1話
長く伸びた前髪、汚れて黒くなった爪に、よれよれの汚いパジャマ。眼前の少女から微かに漂う悪臭にも二カ月もすれば慣れた。足の踏み場がなく、物が散乱しきっている、まるで暴れた後を連想させるこの部屋にも。
「ねえ、ちょっと疲れたから休憩していい?」
「いいよ」
「お茶持ってくる」
部屋の扉が音を立てて閉まる。パタパタとスリッパの音が遠ざかっていくのを確認した瞬間、僕は彼女の学習机の引き出しを勢いよく開けた。
机の中も部屋同様片付いておらず、プリント類が所狭しと無造作にぐちゃぐちゃに押し込められていた。一段目も二段目も、面白いほどにプリント類しかない。
溢れ返ったプリント類をかき分け、手がかりになりそうななにかを必死で探す。
ここじゃない。ここにもない。どこだ。どこにあるんだ。もしかして机の引き出しには何もないのか?なにか、なにかヒントになりそうなものは!彼女が部屋に戻って来る前に見つけ出さねば!
僕は一心不乱に引き出し中を開ける。
ないないない。何もない。
ならば棚は。クローゼットの中は!
「先生何してるの」
背後から楽しそうな、それでいて少し怒気を含んだ声がした。彼女がお盆にグラス二つと麦茶を乗せて、扉の前で突っ立っていた。
意図的に消したのか、階段を上って来る足音も、ドアノブを捻る音も聞こえなかった。
「もー何してるの。汚部屋がさらに汚部屋になったんですけど!」
勝手に赤の他人、ましてや異性の家庭教師に引き出しを漁られているのをものともせずに、彼女はお盆を机に乱暴に置くと、グラスに並々お茶を注ぎ、ぐびぐびと一気に飲み干した。
だいぶ喉が渇いていたようだ。動く喉は白い。
「で?なんかヒントは見つかったわけ?」
彼女、愛崎 愛は不機嫌さを隠さない声で椅子にどかりと座った。その様はまるで女王様が玉座に腰を掛けるかの如く堂々としていた。短パンからスラリと伸びる足はまぶしいほどに白く、長い。
「ま、いいけどね、別に。でもさ、机の引き出しに何かヒントなんてないよ」
プリントの山から、摘むように一枚だけ手に取ると、愛崎さんはそれをじっと見つめた。数学の小テストだった。
「それ、昨年の数学の小テストだよね?」
「そー。学校に行ってたときのやーつ」
愛崎さんはそのまま小テストをテキパキと織り始めた。何を織る気だろう。
「あ、そいやまだ今日のヒント出してなかったね。そうだなあ・・・今日のヒント!昨年!」
「それだけ?」
「それだけだよ」
愛崎さんは器用にテスト用紙を織り続ける。この子は足と同様、指も異様に細長くて白い。何故だか百合を連想させる。
「さっき、勝手に人の引き出しを漁って何かヒントを見つけようとしてたみたいだけど、ちょっとデリカシーないんじゃない?」
愛崎さんは紙ヒコーキを作っていたみたいだった。出来を見る限り意外と器用なようだ。
「どんな手をつかっても僕は君の出した問題に正解しなくちゃならないからね。それにルール上は問題はないはずだ」
「そうだね。先生は私の問いに必ず正解しないといけない。じゃないと」
先生の秘密バラしちゃうもんね。
愛崎さんの口角がいやらしく、陰湿に上がった。
愛崎さんは織った紙ヒコーキを僕に向かって投げた。至近距離から投げられた紙ヒコーキはポス、と力なく間抜けな音を出して僕にぶつかり墜落した。まるで僕の未来、あるいは彼女の未来を暗示しているかのようだった。
「じゃ、休憩終わり!勉強再開しよ!」
「・・・・そうだね」
僕は目の前にいる不登校の女子中学生に弱みを握られているのだった。
愛崎 愛と出会ったのは今年の四月のこと。
時給の高さ目当てで始めた家庭教師のアルバイトで僕と彼女は出会った。
娘が受験生の不登校児だということは前情報で聞いていた。
情緒が不安定気味で、高校進学を希望しているのかも不明だが、とりあえず勉強を見て欲しい。できるならメンタル面もサポートして欲しい、というのが僕への要望だった。
とりあえず顔合わせだけでもということで踏み入れた彼女の部屋は、カーテンはガムテープで固定され、光を一切通さず開かないようになっており、部屋中にある物は破壊され、洋服やゴミは乱雑しており、部屋は暴れた後を連想させるかの如く散らかっていた。
壁は何度も殴ったのか、穴が無数に開いており、ベッドからはバネが飛び出し、枕は引き裂かれ、鳥の羽が舞っていた。
暗く病んだ部屋。空気も光も時間も止まっているような空間だった。息をすることさえ許されないような、緊迫した部屋。いるだけで罪悪感がこみ上げてくるような、鬱屈とした部屋。
どう考えても普通ではなかった。ここまで娘を放置している家庭も、この空間も。
僕は絶句した。ここまで顕著に病んでいる部屋は見たことがなかった。
「愛。家庭教師の先生がお見えになったからあいさつしなさい」
黒で塗りつぶしたような部屋からは誰の声もしなかった。 本当にこんな部屋に人がいるかも疑わしかった。
「すみません、先生」
母親である女性は申し訳なさそうに、けれどそこには一切の感情を感じることが出来ない、上辺だけの謝罪をした。頭を深く下げる行為は生活習慣に組み込まれているかのように、慣れ親しんでいるようにも見えるくらい自然だった。
「ああ、いえ、大丈夫です。すみませんが少し娘さんと二人にしていただいてもいいですか?」
母親は分かりました、とだけ言うと、下の階へ音を立てず降りて行った。随分と、物わかりの良い母親だった。
僕は深呼吸をしてから扉を後ろ手で閉めて、暗闇を見据えた。
かろうじて見渡せていた部屋は、扉を完全に閉めれば深い闇しか存在しない。一切の光を遮断した部屋はまるで外界との接触を断たれた孤島のようだ。
孤島。
一人。
孤独。
これが女子中学生の部屋。本当に人がいるのかどうかわからないくらいの酷く荒れた暗い部屋。彼女の心の有り様を体現した空間。
僕はどうにかなってしまいそうな心に気付かないフリをして、今一度静かに深呼吸をした。それから闇の中にいるであろう少女に話しかける。
「初めまして。愛崎愛さん。僕は家庭教師の夢見時時久。これから君の家庭教師になる人です」
期待などしていなかった。口をきいてもらえるとも思っていなかったし、最悪暴れられるかもと思っていた。
もし、会話ができないような状態であればこの家庭でのバイトは断ろう。
そう思った矢先、キィと、なにかの扉が開く音が、暗い静寂に響いた。
僕はスマホのライトを音がした方向へと向けた。
そんなところにいたのか。
クローゼットから首だけ出した幽霊じみたなにかが、そこにはいた。
前髪は口元まで伸び切っており、顔は見えない。
暗いところから現れた彼女はまるでホラー映画の有名な幽霊を連想させた。こちらを警戒しているのか、顔は扉から覗かせてはいるが出てきてはくれない。
まさかこんなにも素直に出てきてくれるとは思わなかった。正直とても驚いた。
僕はこの機会を逃してはいけないと、目の前にいる幽霊とコミュニケーションを試みることにした。
相手は心を病んでいる女子中学生だ。慎重に、割れ物のように扱わねば。まずはこちらが動揺していることを向こうに悟らせたらダメだ。
クローゼット前に行き、彼女と目線を合わせて話す。まずはそこからだ。
僕は井戸、もといクローゼットの前まで行くことにした。
しかし、とにかく足の踏み場がないくらいに荒れている部屋だ。慎重に足の置き場を確保してから進まないと転びそうになる。
床には大量のごみ袋やもの、プリント類、衣服やカバンが散乱しているせいで、わずか数メートルの距離なのに、彼女のもとへ行くことが難しい。
やっとの思いでクローゼット前まで辿り着くと、僕は優しく、丁寧に彼女に話しかけた。
「こんにちは、愛崎 愛さん。お母さんから話は聞いてるよ。不登校なんだってね。いろんな不安はあると思うけど、今は学校によっては当日点のみを重要視した学校もあるみたいだし、この一年高校に受かるように頑張って勉強し・・・」
「ねえ、あなたってもしかして********?」
瞬間、ドクンと心臓がはねた。
彼女の言葉を聞いた瞬間、まるで氷の矢が刺さったかのように、身体中が一気に冷たくなった。
体が動かない。動かせない。まるで氷漬けだ。
今、彼女はなんて言った・・・?
「え・・・と・・・?」
唇が震えてうまく舌がまわらない。
「やっぱりそうだよね。だって、顔見たことあるもん。あなたの、顔。私知ってるよ」
心臓がうるさい。頭が熱い。不快。圧倒的ここにいたくないという居心地の悪さ。
どうして・・・なんでこの子があのことを・・・あの、事件のことを知っている・・・?
クローゼットからのそのそと出てきた彼女は嬉しそうに口元をほころばせた。まるで新しいおもちゃを見つけたかのような、無邪気な小さい子供のような笑み。
「な・・・どうして・・・君が・・・そのことを知っているの・・・?」
彼女は確信的に、にんまりと口の端をいやらしく、陰湿に上げた。
「ゲームしようよ」
「え…、?」
彼女はゆっくり、ゆっくりと、四つん這いで近寄ってくる。
恐怖が、近づく。
「私、不登校になった理由ってだれにも言ってないんだぁ。それをあなたが当ててみてよ」
「は?」
「もしハズレたらあなたの秘密をバラす」
「はぁ?!」
なにを言ってるんだこの子は…!
「もしあなたが私のこの問いに正解したら、だれにもあなたの秘密を口外しない。私がだれにも口外することなく死んであげる」
「ちょ…‼︎めちゃくちゃだ…‼︎」
「正解して私が死んであなたの秘密が守られるか、不正解で私が生きてあなたの秘密がバラされるかそれだけだよ」
それに、と嬉しそうに彼女は続ける。
あなたに拒否権なんてないんだよ。
これが僕と彼女の最悪な出会いだった。