対象者
「なぁなんか飲むものないか?」
それが男が家に入ってきた後に最初に言った言葉だった。
「ありませんよ。この家の中を見ればわかるでしょう?」
なんて図々しい奴なんだろ。そんなことを思いながら坂本尚弥はため息をつく。
なんでこんなやつをいれてしまったのだろう。
よれよれのフード付きのパーカーにボロボロのジーンズ。
更に彼はそのフードで頭を隠していた。
一見すればホームレスのような男。
それがドアの小さなのぞき穴から見た自分の家の前に立っているこいつの姿だった。
押してもスカッとした音しかならないインターホンを何度も押されてて、たまたまその妙な音が気になって見に行ったときに尚弥が見たものだった。
警察を呼べばよかった。尚弥も最初はそう思った。どう見ても不審者だ。
でも家には電話がない。
とすれば、彼が諦めて去ってくれるのを待つか、隣の部屋の人が警察を呼ぶのを待つしかなかった。
そんなどう見ても怪しげな男にもかかわらず、尚弥は彼を家に招き入れてしまっていた。
理由はわかっている。彼がドア越しに見せたもの。それが気になってしまったこと。
「これが欲しくないか?」
その言葉に釣られたのだ。
それを見てほしくないって言える人がいるならばその人はよっぽど恵まれた人なのだろう。
彼が見せたものは、紙の束。
ただの紙の束ではない。――それは日本銀行券という文字が入っている紙、さらに言えば10000円という文字と偉人の顔が印刷されている。
自分が知っている中で日本で流通してる紙として一番価値のあるものだった。
「水ぐらいはあんだろ? 一応俺は客だぞ?」
「どう見ても家に忍び込んだ泥棒にしか見えません。うちは水道代もケチってるんです。どうしても飲みたいんでしたら、歩いて3分ぐらいのところに公園があるんでそこで飲んできてきてください」
水道代をケチってるのは事実だ。
洗濯するのも週に一度ぐらい。お風呂もそれぐらいだ。しかも湯船の半分までと決まってる。
「飲水としてスーパーの水貯めてるだろ? そいつでいい」
男の言葉に尚弥は少し驚く。
でもその表情は見せないようにしてため息を相手に見せつけるかのようにわざと大きくついてから冷蔵庫を素早く開けて中のペットボトルを出す。
さっと閉めて、台所からコップを持ってきて中身を注ぐ。
「なんで知ってるんですか?」
「ぷはぁ! うめぇ。喉乾いてたら何でもうまいな。全くこいつが重いのがいけねぇ」
「質問に答えてください」
「ん? まぁいいじゃねぇか」
質問に答えるどころかやけに重そうなスポーツバッグを叩いてはぐらかしてくる男。やはりいれたのは間違いだった。とっとと帰ってもらおう。
尚弥はそう思って、テーブルの前でくつろぎ始めた男の向かいに座る。
服装もだが、顔もろくでもないと思った。
明らかにやつれた表情、目にはくま、無精ひげが伸びてて、爪も手入れされてない。
やはり彼はホームレスではないだろうか。
なら彼はなぜお金の束を持っているのか。自分に渡すぐらいならばその金を自らのために使えばいいのにと思ってしまう。
「――本物なんですか?」
「あ、これか? 本物だよ。本物の札束。1万円札が100枚の束。100万円だ」
尚弥は男がテーブルに置いた札束を触る。
これが100万円……。
慎重にゆっくりと怯えるようにその束に持ち上げる。
尚弥が自分の人生の中で初めて見る物体だった。
その中から一枚抜き出して、じっくりと眺める。
肌触りもだけれど、透かしがあるのかどうかなどの一般的な偽札の見分け方を覚えている範囲で実行していく。
自分の知ってる偽札に関する知識などほんのごく一部だったことが悔やまれた。
その範囲内で調べた限り、これは本物の1万円札。
更に数枚抜き出してみても新聞紙が挟んであるなど言うことはなく中身は変わらない。
つまり、おそらくではあるが本物の100万円分の1万円札の札束ということになる。
「納得いったかい? じゃあ、追加だ」
と男はスポーツバッグを開き、中から100万円分の札束をさらにまとめた束をテーブルの上においていく。
1つ、2つ……。
あっという間に、テーブルの上にはお金の山ができていた。
唖然とする尚弥を見て、男は笑みを浮かべこう告げた。
「好きなだけ調べな」
「いくらあるんですか……」
もはや調べる気すら失せてしまった尚弥は降参するかのように彼に問いかけた。
「3億」
もはやイメージが追いつかない額のお金がそこに存在した。
「さて、ここからが大事な話だ。――坂本尚弥。お前にはこの3億という金を手にするチャンスがあると言われたらどうする?」
「え……?」
目の前にある想像したことすら無い大金。
それが自分のものになる。
作り話にしてもあまりにも飛躍しすぎた話で、頭がついていかなかった。
――3億円。
それがあれば、何ができるのだろう。
ああ、少なくとも食べ物に困ることはないはずだ。
毎日お風呂に入っても怒られることはないだろう。
夜まで電気をつけていても怒られないだろう。
クラスメイトたちが持っている携帯や、新しい服を買ってもいいのだろうか。
もっと大きいテレビや、話題のテレビゲームを買ってもいいのだろうか。
この家からもっと広いところに引っ越すことはできるのだろうか?
いろんな考えが頭をよぎるがいまいちピンとくるものがなかった。
「3億円。今のお前にはこいつの価値がまだわからないかもしれない。これは普通の日本人の生涯所得。――一生に稼ぐ金よりも多い金額と思えばいい」
そう言われると、この3億円という金がいかにふざけているかが尚弥にも少しわかる。
それが自分のものになる?
ありえなさすぎる話ではないか。
「3億円の札束。――重さにして30kgだ。ほんと重いんだぜ? そう聞いたらもう少し俺をねぎらってくれてもいいはずだろ」
「僕に……、僕に何をしろっていうんですか?」
「ははっ。察しが良いな」
3億をただで自分に渡してくれるなど流石に尚弥とて思ってはいない。
であれば、自分に何かをしろということなのだろう。
だが自分に一般の日本人が一生で稼ぐような大金である3億に相当するような仕事ができるはずはない。
きっととんでもないことを言われるに違いない。
尚弥はそう覚悟していた。
男は、こほんとわざとらしく咳をした上で今までの飄々とした態度ではなく、丁寧な口調で尚弥の質問に答えた。
「坂本尚弥。おまえは【ライフ・ゲーム】の対象者として選ばれた。これから行うことになるその行動に対する見返りとしてお前に用意された報酬はこの3億円。お前の人生を変えるには十分すぎるほどの金だ」