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坂東太郎 短編集

上野異聞録 〜 冬、不忍池 〜

作者: 坂東太郎
掲載日:2019/01/25

【1】


 上野は歴史が残る街だ。

 路地裏では昭和後期の建物がいまも使われて、アメ横は戦後の闇市の面影のままに活気を見せる。

 そんな上野の中でも、上野恩賜公園にはいたるところに歴史が存在する。

 昭和、大正、明治、江戸。

 時代ごとに変遷しながら、変わることなく。


 上野東照宮の鳥居を越えて一人の男が振り返る。

 すっと頭を下げて神域にいとまを告げる。

 男はふらふらと体を揺らして歩き始めた。


「あんな事件が報道されたのに、動物園は今日も繁盛してるようで」


「不忍池と上野動物公園が結びついてないのかしら? 遠方から来る人ばかりだものね」


「さすがにわかってるだろ。それよりさ」


「なあに?」


「神域に入っても神域を出ても変わらないんだな」


「ふふ、いまさらじゃない」


 ぼそぼそと呟きながら、男が上野恩賜公園を歩く。

 東照宮から動物園入口の混雑を抜けて右に曲がる。


 男の歩みは遅い。

 背が高く線は細くひょろりと長いシルエットはウォーキングツリー(歩く枯れ木)のようだ。


 もちろん、上野の地に昼間から西洋の怪異(モンスター)が現れたわけではない。

 上野恩賜公園を歩いているのは二十歳前後の男だ。

 長い前髪が男の両目を隠す。


「不忍池で身元不明の死体が次々と見つかって、犯人はわかってない。気にしそうなものだけどなあ」


「上野は昔から『死』が溢れる地なのに、みんな気にしてないじゃない。それもいまさらね」


「え?」


「ほらやっぱり。現代人は暢気なんだから」


「……どういうこと?」


「自分で調べなさい、若人(わこうど)よ」


 公園内の細い道を下って、男は不忍池を見下ろした。

 事件が報道されたにも関わらず、池のほとりや弁天堂には観光客がいる。


「けど、お池は江戸の頃から殺生禁止で釣りだって駄目だったの。お池で死体が見つかるのは珍しいのだけれど」


「へえ、そんな昔から池があったんだ。やっぱり蓮は有名で?」


「そうよ、大名諸侯だって、寛永寺の下でお池の蓮を愛でたのよ? 知らなかった?」


「湯島側はあんまり来ないからなあ」


「もう、怠慢ね」


 上野恩賜公園が公園となる前から不忍池はこの地にあった。

 蓮が定着した時期は不明だが、江戸中期には観蓮会を行ったという記録がある。


 歴史を知らなかったらしい男は、横断歩道を渡って池のほとりに到着した。

 整備された遊歩道を歩く。

 池を右手に見ながら、弁天堂に続く参道を無視して湯島方面へ歩く。

 時おりぐるりと視線を巡らせる男は何を探しているのか。


 その目が止まった。

 男は足も視線もまっすぐに、池のそばのベンチに向かっていく。


 ベンチには一人の老人が座っていた。

 イーゼルに立てかけたキャンバスに、一心不乱に油絵の具を塗りつけている。

 指先が汚れても、ベンチと足元に敷いた新聞紙に薄紅が飛んでも気にした様子はない。

 鼻を刺すテレピン油の臭気のせいか、濃緑の作務衣に薄ピンクのジャンバーという老人の出で立ちのせいか、隣のベンチに人はいなかった。


 下町民族資料館の前で吹き鳴らされるトランペットが物哀しい。

 老人の孤独をくっきり(かたど)るようで。


 キャンバスには、水面に浮かぶ満開の蓮が描かれていた。

 目の前の蓮は枯れて、一面に茶色が広がっているのに。


「……まあ、いまの池を描くより楽しいか。画角は変わらないだろうし」


「この公園でその言葉、まるで藝大生みたいね」


「おい、俺はいちおう藝大生だぞ。建築だけど」


「辞めてしまえばいいのに。そちらには才能がなく、別の才能は明確なんだから」


「できないから辞めるって、大学はそういうものじゃないんだよ」


 わかってないなあと小さく頭を振りながら男は足を進める。

 ぼそぼそした声を耳にした者はいない。

 上野恩賜公園のこのあたりが混雑するのは、せいぜい春の桜や夏の蓮の頃だけだ。

 とあるアプリのおかげで一時期は弁天堂と参道に人が溢れたものだが、いまは落ち着いている。


「何を描いてらっしゃるんですか?」


「あン? なんだ兄ちゃん、俺ァ何も買わねえぞ?」


 べらんめえな、けれど明るくハキハキした声が響く。

 孤独な老人の輪郭が霧散する。


「押し売りじゃねェんだったら座れよ兄ちゃん。どうせ俺ァひまだからな」


 角が磨りきれたカバンから新しい古新聞を取り出して広げる。

 男——ひょろりとした若者は、少しためらってからベンチに座った。もとい、ベンチに敷かれた新聞紙の上に座った。


「夏の、蓮の盛りを描いてらっしゃるんですね」


「そりゃそうだろ兄ちゃん。誰が好き好んで墓標みてェな蓮を描くってンだ」


「墓標、ですか。そう言われるとそう見えてきます」


 茎は茶色く枯れているのにまっすぐ伸びて、垂れ下がった花托(かたく)をしなびた萼片(がくへん)が隠す。


 枯蓮。

 俳句では冬の季語となる、目に寂しい景色だ。


「墓標……最近、このあたりで身元不明の遺体が次々と見つかってますね」


 返事はない。

 老人は絵筆を一心に動かしている。


 絵画の中では無数の蓮が花開き、奥には弁天堂と、池の向こうの精養軒が描かれていた。

 華やかな夏の不忍池。

 池の手前、絵の中心は一人の女性だ。

 背はすっと伸びて、夏のはずなのにピンクのジャンバーを羽織っている。


「おう、下手の横好きなんだ、そんなじっくり見ンじゃねェよ」


「すみません。でも、いい絵ですね。上手い下手じゃなくて、想いが伝わってくる気がします」


「ハッ、言うじゃねェか兄ちゃん」


「ジャンバーが同じってことは、この女性は奥様ですか?」


「まァな。春に死んじまった連れ合いよ」


「……すみません、気がまわらずに」


「いいっていいって。よし兄ちゃん、申し訳ねェと思ったンならちょっと年寄りの繰り言を聞いてけや」


「はい。ぜひ、聞かせてください」



  *  *  *  *  *  *



「俺ァ商いをやっててな。まァ、親父から受け継いだ小せェ店だけどよ」


 枯蓮を前にした不忍池のベンチで、老人は絵筆を置いてぽつぽつ語り出した。


「アイツはよく働いてくれてなァ。俺ァ愛想が悪ィからよ、助けられてばッかだったな」


「すごく幸せなご夫婦だったんですね」


「ハッ、どうだか。俺ァ忙しくて何もしてやれなかったかンな。それでもアイツは『幸せだ』って言ってな、本音は知らねェけどよ」


 枯れ果てた蓮を見ながら、老人は蓮を見ていない。

 弁天堂も、奥の精養軒もその目に映っていない。眼前の景色は。


「もう一つの商売が忙しくて……まァ忙しいってのは言い訳だな。俺がちゃんと見てりゃ、あんなことにならなかったのによ。せめてもっと早く気づいてりゃ」


「あんなこと、ですか?」


「呆けちまったのよ。まァ歳だからしゃあねえと思ってたンだけどなあ」


「……それは」


「そのうち、どうやってたンだか夜中にふらっと抜け出すようになってなァ。そのたびに探しまわったもんよ。不思議なもんで、(わけ)ェ頃に行ったか過ごした場所にいることがほとんどだったなァ」


 老人は空虚な目で絵筆をとり、キャンバスを筆先で示した。

 筆の震えは歳か寒さか後悔か。


「もう一年ぐれェ経つのか。その日はちょうどここにアイツが立っててなあ」


「不忍池は、思い出の場所だったんですか?」


「……ずうっと昔な、俺とアイツが初めてデートしたンだよ。暑いってのに慣れねえ一張羅着て精養軒でメシ食って」


 筆が落ちた。

 トサッと足元の新聞紙が音を立てる。


「蓮が見頃だったかンな、ぐるっとお池を散歩して。『忍、忍べず、不忍池』なんて歌うように言ってよ。『でも不思議ですね、蓮が池の中を隠すのに、忍べないって』とか言ってたもンよ」


「ああ、不忍(しのばず)の文字を見たらそう思いますよね」


「一年前、探して探して、ここでやっと見つけたアイツはなァ、俺を見て言ったンだよ。『あら、どなたかしら?』って。たまんねェよなァ」


 水滴が落ちた。

 トッと新聞紙が音を立てる。


「手も体もすっかり冷たくなっててよ。お前は忍じゃねェんだ、忍んでどうすんだって言ってよ」


 トッ——トッ——と水音が続く。

 若者はじっとキャンバスを見つめる。


「そしたらアイツは我に返ったみたいでなァ。『私、もう、あなたと(あきな)いできなくなっちゃったわね』って笑ったンだよ。泣きながら」


「気丈な人だったんですね」


「そうだったなァ。いつだって背すじを伸ばしてよう、俺ァその立ち姿に惚れたようなもンだ。けどあン時は背中を丸めててな」


「それは、その、なんというか、お悔やみを」


「呆けがこんな辛えなんてな。だから俺ァ」


「あれ、でも一年前ってことは冬だったんじゃないですか? 絵は夏の不忍池ですよね?」


「死んだのはそのあとすぐ、春だかンな。俺ァ未練がましく蓮を描いてんのよ。アイツが見られなかった今年の蓮を。それになァ兄ちゃん」


 ガサッと音を立てて老人が座り直した。

 目に光が灯る。


「蓮は蓮華。極楽浄土に咲く花だかンな、アイツがあっちで楽しめるようにと思ってよ。俺ァ極楽にゃ行けねェからな」


 口元を歪めて老人は言った。

 線の細い若者は答えず、答えられず、ぐっと眉を寄せる。



「行き先は地獄って決まってるものね」



 老人と若者。

 二人が座る、二人しかいないベンチに、女性の声がした。



「奥様の言葉を借りるなら、『忍、偲んで、不忍池』かしら?」



 婀娜(あだ)っぽい、けれど稚気を含んだ声が。




【2】


 風が枯蓮を鳴らして、落ちた花托(かたく)がぼちゃっと水面を揺らした。


 ひょろ長い若者はきっと左肩のあたりを睨みつけ、顔を戻して横目で老人を窺う。


 老人は目を丸くして——



 笑った。



「ははっ、そうか、そういうことか兄ちゃん! こんな爺に声かけてくるなんて酔狂なヤツだ、なんて思ってたぜ!」


 誰もいないところから聞こえた声に、老人は合点がいったとばかりに笑う。

 ばんばんと若者の右肩を叩き、胸元に顔を近づけて覗き込むように見上げた。


 若者の左肩の上。

 女性の声がした、何もない空間を老人が見すえる。


「この感覚ァひさしぶりだ。兄ちゃん、憑かれてンな?」


「あら、私のことが見えるのかしら?」


「見えねェけど聞こえるぜ。それに、この感覚は初めてじゃねェんだよ」


「ふふ。さすが、地獄行きが約束された人は違うわね」


 寂しげな老人の姿はない。

 覇気にのけぞる若者をよそに会話は続く。


「俺に霊感はねェけどよ、仕事柄、いるかいねェかはわかる。それに——」


 虚空を見つめて老人は笑う。



「嬢ちゃんとは、俺が(わけ)ェ頃に会ってンな?」



 視線を移して、若者に微笑みかけた。


「ってことは兄ちゃんが今代の『墓守』か」


「代行です。俺は藝大生なんで。建築科の学生で『墓守』を継ぐ気はないんで」


「ハハッ! 昔ァ跡目争いもあったってのにな! 言うねえ兄ちゃん、悪くねェ、ああ、悪くねェな!」


 何がおかしいのか、老人はばしっと若者の胸を叩く。

 と、急に黙り込んだ。

 まとう空気がまた変わる。

 蓮の枯葉におおわれた不忍池を睨みつける。


「どうかしたんですか?」


「ん? ああ、仕事だ仕事。地獄行きを約束された爺が、ちょっくら道連れを増やしてやンだよ」


 キャンバスはそのままに、すっと立ち上がって池に近づく。

 かくしゃくとした歩みは歳を感じさせない。


 老人は池の上(、、、)に立った。


「……初めて見ました。本当に、人は水面に立てるんですね」


「ハッ、俺ァまだ()なのかねェ」


 ちゃぷっと水音がする。

 楽しげな老人の表情が変わった。


 嗤う。

 目を細めて、口を歪めて、三つの三日月が並ぶ凶相。


 濃緑の作務衣に薄ピンクのジャンバーで不忍池の水面に佇む老人は、まるで季節外れの蓮のようで。


 ——狂い蓮。


「あらあら。江戸の頃から、このお池は殺生禁止なのよ?」


「なァに、心配いらねェって。ここは不忍池。蓮の下に忍んでるヤツなんていねェんだよ」


 枯葉が擦れる音も水の音もなく、老人は蓮の上を歩く。


 冬といっても、ここは上野恩賜公園だ。

 トランペットを鳴らす奏者も、演奏を聴くカップルも、足早に通り過ぎるサラリーマンも、弁天堂に向かう観光客もいる。


 けれど誰も、不忍池を歩く老人を見ていない。

 老人がそこにいるのに、いないかのように。


「最近、ある集団が痴呆を発症させる薬を売りさばいているそうです。原材料はこの池に生える蓮の根だそうで」


 独り言のように漏らした若者の声に、老人がぴたりと足を止める。


「権力者がついたか、それともお金か。いずれにせよ、『墓守代行』としてどうにかしろって話が出てたんですよ」


 肩越しに、老人が若者を振り返った。


「しばらく好きにさせてくれや。ふざけたヤツらは俺が始末する。これは誰から頼まれたわけでもねェ、俺の仕事だかンな」


「復讐、ですか? 奥様に呆け薬が使われた仕返しに? 忍は、刃で己の心を殺して律するはずでは?」


 老人を止められると思ったわけではない。

 それでも、「極楽浄土には行けない」と口にした老人を慮って、若者は持ちかけた。

 あとはこちらに任せてくれないか、と。


 老人は口の端を持ち上げる。


「わかってねェな兄ちゃん。忍はな、任務のために刃で己の心を殺すんじゃねえ。心の上に刃を置いて、己の心で受けた任務をまっとうするのよ」


 細い蓮の枯れ茎を横切ると、老人の姿が消える。


「忍ヶ岡の最後の忍として、あとでちゃんと報告に行くからよ、兄ちゃん。いや——」


 ばちゃっと音がする。

 どこかで魚が跳ねたような、小さな水音。

 こぽこぽと、空気が弾ける音も。



「——上野鎮守府、徳川家墓所守代行殿」



 言葉を最後に音が消えた。

 いつの間にかトランペットの演奏も終わっている。

 満開の蓮が描かれたキャンバスがなければ、先ほどの会話も老人の存在も幻のようで。


「身元不明の遺体が次々に見つかるっていう、墓守サマの頭を悩ます問題は解決したみたいね」


「はあ。いいのかなあ、これで」


 一人ベンチに残った若者は虚空と会話する。

 老人が『憑かれてンな』と表現して見つめた、左肩の上の空間と。


「不忍池の蓮を描いてる爺ちゃんと思ったら、痴呆で亡くなった奥さんを偲んでて。あげく、忍だなんて」


 見えない存在の重さを感じたかのように、長身を丸めて肩を落とす。

 憑かれて初めて知った世界に疲れて。


「やっぱ俺に『墓守』は無理」


「あら? でも、知ったからにはいままで通りにはいかないわよ?」


「それなあ。祖父ちゃんも何考えてんだか」


「目指す道に才能がなく、別の才能が明確なんだもの。私、誰でもいいってわけじゃないのよ?」


 はいはいと軽く流しながら若者は立ち上がった。

 キャンバスに目を向ける。

 極楽浄土を彩る蓮の中、一人ぽつんとたたずむ女性を。



「『忍、忍べず、不忍池。偲びし忍、不忍を守る』、か」



 言い残して歩き出す。

 ふらふらと細長い体を揺らして、喧騒を求めるかのようにアメ横方面へ。



 上野は歴史が残る街だ。

 路地裏には昭和後期の建物がいまも使われて、アメ横は戦後の闇市の面影のままに活気を見せる。

 中でも上野恩賜公園には、歴史がいたるところに存在する。

 昭和、大正、明治、江戸。

 時代ごとに変遷しながら、変わることなく。


 歴史の影に眠る、語られぬ歴史もまた残る。

 上野の地に、人知れず。




(了)

短編連作として同シリーズを書くかもしれませんが、

このお話はこれで完結です。


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― 新着の感想 ―
[良い点] こういった、不思議さから怖さを感じさせ、さらに言葉にこめられた想いを考えさせてくれる物語。 良かったです。 彼のように見え感じる人が、公園内を歩いて他の場所にいる者たちの思いを知るオムニバ…
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