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どうする?私 (転職一年目(社会人五年目)女子 @バー)

 昔から、好きになる人はいつも誰かの彼氏だった。


 略奪することに快感を覚えるわけではない。

 確率とタイミングの問題だけなのだ。

 素敵だと思う人は、他の人にとっても素敵な人だということ。

 素敵な人には彼女がいる確率が高い。

 彼女が途切れない人だっている。

 だから、知り合って好きになった相手に彼女がいるのはごく自然な成り行きだと思う。


 私は好きだという気持ちを抑えることが下手だ。

 できる限り一緒にいたいし、一緒にいたいと思われたい。

 そしてその人にとって可愛くありたい。


 相手にその気持ちがバレてしまって、結果私の気持ちに応えようとしてくれると、略奪という形になる。

 それだけのことだ。

 彼女がいるから好きになってはいけない、という理性で気持ちを止められるぐらいなら、それは本当には好きになっていないということだと思う。


 係長。

 今の私はどう見えていますか?

 私の気持ちに気づいていますか?

 私、係長のことが好きで、好きでたまりません。


 ナッツを口に放り込んだ係長は、横顔をじっと見つめる私の視線に気づいて少しうろたえた。


「どうかした?」

「あ、いえ。耳が……」

「耳?」

「係長って硬いものを食べると、耳が少しだけキュッと動くんですね」

「え?そうなの?」


 係長は左手で耳に触った。

 その薬指に銀色のリング。

 結界を張るように鈍く光る。


「気付いてなかったんですね。ナッツを食べるとピクピク動いて面白いです」

「えー。そうだったんだ。なんか、恥ずかしいな」


 照れた感じで係長はバーボンのロックをグビグビ飲んだ。


 私はこれ以上見つめるのは不躾だと思って、手元のグラスに視線を落とす。


 カシスオレンジ。

 私が飲めるのはこれぐらいだ。

 あまりお酒は強くない。

 もっと飲めたら、係長ももっと気軽に誘ってくれそうなのに。


「おかわりはどうしますか?」

「ちょっと、片桐さん。気を遣いすぎだよぉ。今日の忘年会は一年間頑張ってくれたみんなを俺がもてなす会なんだから」

「頑張るのは当たり前ですよ。係長の部下なんですから」


 見た目も話し方も雰囲気も、係長ことは全部好き。

 仕事をすれば係長に貢献できるから、やりがいがある。

 仕事に行くのが楽しみだなんて、自分でも驚いている。

 もっと難しい仕事ができるようになって係長に頼られたい。

 社会人五年目で、思い切って転職して本当に良かった。


「嬉しいこと言ってくれるなぁ。ほんと、うちに来てくれて助かってるよ。前の会社は大きな損失だろうけど」

「どうですかね」


 私は曖昧に小首を傾げた。

 同期の女子が飲み会に彼氏を連れてきて、後日その彼氏にグイグイ言い寄られ、仕方なく一度だけ一緒に食事をしたら、彼女からあれこれ責められ、何故か社内であることないこと噂が色々立ってしまって、居づらくなって辞めたなんて言いにくい。「同じものにしますね」


 私はバーテンダーに注文した。


「気が利くね」

「そうですか?学生時代にこういうところでバイトしてたんで、飲み物が少なくなると反射的に訊ねちゃうんです」

「へぇ。そうなんだ。片桐さんが働いてたら、その店人気出ただろうね」

「何でですか」

「だって、こんな可愛い子いたら、片桐さん目当てでお客さんいっぱい来ちゃうよ」

「そうですかねぇ。係長も来てくれました?」

「知ってたら、入り浸ってたよ」


 係長は楽しそうに新しいバーボンのロックを口に傾けた。「あれ?山岸ってどうしたっけ?」


「山岸さんは帰られたじゃないですか。明日はお子さんと動物園に行くからって」

「あー、そうだった。俺、酔っ払ってるな」


 係長は自嘲気味に笑って、腕時計を見た。「もう十一時半か。片桐さん、時間大丈夫?そろそろ帰ろっか」


「私は大丈夫です。一人暮らしだから誰も待ってませんし、明日から年末年始で十連休ですし」


 私はまだまだ余裕というアピールをする。

 何とかこの時間を延ばしたい。


「そう言えば一人暮らしだったね。でも電車のあるうちに」


 係長はバーボンをグッと一気に()()()()

 喉仏が二度三度と行ったり来たりする。


 もう帰るの?

 山岸さんが帰って、やっと二人きりになれたのに。

 飲めないお酒を気持ち悪くならないようにチビチビ飲んで頑張ったのに。

 これから酔いに身を任せて、この腕に甘えちゃおうと思っていたのに。

 明日から十日間も会えないのに。


 しかし、私の気持ちを知ってか知らずか、係長はサッサと会計を済ませて「行こうか」と立ち上がる。


「はぁい」


 私はしょぼくれた返事をした。

 緩慢な動きでコートを着てマフラーを巻く。

 寂しいよぅ。

 もっと一緒にいたいよぅ。


 係長は豪快にコートに袖を通して「ムフー」と酔った息を振りまいた。


 係長の足元がちょっと怪しい。

 大丈夫かな。


「ごちそうさまぁ」


 係長はバーテンダーに挨拶して私の前を歩いた。


 真後ろから見上げると身長が高い。

 百八十はあるだろう。


 係長が開いたドアから流れ込んできた冷たい空気が頬に当たる。

 寒い。

 係長の背中に抱きつきたい。


「あのぉ、係長。私の分のお金……」

「何、言ってんの。それより今日は最後まで付き合わせちゃって悪かったね」

「そんなことありません。ごちそうさまでした。またご一緒させてください」


 私は深々と頭を下げた。

 本当にお願いします。

 できれば明日もう一度忘年会をやりたいぐらいです。

 今年の出来事で忘れたいものなんて一つもありませんけれど。


「こちらこそ。来年もよろしくね」

「はい」


 係長は外階段に向かって歩く。


 私はその隣に寄り添った。

 外階段はぴったり二人分ぐらいの幅だ。

 並んで降りるにはくっつくしかない。

 ちょっと足元が怖いって感じで、ここで係長の腕にすがりながら降りる。

 それぐらい罰は当たらないだろう。


「うわっと」


 足を踏み外したのは係長の方だった。

 ぐらっと体がよろめいて私にぶつかるようにもたれかかる。


 私は係長に押される格好で手すりに左肘を打ち付けた。

 痛っ。

 と思ったときにはすぐ傍に係長の顔が体ごと迫ってくるのを視界の右端に捉えた。

 係長が階段から落ちる?

 支えないと、と思ったその刹那に私はありとあらゆることを考えた。


 私も一応お酒を飲んでいるから、酔った勢いと言えなくはない。

 係長はかなり飲んでいるから記憶はあやふやだろう。

 そして階段での不可抗力。

 係長までの距離。

 下手な動きさえしなければ事故という言い訳はつく。

 四方を確認したわけではないが、周囲に人影はなかったはず。

 千載一遇。

 明日から十日間会えない。

 このチャンスは逃せない。

 迷っている暇はない。

 えーい。


 私は係長に正対するように素早く体を右に向けて、その体を支える姿勢に入る。

 同時にぶつけた手すりからの反動という感じで係長の方へ体を寄せる。

 弾み。

 そう言える範囲内でキスまで持っていきたい。

 係長の唇はどこ?


 係長の左手が私の背後の手すりに伸びる。

 左手一本で姿勢を保持しようという判断か。


 振り仰ぐとドキッとするほど近くに係長の顔がある。

 が、想定よりもほんの少し係長の体が私の右側に流れている。

 三十センチもないぐらいで係長の唇と私の唇がすれ違う。


 無念。

 しかし、深追いは不自然。

 すでに自分の左手は係長の右の脇腹に触れている。

 支える格好で抱きつくことだけはできる。


 と思ったときに、今度は私の左足のパンプスが階段上で滑って流れた。


 あっ。


 ヤバいと思ったときには係長の右腕が私を抱きすくめていた。

 意外な力強さで私の体が係長に引き寄せられる。

 係長の顔とぶつかる。


 キスと言うには少々勢いがつき過ぎていた。

 唇の向こう側に歯の存在。

 頬に係長の鷲鼻が刺さった冷たい感触。


 これは事故?

 故意?


 ここは勝負どころだ。

 係長の胸にしがみついて上目遣いでもう一度キスをねだるか、サッと身を引いて、落ちるのを防いでもらった礼を言うか。

 どうする私。

 どうする?

 究極の展開を想定して、昨日、部屋の片づけはしておいたけれど。


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