐千代の名前も刻んだそれは我ながらなかなかの出来で、誕生日当日の晩に贈ると俺の前ではそれまで一度も見せたことの無かった綺麗な笑顔を浮かべ装飾に見入っていた。思っていた以上の反応をされて今更ながら照れ臭くなり、特注で業者に作らせたと下らない嘘を吐いてしまったことは今でも心残りだ。俺にとってこの町に来て初めてかもしれない温たかな夜を終わらせたのは、ガンッという突然の大きな物音だった。驚き佐千代共々音のした方向を振り返ると、立ち上がった瑞姫の後ろに椅子が倒れていて蹴倒したことは明らかだった。

「去年までは誕生日プレゼントなんて用意していなかったじゃないの。お誕生会をするならすると予め言っておいてくれたらよかったのに。私は何も用意してないからね」

 求められてもいない言い訳を早口で捲し立て、そそくさと椅子も直さず自室に引きこもってしまった。俺も佐千代もその態度に幻滅し、どうせ朝になれば出てくるだろうと放っておいた。

 翌日、使用人が朝食の準備が整ったことを伝えに瑞姫の部屋の戸をノックしたが返事がなく、仕方なしに中に入ってみたところ悲惨な光景が出迎えた。瑞姫は部屋の真ん中で首を吊って死んでいた。四十三歳という若さだった。テーブルの上には遺書が残されており、何故このような結末に至ったのかということが記されていた。それによると理由は主に二つあり、ひとつは町人らの「瑞姫は子供の頃から出来損ないで抜けたところのある子だとは思っていたけれど、高宮の坊っちゃんを誑かして金銭を得ようとするほど見下げた女になるなんて。自分を恥ずかしいとは思わないのか。親が親なら娘も娘で、もういい歳なのにいつまでも親の脛をかじるどころか絵描きなんて遊び回って」という根も葉もない陰口を結婚してからずっと言われ続けていたことが耐えきれなかったということだった。俺はそんな噂話が出回っていたことなど全く知らなかったので心底驚いた。しかしそれ以上に驚いたことは、残るもうひとつの理由が実の娘である佐千代への嫉妬だったことだ。遺書の冒頭で、瑞姫は俺に対して謝罪している。何故かと言えば、俺と結婚したのは愛故でなく佐千代の才能を潰さずに済むための金銭が欲しかったためだったことをひた隠しにしていたからだ。あのロマンチスト女がそんな母親らしいことを考えていたのかと意外性は大きかったが、然して怒りは沸かなかった。俺自身瑞姫を愛していなかったのだからおあいこだし、寧ろ愛なんて重たい感情を押し付けられていなかったのだとわかってほっとしたくらいだ。さてここで何故その愛娘に嫉妬などするのかという疑問が生じるわけだが、これに関しては少々要領を得ず、文面から読み取ることが困難であった。だが何とか読み取れることを元にして推論を交えて言えば、ずっと頼れる相手もおらず独り娘のために犠牲になり続けていたというのに当の本人はそのことに感謝するどころか傷ついたような顔をして、挙げ句の果てに本来瑞姫が一俊から受けとるべき愛情をその一身に浴びていたから、といったところだ。

 我が子のために行動し死を選ぶに至ったその姿は、行動の内容や意志の強さにこそ大きな違いはあるものの、もう乗り越えられていたとばかり思っていた実母の死を嫌でも思い出させた。それに伴って彼季を死へ追いやった元凶やこの町で過ごした苦しい日々を芋蔓式に連想させると同時に、今では自らがその一部となってしまったのだということを自覚した。抜けた夢見がちな女だったが、それでも佐千代にとっては欠けがえのないたった一人の母親だったわけで。親を失ったかつての自分と佐千代が重なり、その瞳越しに過去の自分の憎悪が見えた。


 *     *     *


 佐千代という存在そのものが過去をフラッシュバックさせるスイッチとなってしまったのは明白で、顔を会わせる度に全身の血液がさっと引いていくような、それでいて頭には血が上っているような、何とも形容しがたい感覚に襲われるようになった。同じ家に住んでいるのだから毎日行き逢ってしまうのは必然で、そうなるともう自分を制御できなかった。佐千代は俺の実母のことなど町で流れていた噂の範囲くらいでしか知らないわけで、光久が彼季を精神的に追い込んで殺したも同然だという俺だけが知っているのであろう真実など到底知る由もなく、俺が変貌してしまった理由に見当違いな誤解をしているだろうと解っていたが、あえてそれを説明してやる気にはなれなかったししたところで理解してはもらえないだろうなと思った。母親を反面教師として育った聡い義娘は、触らぬ神に祟りなしとばかりに俺を避けるようになった。この段階で屋敷から解き放ってやればよかったと今になって思うが、当時の自分はそんなことを露とも考えなかった。きっと失うことが怖かったのだ佐千代を。せめてそのことだけでもちゃんと自覚出来ていれば良かったと心底思う。

 はっと気づけば目の前に痣だらけの佐千代が倒れているようになった。その度俺は慌てて抱き起こした。そのときの彼女の表情は、月日の流れと共に大きく変化していった。初めの数ヵ月は恐怖に怯えすぐに俺から距離をとろうとした。しばらくすると恐怖ではなく怒りを向けるようになり反撃を試みてきた。その段になってようやく佐千代を傷つけているのが理性を失った俺自身なのだと知り、佐千代の攻撃に対して抵抗する気は全く起こらずされるがままになった。華奢で体力もない佐千代の反撃はしかし直ぐに終わりを迎え、むくりと起き上がる頃には俺はまた理性を手放す。「綺麗だ」身体中につけられた傷や痣を見て呟くと、佐千代は奇怪なものを見るような目をし気味悪がった。

「画家佐千代に描かれたアートだろう」

 そう言葉を続けて、初めて意識的に佐千代を殴った。俺のつける痣はどれも醜く、穢されていく美の哀れさに涙した。瑞姫の一回忌を迎える頃にはもう佐千代は抵抗することをやめていて、人形のように常に無表情となっていた。もう俺を殴ろうとすることもなく彼女の人間らしき部分が唯一表れるのはキャンパスだけになった。異常でしかないその姿が、人間味を欠如させたその姿が、それでいて内側には生々しい豊かすぎる程の感情を秘めたその姿が、とても美しいと感じた。内圧と外圧の差に破裂してしまいそうな危うさに魅入った。ずっと鎖で繋いで、この禍々しい過去を塗り重ねた籠城の中で呼吸をして、この場の憎悪やら劣情やらで満たされた空気だけを吸い、真っ新な呼気を目一杯吐き出して浄化して欲しいと思った。

 佐千代と二人きりになってからの記憶はあまり無い。それはとても残念なことに思える一方で、寧ろそれで良かったのかもしれないとも思う。記憶が曖昧だからこそ綺麗な面だけ見られたのであって、全てを直視していたであろう佐千代の苦悩は計り知れなかった。現に佐千代の絵からは次第に暖色が消え失せ、寒色や黒をベースとした暗いものしか描かなくなった。その変化は俺に、彼女の中にあるものにすら触れられたという錯覚を起こさせ、更に魅了され暴力は悪化した。傷つけたいとは決して考えていなかったはずなのに、他にどうしたら佐千代との繋がりを感じられるのかがわからなくて結局痣を刻むしか出来なかった。

 そんな不器用な関係が始まってから六年、何の前触れもなく一通の手紙が俺と佐千代宛に連名で届いた。真っ青な顔でその白い封筒を差し出す使用人の様子から、何か良からぬ知らせかと身をこわばらせつつ差出人を確認すると『高宮宏樹』という懐かしい名が記されていた。指折り数えてみると、義弟が家を出てから実に十三年の月日が流れていた。今更何の用件があるのかと震える指先で封を切ると、中からはたった一枚の便箋が出てきた。そこに記された文字を見たとたん、俺は自室を飛び出して佐千代の部屋の戸を大きな音を立ててノックした。

「おい出てこいよ、宏樹から俺とお前宛に手紙が届いたんだ」

 すぐさま内側から扉が開いて、動揺を露にした佐千代が俺の手から手紙を引ったくるようにして奪った。高揚して頬をピンクに染めていたのから一転、傍目に見てわかるほど綺麗にさぁっと血の気が引いて唇まで白くなる。それもそのはず、今彼女が手にしているのは宏樹の結婚式への招待状だったのだ。目を通し終え膝から崩れ落ち項垂れた彼女の後頭部に向かって、笑いを堪えることなく問い掛けた。

「俺と一緒に出席しようか。そして一緒に、式をぶち壊してやろうよ。」

 ばっと佐千代が顔を上げ目が合った瞬間に、噛み切れそうな程強く強く唇に歯を立てて両目に涙を一杯に溜め俺を睨んだ。その様を見て、俺は更に顔をにやけて緩ませてしまった。嗚呼佐千代には血が通っている、そんな当たり前のことを馬鹿みたいに考えながら、ついにその薄い皮膚を歯が突き破り真っ赤な液体で濡れる様をじっと見ていた。

「この招待状、私が持っていてもいいかしら」

 ようやく咀嚼筋を弛緩させた佐千代は、力無い声でぽつりとそれだけ呟いて、俺の許諾を確認するとふらふらと自室に消えた。それ以来今まで以上に部屋に籠るようになり、佐千代の姿が見られるのは食事の時間だけになった。


 *     *     *


 デスクワーク中にふと顔を上げると、空がやけに紅かった。とても美しい夕焼けだ、と思ったが腕時計を確認すれば時刻は二十時過ぎ。幾ら夏とはいえ、日の入りには遅すぎる。偽りのものとわかってはいても、あれほど美しい夕焼けは後にも先にも見たことがない。次第に外が騒がしくなって、窓を開けると遠くに煙柱が上っているのが視認できた。日付は八月十五日、お盆で帰省している者も多かったから、きっと花火でもしようとして誰かがぼやを起こしたのだろうと然して気にも留めなかった。窓を閉めて再び仕事に集中しどれくらいが経過した頃だったろう、部屋の扉がノックされ、てっきり夕飯の支度ができたと呼びに来たのかと思ったら、使用人は青白い顔でおずおずと電話を渡してきた。

「警察の方からです」

 既視感に嫌な汗が背中をつうっと伝い落ちた。

「もしもしお電話代わりました、高宮一俊です」

「あれ、一俊さんですか、高宮佐千代さんはそちらにいらっしゃいますか」

「はい、ずっと家にいるはずですが」

 答えながら、最後に佐千代を見たのは何時であったか考える。昼食のときにはいたはずだ、でもそれからもう七時間以上経っている、でも監視だってつけているし万が一外に出ていたとして町で佐千代を見かけた者がいたら連絡が来る手はずになっている。

「ご在宅でしたら、佐千代さんにお電話を変わっていただいてもよろしいですか。先程の方にも佐千代さんの方に代わって欲しいとお願いしたはずなのですが、名前を聞き違えたんですかね」

 ショート寸前の思考回路でなんとか状況を飲み込もうと試みる。佐千代に代われと言われて俺に電話を渡してきた使用人、いつもより遅すぎる夕飯、佐千代が部屋を抜け出そうとしたら阻止し報告するようにと家中の者に命じてあって、だからこそ今佐千代は自室にいると俺は判断したのであって。皆まで考えつく前に身体が勝手に動いていた。ノックもせず佐千代の部屋に転げ込むと、電気すら点いていない無人の空間が出迎えた。

「嘘、だろ………」

 そこからの通話はあまり記憶に無い。現実を認めたくなくて見苦しい質問をたくさんしたが、それらは全て寧ろそれが現実であることを裏付けただけに終わった。警察が告げたのは、二十時半頃橋の袂で火事が起きていると近隣住民から通報があり現場に消防団が急行し消火活動に徹するも、夏場であったため覆い茂っていた草木に引火してなかなか鎮火には至らず、ようやく救助に入れた時には炎の中にいた二名の人物は共に既に絶命。遺体の損傷が激しく人物の特定が困難であったが、焼け跡から『高宮佐千代』と名の入ったジッポが発見されたため高宮家に連絡を入れるに至った。遺体を確認して欲しいので、今から病院に来られないか。そういった内容だった。ただ名入のジッポが見つかったというだけではないか、きっと以前に橋から落としてしまったんだ、だけど外に出るなという言いつけを破ってしまっていた手前、ジッポを無くしたことを言い出せなかったのだ、佐千代がいないのはきっと散歩中に落としてしまったジッポを探しに行っているんだ、言ってくれればまた作ってやったのに、嗚呼俺が作ったとは結局告げられないままになっていたっけ。―――指示された病院へ車で向かう間、祈る思いで人違いである可能性に縋り、逃避していた。

「損傷が激しいですが、大丈夫ですか」

 そんな確認を今更されても、被せられている覆いを退かしてみないことにはどうしょうもない。覚悟など到底できそうになかったから、深く考え出す前に一気に遺体を隠しているものを捲った。目の前に現れたのは、それが数刻前まで生命と意思を有し動いていたとは信じがたい程ヒトの原型から逸しているモノだった。酷い吐き気に襲わせるそんな形体になっても尚、何故だか理由はわからないが、それを美しいと感じる自分がそこにいた。それを自覚してしまったら、もう目の前に横たわっている骸骨にも成りきれていない哀れな人が佐千代であると認めざるを得なかった。

 鑑定の結果、現代技術によって高宮佐千代であることが確定され、更にもうひとつの遺体は宏樹であることが判明した。十三年間一度も姿を見せなかった男がどうしてこの町で佐千代と共に焼死体になっているのか理解に苦しみ、考えれば考えるほど佐千代を殺すために帰ってきたとしか思えなかった。それなのに警察は、犯行に用いられたのが佐千代の所有物であるジッポであったこと、宏樹は結婚を目前に控えておりプライベートでも仕事でも自殺を図る動機が無いのに対して、佐千代は軟禁状態にあり度々屋敷を抜け出してもいたことから現状を苦痛に感じていたことが窺えることを理由に、佐千代による無理心中と判断した。聞き込み捜査が終わって初めて、俺は佐千代が屋敷を抜け出していて、更に使用人たちがそれを黙認していたことを知った。かなり頻繁に外へ出ていたらしかったから町人も誰かしら目撃していてもおかしくないのに、俺が報告を受けたことは一度たりとも無く人間を誰一人として信用できなくなった。それは自分自身とて例外ではない。町に越してきてすぐ「高宮の名に恥じない人間になりこの御家に尽くそう」と決意したことなど今の今まで忘れ去り、寧ろバラバラに壊してしまったことを今更自覚し、自分という人間を激しく嫌悪した。そして宏樹が家を出てから十三年、高宮という名に圧力を感じなくなっていたのに一体何のためにこの家を守っていたのかと考えた。一人きりになった屋敷はしんと静まり返り、もうここには資産としての家しか無く、帰るべき場所としての家では無くなってしまったのだと気づく。毎日この家に帰ってきたいと思えたのは、ただ佐千代がいたからだった。きっと佐千代が大事だったのに。その気持ちを自覚することもなく傷つけ続け、壊した。

 声にならない叫びは無駄に広い屋敷に消えていく。嗚咽を堪えることも涙を拭うこともせず、電気すら点けていない月明かりのみが照らす廊下をふらふらさ迷う。脚に連れてこられたのは、彼女が亡くなったことがわかって以来ずっと俺が踏み入ることができなくなっていた佐千代の部屋だった。そっとドアノブに手をかけて深呼吸すると、懐かしい香りがした気がした。意を決して扉を開く。

「さ………ちよ……?」

 窓から射し込む月光が、人の背丈ほどもある何かを闇の中にぼんやり浮かび上がらせているのに気づき、鼓動が早まる。スイッチに手を伸ばし電灯を点けると、それは佐千代の夏がけ布団で覆い隠されていた。近づいていきそっと布を退けると、現れたのは一枚のキャンパス。

「これは………町」

 飛び込んできたのは画面一杯に散りばめられた久々に見る彩度の高い鮮やかな色、細部に目を向けるとその華やかな第一印象に反してどこか冷たさを感じる人工物。それでも絵全体としてはとても温かく、それはきっとタッチの優しさに満ちた雰囲気のためだった。初めそれは空想の世界の産物だと思っていたのだが、見れば見るほど建物が浮いているような違和感を感じて目を凝らすと、家屋や商店、工場に至るまで全ての人工物がこの町に実在するものだった。

 どれくらい時間が経ったろう。月は窓枠からとっくに逃げ去っていた。綺麗に整理整頓された部屋はつい数日前までここで一人の人間が生活していたと信じがたい程、生活感が無かった。死を前にして予め身辺整理をしておいたのかもしれない。だからこそ早々に、机の上にぽつんと乗った一通の手紙が目についた。

『一俊さんへ』

 この家に手紙を残して逝くならば宛先は俺だろうと思って手に取ったから、その文字にはあまり動揺せずに済んだ。封筒から便箋を抜き出し開くと、小花柄の便箋に達筆な文字が綴られていた。

『この手紙を一俊さんが読んでいるということは私は既に死んでいるのでしょうね、貴方の贈ったジッポで。一度くらいは泣いたのかしら、それとも涙すら枯れてしまったかしら。貴方はとても可哀想な人。自分の気持ちすら理解してあげられない哀れな人。貴方が私を愛していること、貴方よりも私の方がよく知っていたわ、でも生きている内は絶対に教えてあげない。そして死んだ今は絶対に秘めてあげない。ずっと傷つけられてきた仕返し、効果はどうかしら。これが思いつく中で一番貴方にダメージを与えられる戦略だったのだけれども、どうでしょう貴方は自身の痛みを痛みとして感じるだけの感性をまだ残しているのかしら。深層の貴方は今とても苦しんでいるはずなのだけれども、可哀想な人。誰にも、自分にすら理解してはもらえない。私にしか。その私ももうこの世にいない。可哀想な人。

 可哀想だからひとつプレゼントを用意したの、もう見たかしら最期の作品。本当はね、理想郷が描きたかったの。だけど私には無理だった、だって私、一度たりともこの忌々しい町を出たことがないのだもの。高校は知っての通り町外だったけれど、毎日校門前まで車で送り迎えしていただいていたから実際に降り立って見たことのある風景は此処しか無かったのだもの。私も大概哀れね。ずっとこの檻から抜け出したかった、でも出来なかった……いいえ、本当に抜け出そうと強く願っていたならば、宏樹のように外へ行くこともきっと出来たのでしょうね。結局臆病だったのよ、変わることを恐れていたの。自分が可哀想だと気づくことすら出来ない可哀想な貴方の傍で、貴方を憎み歪みながら可哀想な人のふりをしている日々に感覚が麻痺していくのが、止められなかった。わかるかしら、わからないでしょうね、自分のことすら理解し得ない貴方に私のことなんてわからないでしょう。それでいいの、私はもう死んだのだから精々自責の念にでも駆られて痛む自分の心をまずは理解しなさい。とことんまで痛めつけてあげたのだから。

 一俊さんが大嫌いでした、さようなら。佐千代』

 瞼の壊れた無表情な人形が、ようやく静かに目を閉じた。瞳が見えなくなったとき、ようやく過去の自分の幻影が消え彼女自身を見られた。初めて見る大人の人形は妖艶で美しく芸術品のようでありながら、想像していたよりもずっと幼く人間味に溢れていた。今会えたなら、きっとキャンパスを介さなくてもわかるのに。もう二度と目覚めない。もう二度と、その瞳に俺が映ることはない。


 *     *     *


 電車に乗るのなんて何年ぶりだろうか。ガタンゴトンと揺られながら抱える鞄の中には、贈られたキャンパス。長い回想も現在に帰着し、そっと目を開けて窓の外を眺める。目の前に広がる風景はまだ田んぼや山々の広がる然して珍しくもないのどかなものだったが、佐千代がこれを見ていたらどんな絵を描いたのだろうと想像すると、木々の緑と空の蒼がより鮮やかに見える気がした。


 ―――――fin.

ここまでお読みいただきありがとうございます。

この作品には続きがございます。

ぜひ次のお話もお読みいただけますと幸いです。

感想もお待ちしております。

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