ボイスドラマ『雨音の行間』
【タイトル】
雨音の行間
【登場人物】
女:篠塚 鈴(しのづか すず17歳)
ーーーーーー少女と言うには大人びた女(視線は常に前の風景とキャンパス。そして時折男を横目で見る。声は淡々とし、無遠慮な物言いとは相まって距離感は常に一定。近いようでずっと遠く。どこか冷めている。)リンは自分で付けたあだ名。
男:桐嶋 智鶴(きりしま ちづる31歳)
ーーーーーーおじさんと言うにはまだ若い男(無骨な第一印象とは違い、気さく。時折ぶっきらぼうな言い方や棘のあることを口にするが、どれも年相応に大人びていて他人との距離を正しく測ろうとしているところが窺える)
桐嶋 重三郎(きりしま しげさぶろう86歳)
ーーーーーー両親亡き智鶴の育て親。脳梗塞を繰り返し、検査入院中。
【コンセプト】
初対面で歳の離れた異性が雨宿りという些細な出来事をきっかけに距離を縮めていく、というような不思議な関係を描くための台本。消化不良な印象を受け手に与えられたら最高。そんな感じの話。
「!」がほぼ存在しない意味をしっかりと考えて頂ければ幸いです。
役者が受け取ったそのままで、好きに演じてください。
モノローグは難しいでしょうが、そこは研鑽あるのみ!ファイト〜!
【舞台・設定】
ジャンルは現実重視の日常。ファンタジー要素は皆無。
現代の日本。都内の雑居ビルが立ち並ぶとある狭い路地。
【本編】
【SE:雨音 (そんなに強くない。風はほぼ無風。でもしっかりと水溜りを作る程度には降っている)】
女「【M・Na】
ーーー通勤でごった返す駅の通路。
ーーー喧騒を撒き散らしながら行き交う車。
ーーー判然としない空模様に突き刺さる東京のシンボル。
ーーーそんな景色を反射する、まだ乾かない水溜まり。
小さかった頃の私はきっとこんな風景をなんとも思わなかっただろう。
反抗期を知ったばかりの私はようやく大人への階段を登り始めたのかもしれない。
肌に張り付く湿気も。
鼻につく雨の香りも。
ただの気象現象ではなくなる。
自身の感性に雨が染み込んでいくような、そんな言葉にし難い感情が胸の内を重くする。
『嗚呼』
どうせ今日も雨が降るんだろう。
ここ最近の不安定な空模様に予想を立て、
『今日はどうしようかな』
なんて、しれっと学校をサボる算段を立て始める。
夏にはまだ少し早い、そんな時期。
私は自分の居場所を探していたーーー」
【SE:軽自動車水を撥ねる。パイプ伝って地面に流れ出る雨水。雨が地面を叩く。(雨の環境音は常になっている)】
男「はぁ……はぁ……(小走りで駆け込んでくる。)」
女「…………」
男「………………」
女「おじさん、どっから走ってきたの?すんごい濡れてんじゃん。ウケるんですけど」
男「…………」
女「な〜ぁにぃ?もしかして無視ぃ〜?それとも、私が大きな独り言言ってるとか思っちゃってるわけ?」
男「…………」
女「わあ〜、やっぱ東京の人って冷たいなあ。ガン無視。ガン無視ですか?私とおじさんしか居ないのにこんなガン無視ってありますかね。そこんとこどうなんですかね、お・じ・さ・ん」
男「……っ」
女「ハイ目が合いましたー。で?なんでそんな濡れてんの。傘持ってないことを潔く諦めたんだったら雨宿りしてないでそのまま行けばいいっしょ」
男「やかましい奴だな」
女「なにそれ。私のこと言ってんの。傷付くわぁ。初対面のおじさんにいきなりやかましいとか。私泣いちゃうよ?泣かないけど」
男「どっちでもいいから、お前少し黙れ。……最近の学生ってこんなんなのか?」
女「黙れとか、う〜こわ。ここに駆け込んできたおじさんが私のことをずっとジロジロ見てた時から思ってたけどこわぁ〜」
男「あのなあ。人を勝手に不審者扱いするな。どんだけ失礼なんだよ。こっちからお前を警察に突き出してやろうか」
女「見てたことは否定しないんだ、エッチだなあ。流石はおじさん」
男「だからっ、……たくっ!先にいたお前がたまたま視界に入って、小学生がこんな昼間の時間に学校も行かず何してんだって思って見てたんだ。んで、よく見たら制服着てるし、ばっちりメイクしてるし、ぁあ高校生かそこらへんか?みたいに納得したんだよ」
女「通報だわ。もう警察沙汰だよおじさん。侮辱罪と名誉毀損で懲役確定だから」
男「そんなことで通報されてたまるか。第一、お前の偏見で判決を下すな。お前は裁判長かなんかなのか」
女「いや、どっからどう見てもうら若き今どきJkでしょ。ちょうどこのビルに眼科入ってるみたいだよ?行って来れば?」
男「くっ……侮辱罪と名誉毀損で訴えてやりたい」
女「大人が子供に本気になるもんじゃないですよ〜。ああそれと、お前じゃなくて私のことは“リン”って呼ぶように」
男「人のことを勝手におじさん呼ばわりしておいてからに。どうしたらそんな命令をさらっと言えるんだ」
女「おじさん、上着くらいは脱いだ方がいいんじゃない?さすがに風邪ひくよ」
男「…………」
女「なに、また無視?……まぁ、いいけど」
男「それ、さっきから何描いてんだ」
女「呼ばないんだ」
男「なにが?」
女「…………べーつに」
男「こんな狭い道の何を真剣に描くことがあるんだか」
女「私、しゅーちゅーしてるからー」
男「え、なんて?」
女「だから、独り言言うんだったら黙っててって言ってんの」
男「独り言の一つや二つ、別に構わないだろ。お前だってでかい独り言言ってただろ」
女「はー?あれはおじさんに話しかけてたの。私がわざわざ大きな声出して、心配してあげようとしたの。びしょ濡れのままだと風邪ひくよって。そう言ってあげようと思ったの。それくらい大人なんだから察しなさいよ」
男「生憎。俺には、お前の頭に虫が湧いて存在しない誰かに向かって喚いているんだとばかり思ってた」
女「なにそれ。私だっておじさんが脳みそイカれて雨に向かって話しかけてるのかと思った。手遅れにならないうちに救急車呼んであげるよ、おじさん」
男「ああ、それは結構だな。お前には人間ドック受けた後に礼を言うよ。お前には、な」
女「またお前って言った」
男「どこがおじさんなのか言ってみろ。何なら先に眼科行ってこい」
男・女「…………」
【雨脚が少し強くなり始める。】
女「会社、行かなくていいの?大人は働くもんでしょ?」
男「俺はてっきりJKってやつも学校に行くものだと思ってたが?」
男・女「………………」
女「独り言喋ってていいよ。雑音を発するのを許してあげる」
男「その物言いを高校で身に付けたんなら、今すぐ退学届を出すことを勧める。なんならイラストも一緒に添えたら100点だろ」
女「………………」
男「……どーした?やかましくすることを許可してやる」
女「………………」
男「黙ってちゃ相槌も打てねえだろ。…………。いいんじゃないか別に。何かを言いふらすような接点が俺たちにあるか?」
女「………」
男「あっそ」
男・女「………………」
女「私、そんなわかりやすいかな」
男「……。んや、わからん。おじさんは化粧しないからな」
女「してたらキモい」
男「うっせ」
女「ねえ。大人って楽しい?」
男「…………。さぁ、どうだろうな」
女「そっか」
男「おいこら。勝手に納得すんな。別にお前の質問を馬鹿にして答えたわけじゃねぇって。本気で分かんねえからそう答えたんだよ」
女「ふーん」
男「悪かったな。期待にそぐわなくて。それで?」
女「それで、って?」
男「だから、なんでそんな質問してきたのかってことだよ」
女「あ〜……そうだね。あはは。私も分かんないや」
男「大丈夫かよ、お前」
女「ごめんごめん。大丈夫、大丈夫」
男「ったく。分かりやすい奴だな、ほんと」
女「?」
【SE:鈴の音】
女「なに、これ」
男「よく分からん御守りだ。何に効くか知らんがお前にやるよ」
女「いや、いいよ」
男「なんで」
女「かわいくない」
男「……何でもかわいいを連呼するのが女子高生の特権じゃないのか」
女「どんな偏見よ、それ」
男「まあ、なんでもいいや。辛気臭い顔ばっかしてんじゃねえぞ」
女「え、おじさん何してんの」
男「午後から仕事なんだよ。おじさん、これでも大人だから」
女「でも、ほら、雨。ほんとに風邪引くよ」
男「地下鉄すぐそこだからこれぐらいなら平気だ。それじゃあな、リン。学校くらいちゃんと行けよ」
女「え?……あっ、ちょっと!おじさん、傘!……傘なら私、持ってるのに」
女【M】「星を象ったモチーフに小さな鈴が付いてるだけの、可愛くないストラップ。私はそれを持て余すようにして、しばらくの間立ち尽くしていた」
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【場面:大学病院前の門を越えた敷地内】
【SE:枯葉が小風に転がされる】
女【M】「雨季から夏を超えて、過ごしやすい乾いた風が町を駆け抜けていく時分。
私はまた小さなスケッチブックを片手に、何の変哲もない風景にペンを走らせていた。
あの雨の日に出逢ったずぶ濡れのおじさんとはあれ以来、一度も会っていない。今思い返せば、なぜ見ず知らずのおじさんにあんなことを聞いてしまったのか、後悔で死にそうになる。おじさんには相当頭のおかしい奴と思われていたに違いない。できれば二度と会いたくないと、薄情にも私は思ってしまっていた。
ーーーしかし」
男「お前、こんなところでも絵描いてんのか」
女「え、おじさん?」
女【M】「あっさりと意図せぬ再会を果たしてしまった」
【SE:病院内、足音の反響音】
女【M】「きりしま、じゅう……ざぶろう?」
【SE:スライドドアが開く】
男「じいちゃん、来たぞー」
女「……お邪魔しまーす……」
重三郎「おお、智鶴。いつもすまんなぁ」
男「着替え、ここ入れとくから。あと、隣の高原さんがお見舞いにって」
重三郎「参ったねこりゃ。まあた、こんなに貰っちまって」
男「じいちゃんのフルーツ好きは有名だかんな」
重三郎「んなこたいいんだよ。ぶっ倒れる度にこんなん貰ってちゃ申し訳が立たねえよ」
男「それだけ心配されてんだよ」
重三郎「智鶴、しっかりとお礼言ってあるだろうな。なんなら何かいい肉でも送っといてくれや。あそこは家族も多いからな」
男「大丈夫だよ。ちゃんとお礼もしてるし、心配しないようにじいちゃんの様子も言ってあるから。どうする?どれか食べる?」
重三郎「りんごからに決まってるべ。ほれ、そこの嬢ちゃん。なにいつまでも突っ立ってんだ。こっち来い」
女「えっ、あ、はい」
男「……やべ、忘れてた」
女「ひどっ!?」
重三郎「ほれ、この椅子使いな。こんなところに智鶴以外が来てくれるなんて、なんだ、嬉しいじゃねえの」
女「えと、わ、私っ」
重三郎「ちゃんと嬢ちゃんの分もな」
男「分かってるよ」
女「あ、あの、私」
重三郎「嬢ちゃん、ちゃんと食ってるか?最近の子は細くていけねえな。女ってのはやっぱーーー」
男「おいジジイ、何言い出すつもりだ。りんごやらんぞ」
重三郎「何って女の理想に決まってんだろ。それより早く持ってこい。嬢ちゃんが腹空かせてるだろ」
女「いえ、だから、私は」
男「もう出来っから急かすなって」
重三郎「茶はあるか」
男「リュックの中に水筒入ってる」
重三郎「嬢ちゃん、悪いね。紙コップしかないんだわ」
女「あの、私には、そんなお構いなく」
男「ほれ、どうぞ」
女「え、でも」
重三郎「遠慮なんていらねえよ。ほら、食った食った」
男「観念するんだな」
女「〜〜〜〜〜〜。はい、頂きます…………」
…………
……………………
………………………………
【SE:自動車の過ぎる音。枯葉がつられてカサカサと音を立てる。足音を付けるかは任せる】
男「悪かったな、付き合わせて」
女「私、まともに挨拶も出来なかったんですけど」
男「あれが昭和の年寄りだ。勘弁してやってくれ」
女「まぁ、いっぱいフルーツ食べさせてもらったし、文句ばっかは失礼だけどさぁ。私だってもっと普通にお喋りしたかったっていうか」
男「でも、じいちゃんすげえ喜んでた。お前に来てもらって良かったよ。ありがとな」
女「…………それは、どうも。こちらこそご馳走様でした」
男「ところでお前、病院に何か用でもあったのか」
女「私が?なんで?」
男「は?じゃ、何やってたんだよ」
女「え〜、なにおじさん。もしかしてJKに興味津々なの?やっば。やっぱり私最初から狙われてたんだわ。ごめんないさい無理です。お金くれたら訴えないでおいてあげます」
男「お前なぁ。そんなに喋れんだったらじいちゃんに圧倒されんなよな」
女「いや、あのおじいちゃん強すぎだから。ふつーに勝てないから」
男「年寄り相手にそんなこと思ってたのか」
女「じょーだんだよ、じょーだん。私こう見えても優しいから。ちゃんと心の中で労ってたから」
男「借りてきた猫よりも酷かったもんな」
女「……うぐっ」
男「まぁ、お前があそこに居た理由は言いたくないんなら別にいいけどさ」
女「なに、もう興味失せたの?早くない?もうちょっと頑張りなよ」
男「相変わらずやかましい奴だな」
女「何を言いますやら。私ほどお淑やかなJKは他にいないでしょ」
男「ふっ」
女「え、今鼻で笑った?」
男「んや、聞き間違いだろ」
女「うそ、絶対笑った」
男「笑ってない。ふふ、ほらな」
女「ああー、ムカつく〜〜。嫌な大人がここにいるっ」
男「何を仰いますやら。俺ほど紳士な大人は他にいないでしょうに」
女「私の真似!?それ、私の真似!?私、そんな言い方してなかった」
男「はいはい、分かったって」
女「顔がニヤついてるぞ」
男「前と違って随分はしゃぐじゃんか。あの御守り効果あったんだな」
女「ちょ、今その話する?ていうか、あれにそんな効果ない。絶対」
男「変なところで辛辣だな」
女「でも、そうだね。あれから結構経ったし。私だってうじうじばっかしてらんないよ。少しは歩かないとさ」
男「そんな風にさ。何かあっても結局は時間が解決してくれんだよ」
女「うわ、おやじクサ」
男「おい。そういうこと、お父さんとか高校の男教師に絶対に言うなよ」
女「言うわけないじゃん。思ってるだけで」
男「……こいつ、絶対言ってるな」
女「ねぇ、あのさ」
男「ん?」
女「……んらく、さき……おし……よ」
男「は?わるい、全然聞こえない」
女「だから、さ」
男「そういえばお前、地下鉄か?俺このまま降りちゃうけど。JRならそこまで送るぞ」
女「え……あ、うん。いいよ、送んなくて。大丈夫」
男「どした、急に」
女「なんでもない。じゃあねっ」
男「お、おう。今日は本当にありがとな。気ぃ付けてな」
女「……ぁ、……っ
【M】私はいったいどうしてしまったのだろう。何をまごついているのだろう。用があるならさっさと振り返って呼び止めればいいのに。
……なんで。
【M】そんな簡単なことができないのだろう。悩むことも。躊躇することも。立ち止まることも。もう辞めようと誓ったはずなのに。
…………わたし、情けないなぁ」
男「おい、ちょっと待て」
女「……はぁ」
男「リン!ちょっと止まってくれ!リンっ!」
女「えっ」
男「あぶねぇ。呼び止めて悪い。ほら、じいちゃんがお前の絵見たいって言ってたろ」
女「ぇ、なんで」
男「だから、じいちゃんに見せても良い絵を携帯に送っといて欲しいんだ。無理にとは言わないが、俺の連絡先に送ってくれるとありがたい」
女「ぁ……ああ、うん。そうだったね。ごめん、忘れてた」
男「お前どうかしたか?」
女「何にも。全然。ほら、後ろからいきなり大声で追いかけられて襲われるかと思ったとか、そんなこと思ってないし」
男「あのなあ」
女「はい。これでできたよ。スマホに送っとく。言っとくけど、SNSとかにアップしないでよ」
男「そこは俺を信用してもらうしかないな」
女「じゃあ、これで用は済んだでしょ。バイバイ。おじいちゃん、お大事にね」
男「待て待て。勝手に行こうとするな」
女「なんで着いてくんの」
男「駅前のスーパーに用があんだよ」
女「……ちづる」
男「?」
女「嘘つき」
男「は?なんだよ急に。ほら、さっさと行くぞ。補導されても知らないからな」
女「わあ〜やらしい」
男「なんでだよ!」
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【連絡アプリ】
【SE:ポップアップ音アリ】
女「JKの連絡先、ついにゲットしちゃったね〜」
男「うるさい」
女「やらしいことに使っちゃダメだからね」
男「黙れ」
女「あ〜でもでも。どうしてもって言うんなら考えなくもなくもないかなぁ」
男「やかましい」
女「その時は野球選手の年俸で手を打つよ」
男「寝ろ」
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男【M】「歳を重ねるごとに気温の変化が体にくると言うのは本当のようで、最低気温を更新するニュースが流れるたびに羽織る物が増えていく。
身を縮こまらせながら寒風に耐え忍ぶ。
かじかむ指先でスマホをタップし、実はもう気付いていないだけで遠に落ちてしまったのではと疑うほど感覚の無い耳に冷え切ったスマホを当てて、取引先に電話を掛ける。
営業先と商談して打ち合わせして会議して、自社に戻ってまた打ち合わせと会議。
あまり仕事に入れ込む方ではなかったが、忙しさに自分から頭を突っ込むようにして今は仕事に明け暮れていた。
町の喧騒も人混みも景色も空模様も。
確かにあったはずなのに、ふと思い返しても何も思い出せなかった。
ただ生活をするだけの日々。
それは単に考えたくないことがあったからで。
それは単純に気持ちが追いついていかなかったからで。
ただ俺は、逃げているだけなのかもと。
本当は内心で分かっていたりもした。
年明けの先月に、唯一の肉親であったじいちゃんが他界した後、パッタリと音信不通になっていたリンからメッセージが来た。
『久しぶりに会って話でもどう?』
確かそんな呼び出しだった」
女【M】「身体の奥底まで寒さが染み渡りそうなそんな日に、私はおじさんを呼び出した。
場所は初めて会った、あの雑居ビルの下。
もういつ雪が降ってもおかしくないそんな空の下に相変わらずの制服姿で現れたら、
『その足はダメだろ』
って、会ってすぐ小言を言われた。
おじさんはこれでもかってくらいの防寒着に身を包んでいて、私にはそれがおかしくて堪らなかった。
その後、当然のように理由を聞かれて、
私は『あの時に忘れ物をした』と答えた。
ハテナが返ってきちゃった」
男【M】「久々の再会に二、三、言葉を交わしてしばらく、彼女はあの時のように柱に背を預けて話し始めた。
もう少し無駄話を挟んでくるに違いないと思っていた俺は、その様子に肩透かしを食いながらも耳を傾けた。
内容はあの日のことから始まった。
学校をサボっていたこと。
ここで何の絵を描いていたのか。
駆け込んできた俺を本気で怖がっていたこと。
話し相手が出来て嬉しかったこと。
悩みを真剣に聞いてくれようとしたこと。
変なお守りを今でも大事に持っていること。
取り留めなく、とつとつと語られていく内容に俺は上手く相槌を打つことが出来なかった。
なんだかむず痒くて反応に困ったからだった」
女【M】「話し始めてから私は少しの後悔を胸の内に感じていた。
まとまりのないただの思い出話に、この人は口を挟まずに聞いてくれていたからだ。
あの雨の降る日もこの人は耳を逸らすことなく聞いてくれていた。
私があの時に全てを話していれば、いったいこの人はなんて答えてくれたのだろうか。
実は今でもちょっぴり考えたりする。
でも、それは“たられば”だ。
私は今からそれを口にするのだ。
大切な人を失ったばかりのこの人に更なる追い討ちを掛ける、そんな一言を。
智鶴が目を見開いて明らかに驚いた表情をした。
私は薄情にも“嬉しい”と思ってしまった」
男【M】「連絡先を交換したあの日以来、待ち合わせもしていないのに病院で彼女に会うことが多かったことに、少なからず疑問を抱いていた。
だが、じいちゃんへの見舞いもあって、こいつはきっと学校をサボる理由が欲しいだけなんじゃないかと勝手に思うことにしていた。
だから、今彼女の口から聞かされた言葉に驚きながら、頭の中でそうだったのかと酷く納得してしまった。
彼女は何も言うことのできないでいる俺を気遣うかの様にまた語り始める。
正直、その後に彼女が何を話していたのかあまり憶えていない。
俺は必死に平静を取り繕って今度こそ相槌を打っていた様な気がする。
変わらぬ姿勢で彼女を気遣い、病院まで見送ってきたのは確かだ。
だが。
『私の心臓、来月には止まっちゃうんだ』
そんな彼女の声がいつまでも頭に響いていた」
女【M】「私はてっきり根掘り葉掘り病気について聞かれると思っていた。
でも、何一つ聞かれなかった。
私でも分かるくらいの下手くそな相槌をあの人はずっと繰り返して。
普段から表情が豊かじゃない方なのに、無理に笑顔なんか作っちゃって。
私はやっぱり、後悔した。
『言わなきゃよかった』
あの人と別れるまで私は胸の中でその言葉をひたすら繰り返した。
だって、仕方なかったのだ。
私のことを惜しむ人が家族だけじゃ嫌だ、って。
爪痕を残したい、って。
そう思ってしまったのだから。
ごめんね、おじさん。
本当なら出逢うことも、再会することもなかったはずなのに。
おじさんはきっと、運が悪かったんだ」
男【M】「“心の整理”なんて体の良い言葉だ。
そんなの誤魔化して紛らわせてないまぜにしているに過ぎない。
その言葉を使うのは、初めから心を整理する気がないと言う証拠だ。
きっと世の中を上手く生きている奴というのはそれができる人間で、俺はそれが下手くそなのだと痛感する。
現に、最期に手渡されたスケッチブックを俺は一度も開いていない。
これを開くのが怖い。
『時間が解決してくれる』
かつて、そんな無責任な言葉をあの少女に吐いたことがあった。
何の資格があってそんなことをほざいたのか。
大人になることができない子供に、そんなことを軽々しく口にする俺は一体どう映っていたのだろうか。
その答えが描いてある気がしてならなかった。
『…………』
何度も吐いたため息が行き場を失って部屋の中に溜まっていく。
次の季節が否応なく迫ってきている中で、32の俺は身勝手にも途方もない時間を必要としていた」
了
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