魔女からの逃走は命がけ
宿の二階から飛び降りて、道を少し歩いただけの運動量だったが、俺の鼓動は激しく高鳴っていた。いつ後背から脅威の追っ手が来るのかわからないため、恐怖に戦いていたのだ。
宿の部屋には鍵をかけているが、どれほど足止めできるかはわからなかった。そもそも起床しない程度で、部屋の壁に穴を開けてしまうような奴である。さすがに宿屋のドアを魔法でぶっ放すほどの暴挙にでないとは信じたいが、どれほど時間稼ぎになるかは甚だ疑問だ。
俺がいなくなった宿で、どのような行動に彼女は出るだろうか。
頭の中でシュミュレーションしてみる。
彼女は七時になると、俺を起こすために部屋の前でノックを始めるだろう。
最初は優しく——段々と強く。部屋に誰もいないわけだから、当然アクションが返ってこない。恐らく狸寝入りをしていると踏んだミランダは、鍵を宿主に借りに行き、強引に起こそうと考えるだろう。ドアを開ける彼女。だがそこは、もぬけの殻になったベッドと、開け放たれた窓が視界に入り——
————勇者っ‼
気がつくと、俺は走り出していた。
脚にかつてないほどの力を入れ、全力疾走でグラリア王国の地を駆ける。すれ違う人に不審に思われるかもしれないが、もはや気にしてはいられなかった。
既に宿から結構な距離歩いてきているため、ミランダの声が聞こえてくるわけがない。
しかし、俺には確かに聞こえた。
憎悪と悲哀が入り交じったおぞましき魔女の言霊が。
捕まれば命はない。そう思わせてくれるだけの、畏怖の念が背後から迫ってくるのを俺は感じていた。大通りをただ真っ直ぐ走っていくだけでは危険かもしれない。見通しのよい通りで、万が一姿が見られてしまえば、正確無比に飛んでくる魔法を当てられて、ジエンドとなるからだ。
俺は細い道へと移動し、行き先を攪乱させる手段に出た。煉瓦造りの住宅街が密接している小道は、さながら迷路のようで入り組んでいた。脇目も振らず逃げることだけに集中し、住宅街を突っ走る俺。
ふと、背後に悪寒を感じ振り返る。
すると背後に漆黒の煙霧が立ち上っているのを確認した。蒸気のように登っていく黒い煙霧は、さながら悪魔が中空に浮かんでいるように見えた。
俺以外にも気がついた人がいるようで、そちらに視線を向けてアレは何だと驚愕している。ここからだと家々に阻まれて、何から発せられているのか目視ができないが、すぐに正体を悟った。
あれは間違いなくミランダの怒気による魔力の漏れだ。
魔法は感情によって威力が左右されやすい。
そして度を超した感情を持つと、本人の意思に関わらず、自身の魔力が外に漏れ出すことがあるのだ。
恐らく、俺が脱走したことにより、怒り沸騰し無意識に魔力を外部に発散させた。それが黒煙として現れ、立ち上らせているのだろう。
つまり彼女は、相当憤慨しているといって間違いなかった。発見されれば、即座に凶悪な魔法が飛んできてしまう。冗談でなく死んでしまうかもしれないという恐怖に、俺はさらに足を速めた。
——だが。
「行き止まりかよ!」
入り組んだ小道に入ったのは失敗だった。左右に住宅が並ぶ道は、前方にも建物が建ち並び俺の行方を阻んだ。大通りを通って逃げ続けることに恐怖を覚えてしまったため、悪手を打ってしまった。まだマップを把握しきれていないのに、適当に進むべきではなかったのだ。
背後を振り向くと、黒煙が徐々にこちらへ近づいているのが見えた。勘の鋭い彼女は、こちらの逃走ルートになんとなく予想がついているのかもしれない。
「くそっ!」
俺は左右前方に視界を巡らし、逃げ道がないか探った。
登れそうな場所はないか、細い道のようなものはないか、刹那の時間で見回していく。しかし、ぎっしりと詰め込まれたような住宅の建物は壁のように立ちはだかり、よじ登れそうな場所も、抜け道のようなものも見当たらなかった。
徐々に近づいて来る黒の煙霧。
ここで引き返すという愚行を犯せば、鉢合わせする可能性は十分にあり得た。
後ろに逃げる選択肢はない。引き返せば、間違いなくミランダと鉢合わせに合ってしまうからだ。
絶体絶命の状況に動悸が激しくなる俺。
完全な行き止まりで、後ろには引き返せない。
そんな中で、一軒の民家のドアが目についた。




