2 一人の夜
結婚式後、王都から休憩をはさみながら二日かけてセルバンテス辺境伯領へたどり着いた。途中の街で一泊したが、彼とは別の部屋で……話した会話といえば『長旅だからしっかり休め』だけだ。彼の領地はとても田舎だが、自然がいっぱいで空気が気持ちが良い。そして家は要塞のように立派で大きな城だった。華やかさはないが強そうだ。
「すごいです……大きなお家」
私はポカンと口を開いて、城を見上げた。
「……田舎だから土地が余ってるだけだ。気にするな」
エルベルト様はそう言って、家の中に入って行った。馬車から降りる時はエスコートをしてくださったが、すぐに手を離された。
「奥様、お待ちしておりました」
使用人の皆さんはとても優しく、私のことを歓迎してくださって嬉しかった。
「初めまして。私はノエルと申します。奥様付きの侍女になりましたので、何なりとお申し付けくださいね」
ニッコリと笑う優しい彼女とはすぐに打ち解けた。エルベルト様の二つ年上で、昔からこの家に仕えているらしい。
本当は我が家からも侍女が付いてくると言ってくれたのだが、遠い辺境の地に連れて行くのはどうしても気が引けて私は一人でここに来ることを決めた。幼い頃から一緒にいた侍女とは泣く泣く別れてきたので、ノエルと仲良くなれて嬉しかった。
「奥様とてもお綺麗です。素敵ですよ」
この家に着いて初めての夜。きっと夫婦としての営みがあるだろうと、体を磨き上げ……可愛い夜着を着て寝室で待っていた。
緊張している私に「大丈夫です。旦那様にお任せ下さい」と微笑んでノエルは部屋を出て行った。
ドキドキと胸の鼓動が煩い。結婚した以上、そういう行為をするのは当然だというのはいくら子どもな私でもわかる。
「……俺だ。入ってもいいか?」
――来た!その声に身体が跳ねる程驚いたが、なるべく冷静を取り繕った。
「は、はい」
ガチャリと扉を開けて入ってきたのは、スラックスにガウンを羽織ったエルベルト様だった。鍛えあげられた胸元がチラチラと見えて、目のやり場に困る。
彼はベッドに座っている私をじーっと見下ろしているが、特に何も言ってくれない。穴が空くほど見つめ……いや、睨まれてとても気まずい。
私は何か変なのだろうか?この可愛い夜着が似合わないのかな。それとも好みじゃない……?
恋愛小説なら初夜の旦那様は「綺麗だよ」とか「素敵だ」とか甘い言葉を言ってくれるのに……と哀しく思った。
彼は無言のまま私の隣に腰掛け、そっと顎に手をかけた。ゆっくりと顔が近付き、ちゅっと触れるだけの口付けをされた。初めて出会った時と変わらず険しい顔なのに、キスは優しいのが意外だ。
しかしそのキスで私はガチガチに緊張し、身体が固まる。その瞬間、私は勢いよくベッドに押し倒された。
「ひゃっ……怖い」
私はついそう呟いてしまった。初めて知る男性の力強さに驚いたのだ。その言葉はハッキリと聞こえてしまったようで、エルベルト様は無表情のまま大きく目を見開いた。
彼は勢いよく私から離れ、ベッドに背を向け立ち上がった。私は自分が口走ったことに青ざめた。
「も、申し訳ありません。あの……初めてのことなので驚いて……しまい……お許しください」
震えた声を隠すことはできず、それでもなんとか声に出した。
「……ゆっくり休め」
そう言って彼はバタンと外に出て行ってしまった。広いベッドに一人取り残され、私は涙が出てきた。
その夜は泣き疲れたまま寝てしまい、翌日パンパンに腫れた瞼の私を見てノエルは一体旦那様と何があったのかと心配していた。そしてベッドの綺麗なままのシーツを見て……むしろ『何もなかった』から泣いていたのだと気付き、抱きしめてくれた。
「困った旦那様ですね。奥様は何も悪くありませんわ」
そう慰めてくれた。旦那様は今朝早く仕事に出掛けたらしく……しかも二日戻らないらしい。彼は新婚なはずなのに休みも取っていないようだ。私は仕事に行く彼を見送ることすら許されなかった。でもこの瞼の腫れた不細工な顔を見られなくて良かったと思った。
そして二日後に帰ってこられた日、私はエルベルト様を出迎えた。
「お仕事お疲れ様でした。お帰りなさいませ。この前は、お見送りができず申し訳ありませんでしたわ」
私は笑顔でニコリと微笑んでみたが、彼は困ったような顔で私を見ていた。
「……帰った。この二日間何も不自由はなかったか?」
「はい。みんな良くしてくださっています」
「……そうか」
それだけで会話が終わってしまった。気まずい。彼は着替えてくると自室に入って行った。
それから、初めて夕食を一緒に食べることになった。ここの料理は美味しいが、とても豪快だ。お野菜もゴロゴロしているし、お肉もお魚もすごく分厚い。
エルベルト様は綺麗な所作であるものの、大きなお口でパクパクと食べ……吸い込まれるようにお皿の料理がなくなっていく。すごい。私は量を減らしてもらっているが、全く追いつかない。
もぐもぐと頑張って食べるが、彼はあっという間に食べ終わりジッと私を見つめている。私は緊張して、食べる手が止まった。
「……君は食べるのが遅いな」
「あ……申し訳ありません」
「別に謝らなくてよい」
低い声でぶっきらぼうにそう言って、フイッと目線を逸らしたままだが……そのまま席に座ってくれている。もしかして待っててくれてるのかな?でも気まずい。
「あ、あの。エルベルト様はお忙しいと思うので、私のことはお気になさらないでくださいませ」
そう言うと、彼はガタリと立ち上がった。私はその急な動きにビクリと震える。
「先に部屋に戻る」
そう言って彼はリビングを出て行った。はぁ……やっと肩の力が抜ける。一人になると気が楽になり、食事が美味しく感じた。
彼よりだいぶ時間がかかって食べ終えると、苺のデザートが出てきた。わあ、美味しそう。でも……エルベルト様は食べてなかったのに何故?
「旦那様が奥様は甘い物が好きではないかと、料理長にデザートを頼まれたのですよ」
「そうなのですか」
「はい」
食べると口の中に甘さが広がってとても美味しい。エルベルト様が、私を気にかけてくれたことを嬉しく思った。
しかし……それから何日経過しても夜に彼が夫婦の寝室に来ることはなかった。今日こそはあるかもしれないと期待して緊張しながら、可愛い夜着を着るのも虚しくなってきた。
「もう自分の部屋で寝ようかしら」
こんなに毎晩準備をしているのに、触れてもらえないなんて女として哀しすぎる。最初に拒否するようなことを言ったことは私が悪いが……彼は十歳も年上なのだから「怖くないから俺に任せておけ」くらいの台詞言えないものか。
それともエルベルト様には別の女がいるだろうか?だから、こんな子どもの私に触れるつもりがないとか?
私は翌日から夫婦の寝室には近付かず、自室で休むことに決めた。ノエルにそう告げると、すこし哀しそうな顔をしたが「わかりました」と私の部屋のベッドを整えてくれた。
エルベルト様からもそのことについて何も言われなかったので、この人はずっと私が夫婦の寝室で待っていたことすら知らないのかもしれないと腹がたった。
♢♢♢
しばらくすると、彼から色んな贈り物がされるようになった。美しいワンピースや宝石……そして豪華な花束など、いかにも女性が喜びそうな美しく華美な物ばかりだ。
私は戸惑ったが、それでもエルベルト様が考えて贈ってくれたのだと思うと嬉しかった。彼がくれたワンピースを身につけ、お礼を言おうと彼の部屋をノックしようとした時……私は知ってしまったのだ。
「またクリスティンに適当に見繕ってやってくれ」
「はい。王都から流行りの物を取り寄せますね」
「ああ、頼む」
彼は執事に私の贈り物を頼んでいた。そうか……これは私のことを想って送ってくれたものではなかったのだ。
考えてみれば当たり前だ。だってエルベルト様は私のことをなんて好きではないのだから。辺境伯の妻としてこれくらいのものは与えるべきであろう……という義務の贈り物だったのだ。
私は哀しくなってワンピースを脱ぎ捨てた。そしてこれ以降届いたプレゼントは開けることすらしなかった。
きっと執事やノエルからエルベルト様にはそのことは伝わっているはずだ。
「何か欲しい物はないのか?」
ある日、少し困った顔の彼からそう聞かれたから。
「ありません!あなた自身が選んでいない心のない贈り物など、私にとって何の意味もありませんから」
私はもう我慢の限界で、可愛げなくそう言い放ちぷいっと顔を背けた。エルベルト様は「……そうか」と小さく呟いた。
ああ、これでまた彼に嫌われたなと思ったがもういいやという気持ちだった。この家のみんなはとても優しくて気さくで大好きだ。妻の本来の役割を果たしていない私を虐げることもなく『女主人』としてちゃんと扱ってくれる。
でも……もうここにいるのは苦しい。両親に迷惑をかけるかもしれないが、家に帰りたい。このままここにいても、彼との間に後継など産まれない。
だって結婚からもう半年経過したのに、私はまだ乙女だ。それどころかキスも二回しかしていない。哀しい気持ちで今夜も一人自分の部屋で眠った。