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セピア7 夏の幻

作者: 山本哲也

 それは、いつになく清々しい朝だった。

 亮太は未だかつてここまで気分良く終業式の朝を迎えた事などない。それは、断言できる。もっとも、今までだって終業式の朝が気分の悪いものや、気の進まないものであった例はない。それはいつでも待ち遠しいものだったからだ。だが、今まではその雲一つなく晴れ渡る青空のような清々しさに、いわば一筋の雲のように影を落とすものがあったのだ。

 その名を、成績という。

 今まではこの黒雲のおかげで、終業式の朝の喜びも半減…とまではいかないが、まぁ一割引くらいになってしまっていたのが、この度、亮太は高校入学以来初めてに近い点を、数学で修める事ができたのだ。

 といっても、ようやく平均点を少し上回っただけではあるのだが。

 それでも、今までの亮太からすればそれは『めざましい進歩』、と表現しても決して大げさではないだろう。中間テストの結果は芳しくなかった(というより、今まで通りだった)が、それでも2(悪い)以下にはならないでいてくれるに違いない。あわよくば、3(普通)になってくれるかもしれない。

 そんな期待すら抱いて目覚める事ができた朝は今回が初めてだった。

 しかも、いつも通りの遅刻ぎりぎりではなく、だ。

 期待に胸をふくらませながらベッドから起きると、カーテンを開け、空を見上げる。

 外は、今の亮太の心と同じくらい、清々しく晴れ渡っている。

 「…さて、と。飯にすっかな」

 早くも自己主張を始めたお腹をさすりながら、亮太は一人呟く。そして、ローテーブルの上においてあるカレーパンを電子レンジに放り込んだ。

 以前だったら典子が前の日に作った料理の残りなどを暖めて食べる事が多かったのだが(もちろん、その暇があれば、の話だが)、最近の典子は忙しいのか料理を作りに来る日が減りがちになり、また、来るのも亮太がバイトに出ている日ばかりに集中していた。それに、もともと典子はうっかり残しておいて傷んでしまったのにも気づかないまま亮太が食べてしまうのを恐れてか、夏場には翌日まで食べ物を残したがらない。

 「…あいつ、とうとう予備校にでも行き始めたのかな? 何も言ってなかったけど…」

 インスタントのカップスープをすすりつつ、温めたカレーパン、それにピーナッツバターのコッペパンを流し込みながら亮太は呟く。

 「…別に予備校行かなきゃなんないほどの成績じゃないだろうに…頑張り屋だからな、あいつ…」

 亮太はそう呟きながら、テレビをつけた。

 「おはようございます、レポーターの岡部です、今日はこちら、花火大会の会場にお邪魔しています…」

 テレビでは朝っぱらから脳天気な声でレポーターがまくし立てている。どうやら、どこかの花火大会の会場をレポートしているらしい。

 「花火大会か…」

 その様子をぼんやりと見ながら、亮太は呟く。

 そう言えば、この街の花火大会ももうすぐだ。

 …だからといって別にどうというわけではないのだが。

 もう二年くらいは花火大会に行ってない。昔は、花火そのものより夜店目当てで典子や、真吾達と行ったものだったのだが…。

 テレビではレポーターが朝っぱらだというのに甲高い声で毎年何万人の人が訪れ、今年もそれくらいの数が見込まれている、等と説明しながら、既に会場で場所取りをしている熱心な人達にインタビューしている。

 (部屋からも見ようと思えば見られるし、わざわざ人混みにまみれてもねぇ…)

 亮太の住む街の花火大会はテレビの取材が入るような大規模なものではないが、それでも毎年結構な人出になるのだ。今更、よほどの事がなければ行く気にならない。

 (余程の事…)

 ふと、ある考えが亮太の脳裏をよぎる。それだったら行っても良いかなと思うのだが…。

 (…ダメだよなぁ、やっぱり…)

 バカな事を考えるのはよそうと思いつつ、亮太はホッと溜め息をつく。

 だが、後にこの妄想を現実化する事になろうとは、神ならぬ亮太には知る由もなかったのだ。


 「安藤」

 「はい」

 「ん、まぁまぁだな」

 終業式も終わり、教室では岩淵先生が教壇のところで一人ずつ名前を呼び、通知票を手渡していた。しかも、コメント付きで。

 「片桐」

 「はい」

 「…俺がなんと言いたいか、分かってるだろうな?」

 真吾の通知票に目を通した先生が、真吾の方をじろりと睨みながら言う。

 「…『よく頑張った、感動した』、ですか?」

 「アホかっ! 『死ぬほど頑張れ』だっ!! アヒルばかりじゃないかっ!!」

 そう言いながら先生は真吾の頭を拳骨でグリグリとやった。アヒルとはどうやら「2」の事らしい。

 「いでで、痛いっスよ先生!」

 教室中が一時笑いに包まれる。先生は真吾を解放すると、気を取り直すようにネクタイの位置を直し、続ける。

 「ったく…。次、高瀬」

 「はい」

 そうしてどんどん順番が過ぎていき、とうとう亮太の番がやってきた。

 「次…武内」

 先生の声のトーンが突然、一段低くなる。それまで期待半分、不安半分でドキドキしながら順番を待っていた亮太の脳裏を嫌な予感がちらりとかすめる。

 ま、まさか…。

 やはり悪かったんだろうか。

 さっき、真吾の時には周りの人と一緒に笑ったが、こんな場所で成績を公表されたりしたら目も当てられない。特に、数学が悪かったりしたら…美雪に対して顔向けできない。

 「聞こえなかったか? 武内」

 暫く席でぼんやりしていたせいか、先生がもう一度呼んだ。

 「…は、はい」

 いささか緊張した面持ちで出ていく亮太。

 まさか、まさか…。

 「…」

 亮太が教卓の所へ行っても、先生は暫くの間ただ黙って通知票に見入っている。

 ややあって、先生は期待と不安が相半ばする亮太の顔を見上げた。

 「…あ、あの〜、何か…」

 「…」

 先生はそれでも厳しい顔をして黙っている。

 と、突然、破顔一笑、とまではいかないがその顔が和んだ。

 「めざましい進歩、とまでは行かないが、まぁよくやった。アヒルがいなくなったからな」

 そういいながら通知票を渡す。一学期の通知票なので(つまり、二年生になって最初の通知票なので)、先生が言っているのはそれ以前の、一年生の頃の成績を指して言っているのだろう。

 「やれば出来るじゃないか。次からもその調子でな。期待してるぞ」

 そう言って先生はぽんと亮太の背中を叩いた。

 「はは…」

 曖昧に笑って答えると、亮太は席に着く。

 なんだかたっぷり一日授業を受けた後のような疲労感と、嬉しさを感じながら。

 そうして全員に通知票を配り終わり、先生の「遊ぶなとは言わないが、遊びすぎるな、度を超すな」という訓辞が終わる頃、チャイムが鳴った。

 夏休みの始まりの合図だ。

 嬉しさにそわそわしながら挨拶をすますと、みんな、口々に成績の事やこれから始まる夏休みの事などを話しながら散っていく。

 「あ、綾瀬さん」

 そんな中、亮太は美雪を呼び止めた。

 「はい?」

 これから部活でもあるのか、自分の席で荷物をまとめていた美雪が振り返り、微笑む。

 「あの、この前はホントにどうもありがとう」

 「どういたしまして。でも、それについては試験が終わったときにも何度も言ってくれたじゃない。それに、あたしなんて大した事してないわ。武内君が頑張ったからよ」

 「そんな事ないよ。綾瀬さんの教え方がうまかったから、できたんだ。それに」

 「それに?」

 途中で口をつぐんだ亮太に、美雪が問いかける。

 「…なんだかホッとしちゃって。試験の方はまあまあだったけど、ほら、その前の試験も悪かったから、せっかく綾瀬さんに勉強教えてもらったのにやっぱり成績悪かったらどうしようかと思って」

 そういいながら亮太は晴れ晴れと微笑んだ。

 「まぁ、あたしってそんなに怖く見られてたんだ?」

 ちょっと拗ねたような声で美雪が言うと、亮太はあわてて弁解する。

 「い、いや、そういう意味じゃなくて…えと…」

 あわてふためく亮太に、美雪がぷっと吹き出す。

 「…ごめんなさい、冗談よ」

 一瞬きょとんとしていた亮太の表情が、とたんに照れ笑いに変わった。

 「びっくりしたなぁ…」

 「だって武内君、私の事怖いと思ってたんでしょ?」

 「そ、そんな事ないよ…」


 楽しそうに話している二人を、少し離れたところから見つめている者がいた。

 ほっそりとした身体つきに、肩に届くくらいの長さの髪。背丈は、美雪よりほんの少しばかり高いくらいの女子生徒。

 典子だ。

 いつになく親しげに会話している亮太と美雪を暫く見つめていた典子は、

 「…よかったね、亮太…」

 そう呟き、少し寂しげに微笑むと、そっとその場を後にする。

 楽しそうに話している二人には、その姿は映らなかった。

3


 それから、はや数日が過ぎようとしていた。夏休みが本格的に始まり、大学生のバイトが帰省などでいなくなっているため、亮太はほぼ毎日のように叔父のファミレスでのバイトにかり出されていて、一日がバイトだけで過ぎていく。そして、夜くたくたに疲れて部屋に帰ると、典子の作った料理だけが亮太の帰りを待っているのだ。

 (ホントに忙しいんだな…夏期講習かな…)

 料理と共に残されているメモに従い、料理を温め直しながら亮太は心の中で呟く。

 (…夏期講習か…)

 亮太のバイト先でも、亮太と同い年の何人かが夏期講習を理由に休んだりしている。亮太自身は別に行きたいとは思わなかったが、それでも自分の身近でも行っている人間がいると思うと何となく焦りを感じてしまうのだ。それも、典子のように成績優秀の方に入る人間が行っているとするなら、自分などはどうなってしまうのだろうか…。

 このままで、将来は…?

 そんな思いが頭をよぎる。


 無精髭を生やし、ぼろぼろの格好をしてやつれた亮太が必死に単語帳をめくりながら歩いていると、向こうに懐かしい後ろ姿が…。

 言わずと知れた美雪の後ろ姿だ。

 だがちょっと待った。その隣には、なんとさわやかお金持ちのお坊ちゃん大学生風の、柳井までいる。柳井の腕にはキラリと見るからに高そうな高級腕時計が光り、ついでに時折見せるキザったらしい笑顔の度に、キラリと歯まで光っている。

 「あの、綾瀬さん…」

 そう亮太が声をかけると、ぎょっとした表情で二人が振り返る。そして、道ばたの犬のフ○でも見るような顔をして、柳井が答えた。

 「なんだい、君は? ヒッピーに知り合いはいないぞ」

 いや俺が用があるのはおまえじゃなくて彼女の方…と言いたいところだったが、その当の美雪でさえ、薄気味悪そうな顔をして柳井の後ろに半ば隠れるようにしてこちらを見つめている。

 これは、亮太にはショックだった。

 柳井はともかく、美雪は以前と変わらずに接してくれるものと半ば決めつけていたのだ。

 「あ、あの…」

 言いかけて美雪の方に伸ばした亮太の手を、柳井がはたいた。

 「何だ失礼な! 美雪、こんな奴に構う事はない、行こう」

 「ええ…」

 美雪が頷く暇もあればこそ、柳井は美雪の手を取って道ばたに止めてあった真っ赤なポルシェに乗り込む。

 「あ、ちょっと…」

 だが、追いすがろうとした亮太の顔に排気ガスだけを吹きかけ、車はあっという間に見えなくなってしまっていた。


 「…」

 しばらく考え込んだ後、亮太はおもむろに受話器を取り上げた。


 「で? 何の用だって?」

 受話器の向こう側から、あくび混じりの眠そうな真吾の声が聞こえてきて、亮太をホッとさせた。

 少なくとも仲間が一人はいる。

 という、はなはだ後ろ向きな考えではあったが。

 「いや、別に…」

 ただ単に自分の様に遊び呆けている仲間が(それも似たような成績の)いる事が確認したかっただけなので、特に用などないのだ。しかし、この時間から寝ているとは、さすがに『趣味=昼寝』と自ら豪語するだけの事はある。ただ、昼寝と言うには少々遅いだろうが…。普段、真吾は一体何をやっているのだろうかと時々亮太は不思議に思う時がある。まさか、帰宅後ずっと寝ているわけではあるまいが…。

 「…なんだよ、ただ単に俺の睡眠の邪魔したかったのか? そういう奴は馬に蹴られるぞ…」

 …なんか違う気もするが。

 「いや、そろそろ祭りも近いだろ、だから一緒に行かないか、と思って…」

 とっさに、口から出任せを言う亮太。だが、言ってからしまったと思った。男同士でそんなところに行っても楽しかろうハズもない。少なくとも真吾なら、そう言うに決まってる。

 「…祭りぃ?」

 途端に、受話器の向こう側の真吾の声が一オクターブ跳ね上がった。

 「あ、いや、その…」

 口ごもる亮太に、

 「…いいぜ」

 というあっさりとした返事が返ってくる。

 「へ?」

 亮太は思わずコケそうになってしまう。

 「何だよ、おまえから誘ったんだろうが」

 受話器の向こうの真吾が、呆れたような声を出す。

 「そ、そりゃそうだけど…」

 「だけどな、一つ条件があるぜ。いいか…」

 「ええーっ!!」

 次の瞬間、その『条件』とやらを聞かされた亮太は二つの理由から思わず素っ頓狂な声を上げていた。

 一つは、それが自分の妄想とほぼ同じだった事。

 もう一つは、そのお膳立てを自分がやらなければならなかった事。

 「いてて…何だよ、そんなに驚くほどの事じゃないだろ」

 受話器を離しているのか、真吾の声は少し遠い。

 「で、でも…お、俺には言えないよ」

 「そりゃ正面切って言おうとするからだろ。その場の楽しい思いつきって感じでさらっと言えばいいじゃないか」

 「そんなのできるくらいなら苦労してないよ…そもそも俺、全然会う機会ないし…おまえから言ってくれよ」

 そんな事を言うなんて考えてみただけでもドキドキしてきてしまう位だ。とても『その場の楽しい思いつきって感じでさらっと』は言えそうにない。

 「ヤダ。そんなら俺は行かない。でもいいのか? これは仲良くなるチャンスだと思うけど? そういえば、柳井の奴もこの間そんな話を綾瀬としていたと思ったけどねぇ」

 亮太の脳裏に、先程のイメージがまざまざと浮かぶ。

 「…で、でも…」

 柳井に先を越されたりするのは悔しい。だが…ちょっと荷が重い。重すぎるのだ。

 「頼むよ、おまえから…」

 「ヤダね」

 即座に答えが返ってくる。

 「ケチ。男同士の友情はどうしたんだよ」

 「知るか。俺は綺麗な女の子の頼み事しか聞かん」

 まぁそう言うだろうとは思ったが。亮太は自分がその「条件」を実行しようとしているところを想像してみる。だが、とてもどうにもなりそうもなかった。

 「…そんな事言われてもなぁ…」

 亮太が渋っていると、

 「なら一つ、条件を緩和してやるよ。いいか…」

 と真吾が言ってくる。

 今度の条件なら、亮太にもどうにかできそうだった。

 そして、それだけの事に気が付かなかった自分が、少々情けなかった。

4


 受話器を置いた亮太はそのまま次の用件を済ましてしまおうかと、再び受話器を手に取るが、その時、視界にゲーム機と、買ったばかりのRPGが飛び込んできた。

 そのゲームは以前から発売を待ち望んでいたもので、お店の開店前から並んで発売日当日に買ったゲームだ。

 「…」

 暫くゲーム機を凝視する亮太。

 それから、おもむろに時計を見て考えを変えた。既に夜十一時近くになってしまっている。相手が相手なだけにそんなに気にする程の事ではないかも知れないが、他人の家に電話をするには少々遅い時間だ、という事にして自分を納得させる。

 「…明日にすっか」

 亮太は楽しげにそう呟くと、ゲーム機の電源を入れる。その後はゲームが亮太の心の全てを支配してしまい、当然ながら今やりかけていた用事の事など遙か意識の彼方に飛んでいってしまっていた。

 そして、翌日。

 昼過ぎに起き出した亮太は、夕べ(実際には、亮太が寝たのは既に『今朝』だったのだが)の続きとばかりに早速ゲーム機の電源を入れ、ゲームをしながら食事をし、ゲームをしながら着替えをし…と、たらたらとバイトに行く支度をしていた頃、ようやく夕べの用件を思い出した。だが、今からではゆっくり話している暇もない。慌ただしく机の上からルーズリーフを一枚持ってくると、太めのペンでそれに伝言を殴り書きしてローテーブルの上に放り出す。

 まぁ、これで通じるだろう。

 その点には、亮太にはほぼ確信があったのだ。

 ゲーム機の方を名残惜しげに見つめながら、亮太は部屋を後にした。


 それからはいつものようにめまぐるしく時が過ぎ、瞬く間に夜になっていく。

 これまたいつものように亮太が疲れて帰ってくると、今日は部屋で典子が待っていた。どうやら伝言が功を奏したようだ。

 そう、真吾の出した『条件』の相手は典子だったのだ。

 「…お帰り。ところで、どうしたの? こんな伝言残して」

 亮太が帰るなり、典子が立ち上がって『時間あったら今日は帰るまで待ってて 十時ぐらいには帰る』と汚い字で殴り書きされたメモを亮太に手渡した。そして、ボーダーのTシャツの上からエプロンをつけると、キッチンに向かう。ちなみに下は細身のジーンズだ。

 「あ、うん、実は…今度の夏祭り、一緒に行って欲しいんだ。…浴衣で」

 ゲーム機の電源を入れながら亮太が言うと、

 ガチャン

 という音が後ろから響いた。あわてて亮太が振り返ると、典子が驚いた表情でこちらを見つめている。

 「な、何だよ」

 「ち、ちょっと亮太、いきなりどうしたのよ? 亮太は…美雪の事が…」

 何を勘違いしたのか、典子は心なしか頬を染めていた。

 「え? あ、うん、だから、綾瀬さんはそっちから誘って欲しいんだよ。こっちは俺と真吾で行くから」

 典子が何をそんなに慌てているのか理解できず、きょとんとした顔で亮太が答える。

 「…あ、そうか…はは…あたしって馬鹿みたい」

 照れくさそうに引きつった笑顔でそう言いながらぺろっと舌を出すと、典子はご飯をよそった茶碗をローテーブルに置き、そそくさとキッチンに戻る。それから、次のおかずの盛りつけ用だろうか、慌ただしく冷蔵庫からタマネギを取り出すと、切り始めた。

 いつもはご飯をよそったときには他の物の支度は全部できているはずなのに、今日はずいぶん珍しい事もあるものだ。

 (予備校通いで疲れてんのかな…)

 「でも突然どうしたのよ、しかも浴衣なんて。このスケベ」

 タマネギを切るトントンという規則正しい音の合間に、典子が鼻声で言う。

 「べ、別に俺が言いだした訳じゃないよ。真吾が言い出したんだ」

 「…で、そそのかされた、と」

 「うるさいな〜。ほっとけ」

 きまりの悪い思いを誤魔化すように、亮太はテレビをつけ、コントローラーに手を伸ばしかけた瞬間…。

 「あ、ゲームはダメだからね。もうすぐできるから」

 ぴしゃりと典子に言われ、仕方なく亮太はぶつぶつ言いながら渋々手を引っ込める。

 程なくしてできあがってきた料理は、ご飯と豆腐のみそ汁、ほうれん草のおひたしにカジキの煮物、そして何故かタマネギとトマトのサラダという少々アンバランスな組み合わせだった。

 やはりどこかいつもの典子ではないようだ。

 「いただきまーす」

 そう呟いて食べようとした亮太は、ふとある事に気づいた。典子が自分の分の料理は用意していないのだ。そして、それを尋ねようとして典子を見た亮太はさらにぎょっとする事になった。

 典子がの目の周りがまるで泣きはらした後のように真っ赤になっていたのだ。

 「お、おい、どうしたんだよ?」

 「え? ああ、これ? 何でもないよ。ただ、タマネギ切ったから…」

 涙声でそう答えながら、照れくさいのか典子は微笑む。だが、心なしか亮太にはその微笑みが寂しげに感じたような気がしたのだが…。

 「ところでさ」

 何となく感じた気まずい思いを払拭するため、亮太は話題を変える。

 「何?」

 典子はしきりに目の下をこすっている。まだ涙が止まらないようだ。

 「いや、おまえさ、予備校、通ってるの?」

 「へ?」

 今度は典子がきょとんとする番だった。

 「だって最近何か忙しそうだろ? 前みたいに帰るまで待ってないしさ?」

 「べ、別にそういう訳じゃないけど。あたしだって他にも色々用事があるのよ」

 そう言うと、典子は時計を見て慌ただしく立ち上がった。

 「あ、ごめん亮太、あたし、そろそろ帰らないと。美雪の事は明日にでも聞いとくから」

 俯き加減でそれだけ言い残すと、典子はそそくさと帰っていく。

 「…変なの…」

 その後ろ姿を見送りながら、亮太はそう呟いていた。

5


 翌日もまた、バイトから帰った亮太を待っていたのは典子自身ではなく、彼女の作った料理と一枚のメモだった。

 料理の方はまだ暖かく、出来上がってからまだそう時間が経ってはいないようだ。

 メモには『美雪からはOKが出ました。相当驚いてたけどね。『浴衣』も亮太からの熱いリクエストって言っといたから。でも、亮太たちも浴衣にしてよ? あたしたち二人だけじゃ浮いちゃうから。』

 と書いてある。

 「むきーっ! だ、誰の熱いリクエストだーっ!!」

 そう叫びながら亮太はメモをくしゃくしゃに丸め、くずかごに放り込むと、食事を始めた。

 だが、その心は既に祭りの当日に、そして、美雪の浴衣姿へと想像(妄想?)力の翼をたくましく広げている…。


 ドーン

 ドドーン

 夜空に大輪の華が開き、そして消える。

 鈍く低い音は身体の心まで響き、心の琴線をも震わす。

 どこか遠くの方で観客たちが上げる歓声が打ち寄せる波音のように響いていたが、この辺りではそれもなく、夜空に輝いては消えていく儚い光の物語を、ただじっと、息を殺して見守っているのだ。

 亮太はそっと、夜空から隣に座っている美雪の方へ視線を移した。

 明滅する明かりが、彼女のなめらかな頬を、唇を、そして濡れたような瞳を一瞬輝かせ、そしてまた暗闇の中に沈める。

 二人はほとんどぴったりと寄り添うようにして座っていたので、亮太にはその息づかいまでもが聞こえてくるようだった。

 ゆっくりとした、静かで柔らかな息遣い。

 満足して亮太が視線を夜空の方に戻した時、美雪がそっと身体を寄せて来た。少しどぎまぎしながらも、亮太は美雪の身体にそっと手を回し、優しく引き寄せる。

 「武内君…」

 美雪が、うるんだ瞳をそっと閉じ、身体を預けた。

 亮太は美雪の少し開いた唇に自分の唇を重ね…。

 初めてのキスの味は、少々しょっぱかった。

 (…変なの…それに、綾瀬さんの唇、すべすべしてやたら柔らかくて、まるで豆腐みたいだし、おまけにずいぶん熱いな…)

 こんなもんなのか? と疑問を感じつつも、亮太は…。

 バシャッ!!

 「わぷっ!!」

 突然鼻からみそ汁が入ってきて、亮太の物思い(妄想とも言う)を破った。

 亮太はみそ汁のお椀に顔をつっこんでいたのだ。

 辺りを見回すと、あちこちに豆腐や油揚げが散らばり、みそ汁がこぼれてカーペットを汚している。

 「…」

 何とも言いようのない光景だ。

 一つ大きな溜め息をつくと、亮太は情けない気分でそれらを片づけ始めた。

 (妄想癖をどうにかしないと…)

 と思いながら。

6


 それから数日が過ぎ、いよいよ夏祭りの当日になった。

 夕方の六時を過ぎていたが、さすがに夏だ。まださほど暗くはなっておらず、昼間のようだ。だが、幸いな事に昼間の身体が溶け出してくるような暑さだけは影を潜め始めてくれている。

 着慣れない浴衣を着て、少々落ち着かない気分で待ち合わせ場所となっている駅の改札前に着いた亮太は、辺りをきょろきょろと見回す。辺りには何人もの浴衣姿の若い男女がいて、鮮やかな色の浴衣が辺りに華を添えていたのだ。そう言えば、駅に来るまでの間にも何人もの浴衣姿の男女が歩いていた。

 亮太としてもある程度予想していなかった事ではないが、ここまで数が多いとも思っていなかった。ただ、その中に紛れてしまうと自分の浴衣姿もさして目立たなくなり、そういう意味ではずいぶん気が楽にはなっていたのだが…。

 人混みの中にようやく真吾の頭を認め、そちらの方へ人をかき分けるようにして近づいていくと、そこには既に他の三人が待っていた。

 「あ、遅いぞー、亮太」

 亮太の姿に気づいた典子が頬をぷくっと膨らませて言う。だが、亮太は息を呑んでしまい咄嗟には何も反応できなかった。

 美雪と典子、どちらの浴衣姿もハッとさせるほど輝いて見えたのだ。

 美雪は、薄い紫の地に色鮮やかな青い朝顔の模様、そして藤色の帯。髪を上げた真っ白なうなじに残る後れ毛が、妙に色っぽい。

 典子は黄緑の地に赤い金魚の模様が大きく入り、オレンジ色の帯。そして、髪を後ろで帯と同色の幅広のリボンで緩くまとめている。

 「な、何よ、変な顔しちゃって。どうせ『馬子にも衣装』とか言いたいんでしょ」

 浴衣姿の二人を見つめたまま、ぽかんとしている亮太に、典子が少し恥ずかしそうに声をかけてくる。

 「い、いや、別に…」

 亮太には、吸い寄せられそうになる視線を意志の力で無理矢理そらし、そう答えるのがやっとだった。

 「おい亮太、しっかりしろよな、まだまだこれからだぜ?」

 寄ってきた真吾が、呆れたような声で囁く。

 「う、うるさいな」

 頬を赤く染め、俯いてそう答えながらも亮太の心臓はまだドキドキしていた。


 祭りの会場は、この前亮太が美雪と一緒に勉強した(というより、美雪に一方的に勉強を見てもらった、というのがより正確なところだが)図書館などのある公園に隣接する神社の境内周辺がメイン会場(夜店の建ち並んでいる辺りをメイン会場とすれば、だが)となっている。さすがに、鳥居の内側には夜店は出店できないようだ。

 公園は普通なら駅から歩いて五分程なのだが、慣れない下駄履きのためもあってかもう少しかかるようだ。始め、亮太はあまり気にせずにすたすたと歩いていたのだが、すぐに四人の一番後ろを歩いていた真吾に呼び止められ、何事かと戻ってみるといつも通りのくだらない会話の後にこっそりと『女性陣も俺たちも下駄なんだから下駄ずれしないためにもいつもよりゆっくり目に歩け』と言われ、なる程と思った。

 さすがというか何というか…亮太はそういうところに気が回らず、照れ臭さも手伝ってすたすたと歩いていってしまっていた自分が情けなくなってきてしまう。

 「ま、そんなに落ち込むなって。これも年の功って奴さ」

 そんな亮太の心の内を見透かしてか、真吾が亮太の肩をぽんぽんと叩きながら言った。 「何だよ、そりゃ」

 そんな話をしながらたらたらと人の流れに沿って歩いていくと、薄明かりの中、前方にこんもりと茂った木々が黒く沈んでいるのが見えてくる。その下の方では既にいくつもの夜店が煌々と明かりを照らし、焼きそばのソースの香ばしい香りや、たこ焼きの臭い、それからジュージューという焼きそばを作る音、夜店のおっちゃんの張り上げる声、子供たちの歓声、そしてそれらのバックに絶え間なく流れるお囃子の音…といったおなじみのものたちが飛び込んできて、いかにも『祭りだなぁ』という気分になってくる。

 急遽しつらえられた、裸電球の照らす狭い道を四人はゆっくりと歩いていった。道の両側にはおなじみの夜店が建ち並び、様々な音や、臭いや、嬌声の源となっている。そして、その間の道を、若いカップル、グループ、親子連れらしき人たち、おじいさんなどが肩も触れんばかりにして歩き、その間を浴衣や法被、あるいはランニング姿の小さな子供たちが目をきらきらと輝かせて走り抜けていく。

 四人は祭りそのものの雰囲気を楽しむかのようにしばし黙ったままゆっくりと歩いていた。

 普段の亮太だったらとっくにその辺の夜店でイカ焼きを買ったり、射的をやっている頃だろうが、今日は夜店には惹かれつつももっと別の方に注意が行っている。

 もちろん、すぐ側を歩いている典子達の方に、だ。

 「結構すごい人出なのね」

 美雪が感心したような声で呟く。亮太たちはともかく、美雪は初めてなのだ。

 隣を歩いていた典子が悪戯っぽく微笑んで応じた。

 「あ、さては美雪、美雪の住んでるところよりも田舎だと思って馬鹿にしてたでしょ?」

 「やだな、別にそんな事無いわよ。ただ、あたし、あんまりお祭りって行った事無かったの。だから、こういう純日本風の雰囲気って、いいなって思って…変かな?」

 辺りを見回しながら答えた美雪だったが、亮太達のきょとんとした表情に気づいて少し恥ずかしげに俯き、団扇で顔を隠す。

 「そ、そんな事ないよ」

 妙に力を込めて亮太が答えると、真吾も頷いてしみじみと言う。

 「うんうん。その浴衣姿は何とも言えないねぇ」

 「アホかっ!」

 バシッ!

 典子が巾着で慎吾の頭を叩く。

 「いってー。お前なー、せっかく綺麗な格好してんだからもう少しお淑やかにしたらどうだよ」

 「またそうやってからかう〜」

 頬をぷくっと膨らませ、典子が答える。

 「別に綺麗だって言ってるのはお世辞じゃないぜ。な、亮太?」

 「え? あ、う、うん。確かにいいと思うよ…」

 いつになく亮太がそう言うので、典子は頬を染めて恥ずかしそうに俯く。

 「そ、そんな…」

 亮太は続けた。

 「その凶暴な所さえなければ…イテッ!」

 そう言いかけた亮太を、みなまで言わせずに典子が叩いた。

 「放っといてよ、もう。行きましょ、美雪」

 美雪の手を取った典子は二人でどんどん進んでいく。

 近くの焼きそばの夜店からソースの焦げる良い香りが漂ってくる。そして、食欲をそそるジュージューという音も。美雪は立ち止まって大きく息を吸い込んで、それから他の人間がいる事を思い出したかのように恥ずかしそうに微笑んだ。

 「なんだかこういう雰囲気って懐かしい感じがして、うれしくて」

 ぐきゅるる…。

 その時、周り中の音を圧して、亮太のお腹が鳴った。あまりのタイミングに、四人ともしばし言葉を失い、立ちすくむ。

 それから、真吾が笑い始めた。美雪はまるで子供を見つめる母親のような表情でにっこりと微笑んでいる。

 「ちょっと亮太、止めてよね、恥ずかしいじゃない」

 典子が決まり悪そうにしながら言った。

 「う、うるさいな、俺に言うなよ」

 仏頂面で亮太は答える。一番決まり悪いのは亮太自身なのだ。

 「ま、ちょうど良いから食べようぜ」

 ひとしきり笑った真吾が、目に涙を浮かべて笑いながら言う。まだ笑われているのは大いに不本意だったが、その件に関しては大賛成だった。

7


 その後、四人が金魚すくいや、射的、輪投げの夜店などをのぞきつつ、ぶらぶらと道に沿って歩いていくと、前方の開けた場所に大きなテントが見えてくる。

 「へぇ、まだあるんだ」

 それを見て、亮太が感動した様子で呟いた。

 「何なの?」

 きょとんとした顔の美雪が、典子に尋ねる。

 「え? うん、お化け屋敷…みたいなもの、かな」

 「えっ…」

 その答えに、美雪は一瞬ぎょっとしたようだった。

 「? どうかした?」

 今度は典子がきょとんとして訊き返す。

 「う、ううん、何でもない」

 心なしか硬い表情でそう答える美雪。

 「今思うと大した物じゃ無いんだと思うけどね。昔入った時は怖かったな」

 テントの方を見やりつつ、典子は懐かしそうに言った。美雪はといえば、テントの方をこわごわ見つめている。

 「久しぶりに入ってみようぜ」

 同じくテントの方を見ていた真吾が、にやりと笑ってそう言った。

 「ええっ!?」

 美雪が素っ頓狂な声を出す。亮太がぎょっとして美雪の方を振り返ると、美雪は心なしか青ざめた顔をしている。

 これは、もしかして…。

 「…」

 典子が何か言おうとしたが、真吾の表情に何かを読みとったのか、そのまま黙ってしまう。

 典子はともかく、真吾も気づかないのか?

「でも…」

 不思議に思いながらも、亮太は口を開く。もし、亮太の思っている通りなら、止めた方が良さそうだ。

 だが、その後が続かなかった。

 「あ…いでーっ!!」

 「おっと、わりぃわりぃ」

 言いかけた亮太の足を真吾が思いっきり踏んで黙らせたのだ。

 むき出しの足を下駄で踏まれると、めちゃくちゃ痛い。

 亮太はしばらく声にならない悲鳴を上げてぴょんぴょん跳びはねる。

 「いや〜わりぃわりぃ、大丈夫か?」

 みんなと少し離れたところでしゃがみ込んで痛みをこらえる亮太のそばに真吾が寄ってきて、

 「バーカ、チャンスだろーが。余計な事言うなよ」

 と素早く耳打ちする。

 そういう事か。

 亮太は典子が何か言いかけて黙った訳をようやく理解した。

 しかし。

 (なにも思いっきり踏まなくてもなぁ…)

 目に涙を浮かべてじんじんと痺れるように続く痛みに耐えつつ、亮太は思う。

 それから暫くして、ようやく痛みから回復した亮太を加えた四人は、お化け屋敷に入る事になった。


 「ここは二人ずつじゃないと入れないんだ。最初は亮太と綾瀬、次は俺と典子でいいよな?」

 入り口の脇のところで真吾が言う。

 「え? 二人ずつなんて決まり…あったな、うん」

 途中まで言いかけた亮太は、典子と真吾が自分に向けている険悪な視線に気づき、慌てて誤魔化した。

 「はい、さっさと行った行った」

 半ば真吾たちに押し込まれるようにして、亮太と美雪はお化け屋敷の中に入る。

 (あれ? という事は…俺と綾瀬さんの二人っきり…?)

 ふとその事に気が付き、立ち止まろうとした亮太の背中を押しながら、

 「しっかり守ってあげなさいよ、亮太」

 そう、典子が耳元で囁いた。

 (あれ? 今の、どこかで…?)

 その台詞が、亮太には何故だか懐かしく感じられたのだ。

 だが、その事をよく考える間もないままに入場口に押し込まれてしまい、顔にべったりと血糊を付けて、ざんばら髪で白い着物を着たもぎりの男が笑顔で立っている。

 「お一人様三百円になります」

 そう言って手を出すと、男はにたっと笑った。美雪が亮太の浴衣の裾をぎゅっと握ったのが、感覚で分かる。

 もう怖がっているらしい。確かに、男自身は精一杯の愛想笑いを浮かべているつもりなのかも知れないが、その格好でやられても不気味なだけだ。

 「ど、どうも…」

 亮太はそそくさと入場料を払って中に入る。

 「ごゆっくりどうぞ〜」

 外から急に暗闇の中に入ったせいなのか、中はほとんど真っ暗だった。

 外の喧噪も、中ではどこか遠くから聞こえる音のように聞こえ、物寂しさと、不気味さを引き立ててさえいる。外にいるときはあれほどにぎやかなものに感じた祭囃子も、中に入った状態で聞くと何故か不気味な効果音にしか聞こえないのだ。

 二人が入ったすぐ後、入り口のカーテンがぴったりと閉じられると、美雪はびくっとして振り返り、思わず後ずさってしまう。だがすぐそばには亮太が立っていたため、亮太にぶつかる事になり、さらに驚いた美雪は

 「きゃっ!」

 と短く悲鳴を上げた。

 「だ、大丈夫? 綾瀬さん?」

 「え、ええ…」

 暗くて表情まではよく見えないものの、弱々しく、明らかに怯えた調子の声だ。

 「だ、大丈夫だよ、そんなに怖いもんじゃないから…」

 そう励まして進もうとすると、

 ぽうっ

 と目の前に火のついたろうそくが浮かび上がる。いや、よく見るとろうそくの形をした台だ。ちょうど火にあたる部分が電球になっているのだ。

 「!」

 再び、側で美雪が息を呑むのが聞こえる。

 「だ、大丈夫?」

 まだ一歩くらいしか進んでいないのだ。さすがに亮太も心配になってきてしまう。

 「…ええ…」

 美雪からの答えはさっきよりさらに弱々しいものになっていた。

 (チャンスだ! さぁ!!)

 亮太の頭の中で、何かが囁く。

 (ち、チャンスって…)

 戸惑う亮太の腕に、亮太の浴衣の袖をぎゅっと握っている美雪の手がぶつかる。

 「あ、ご、ごめんなさい…」

 そう言いながらも、美雪は手を放さない。怖くて放せないようだ。

 ゴクリ。

 亮太は唾を飲み込む。

 「あー…ゴホンゴホン」

 決死の思いで声を出してみたが、裏返ってしまっていて妙に甲高い声だったので慌てて咳で誤魔化す。

 「…だ、大丈夫? 武内君?」

 怯えた声ながらも亮太の事を気遣ってくれているらしい。

 …健気だ。そんな美雪の弱みを突いている自分に、亮太は罪悪感を感じてしまう。

 「だ、大丈夫…えー、あ、あの…」

 そこまで言ってから、亮太はもう一度深呼吸した。

 「…手、握ろうか?」

 耳まで真っ赤にしながらも、亮太はようやく囁くような声でそう尋ねる事に成功する。

 「‥‥‥はい…」

 消え入りそうな声で美雪が答えた。

 「じゃ…」

 暗闇の中、手探りで美雪の手に触れると、美雪の方からぎゅっと握り返してくる。よほど怖かったらしい。

 二人は手をつないで一歩ずつ、歩き出していく。その一歩毎にろうそくを模した電灯がぽうっと不気味で頼りない光を二人に投げかけるのだ。

 (そう言えば前に来た時もこんな感じだったな…)

 ふと、亮太はずっと昔に典子と入った時の事を思い出す。

 その頃、二人はまだ小学生になりたての頃で…。

8


 「りょ、亮太ぁ」

 水色のワンピース姿の典子が、目に涙を一杯浮かべて法被姿の亮太にしがみつく。

 「だ、大丈夫、お化けなんか怖くないよ。お、俺が典子守るから」

 そう言う亮太自身ももちろん怖くて仕方がなかったのだが、そんなところを見せるわけにもいかない。ただ、足が震え出したりしないように、一生懸命こらえ、典子をかばうようにして一歩ずつ進んでいった。

 その一歩ごとに、ろうそく(を模した電灯)が灯り、行く先を不気味に照らしていく。

 どこからかひそひそ話す話し声が聞こえてきたり、笑い声がくすくすと聞こえてくる。その度に、典子はぎゅっと亮太の手を握った。亮太の後ろに半ば隠れるようにしてぴったりと身体を寄せる典子の身体が、小刻みに震えている。

 「だ、大丈夫…」

 半分は典子に、もう半分は自分に言い聞かせるようにしながら、亮太は一歩、また一歩と進んでいく。

 「きゃーっ!!」

 突然、典子が悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。

 振り返ると、いつの間にか二人のすぐ後ろに血まみれの男がたたずんでいて、二人を見下ろしている。

 と、そいつはいきなり手を伸ばして典子を捕まえようとしている!!

 「典子にさわるな!!」

 そう言うが早いか、亮太はその男の腕に噛みつく。

 「いででてっ! お、おいボウズ、わかった、わかったってばっ!」

 ようやく亮太が離れたときには、男の腕にはくっきりと歯形がついていた。

 「ふー。ぼ、ボウズに免じて逃がしてやろう。さあ、出口はあっちだぞ」

 男に案内されて出口に着き、外の明かりを見たときにはホッとして、足の力が抜けそうになったのだった…。


 今思い出してみると、だいぶひどい事をしたようにも思える。

 (そうか、あの典子の台詞…俺が言ったんだったんだな…)

 先程の典子の台詞に感じた懐かしさの意味が、ようやく分かった気がした。

 (あれ? そう言えば典子たちは?)

 ふと気が付いてみると、典子たちが入ってくる気配が一向にない。亮太たちも先程から進んでいるとはいえ、追いつかれても不思議ではない程のかなりゆっくりなペースなのだ。

 (何してるんだ? あいつら…まさか物陰から俺たちの方のぞいて笑ってるんじゃないだろうな…)

 念のため、亮太は周りを見回してみた。美雪と手をつないでいたなどという事が真吾にでもバレようものならずっとからかわれそうだ。

 と、順路から少しはずれた暗がりで何かが動いているのに気が付く。

 (…ん? 真吾達か?)

 目をこらしてもう一度よく見てみると、それは典子達ではなく、別のアベックたった。しかも、なんと暗闇に紛れて抱き合い、キスしているのだ。

 (げっ!! こ、こんな所で…)

 慌てて視線をそらし、亮太は素知らぬ顔で進んでいく。

 「ど、どうしたの?」

 不意に亮太が歩を早めたので美雪が不安そうな声を出す。何かよからぬ事が起こったのかと思ったのだろう。

 「い、いや、何でも」

 亮太は慌ててそう答え、元のスピードに戻した。美雪をあまり怖がらせてはならない。暗闇でほとんどその表情が分からなくても、その不安そうな息遣いでどれだけ怖がっているのかが亮太でさえ容易に推測できる。そして、暗がりの中からひそひそ話す声が聞こえてきたり、足下でくすくす笑う笑い声が聞こえてくる度に、つないだ手にぎゅっと力が入るのだ。今や美雪はかつて典子がそうしたように亮太にぴったりと寄り添っていて、その身体の起伏までもが生々しくに感じられるほどだ。

 (…ゆ、浴衣着る時って下につけないって言うからな…)

 耳まで熱くなりながら、亮太はそんな事も思ってしまう。普段の亮太だったらここでそれ以外には注意が向かなくなっていただろう。今もかなりの部分はもちろんそうなのだが、たった一つ、先程から気になっている事があった。

 (…でもホントに、何やってるんだ? あいつら…)

 典子達の事だ。

 ふと、亮太の脳裏に先ほど見たアベック達の様子が浮かぶ。

 暗がりの中で抱き合い、キスをする典子と真吾…。

 (…)

 (…まさかなぁ…)

 ちょっとありそうにない。

 バカな考えを頭から振り払おうと、頭を振った瞬間。

 「きゃーっ!!」

 すく側でけたたましい悲鳴が上がった。

 言うまでもない、美雪の悲鳴だ。

 「綾瀬さん!?」

 亮太が振り返ると、美雪がしゃがみ込んでいる。そして、その後ろには血まみれの男が。何が起こったのか、説明してもらうまでもない。

 「大丈夫、こっちへ」

 亮太は半ばパニックを起こしかけている美雪を抱きかかえるようにして出口の方へ連れて行く。

 美雪は目に涙をためて必死に亮太にしがみついてきた。

 「大丈夫、大丈夫だよ」

 亮太は美雪に言い聞かせる様に何度も何度もそう言いながら残りの部分を半ば走り抜けるようにして外に出る。

 そして、そのまま美雪を近くのベンチに連れて行き、一休みすることにした。

 外に出て明かりと喧噪が戻って来ると、美雪はようやく少し落ち着きを取り戻したようだった。

 「…ご、ごめんなさい…」

 恥ずかしそうに頬を染めて、美雪が呟く。泣き出しそうな感じに瞳が潤んでいた。

 「い、いや…」

 言いかけて照れ隠しに髪を掻こうとした亮太は、自分がまだ美雪と手を握ったままだった事に気づく。

 「!!」

 二人はたちまち真っ赤になって手を放し、お互い相手とは別の方を向いて俯いた。

 「…ご、ごめんなさい…」

 俯いて、美雪が呟く。

 「い、いや、こっちこそ、無理に連れて行ったりして、ごめん」

 そう言ってから、亮太はおそるおそる尋ねてみる。

 「…お化け、苦手なんだ?」

 美雪は恥ずかしそうに耳まで真っ赤にして、こくりと頷く。

 「ご、ごめん…」

 感づいてはいたのだが、ここまで苦手だとは思っても見なかったのだ。先ほども感じた罪悪感がこみ上げて来て、亮太の胸を締め付ける。

 「そだ、何か飲み物買ってくるよ。待ってて」

 その場にいるのがいたたまれなくなって、亮太はそう言ってその場を離れた。それに、典子達もいくら何でもそろそろ出てくる頃だろうから、出口あたりで亮太達の事を待っているかも知れないと思ったのだ。しかし、近くの夜店でラムネを二瓶買い、帰りにお化け屋敷の側を通ってみたが典子達の姿はどこにも見あたらない。

 亮太達の姿が見あたらないのでどこかに探しに行ったのだろうか?

 あまり長く美雪を一人にしておくのもどうかと思うので、ひとまずその場は戻ることする。

 (あいつら、どこ行ったんだ?)

 もやもやしたものを胸に、亮太は美雪の許へと戻った。

9


 「はい」

 「…ありがとう」

 ラムネを渡し、亮太も美雪の隣に座り込む。美雪の顔色はさっきより大分良くなっているようで、どうやら落ち着いてきたようだ。

 「…大丈夫?」

 「…ええ。ごめんなさい、心配かけちゃって」

 そう言いながら美雪ははにかんだように微笑んだ。

 「…いや、こっちこそ、ゴメン」

 そこで会話がふっと途切れ、沈黙が辺りを支配する。

 夜店が並んでいる場所からそんなに離れていないのだが、間に幾ばくかの植え込みがあるせいか、祭りの喧噪や、祭囃子が遠くの出来事のように小さく響いていた。

 どこかで蛙が鳴いている。

 亮太は夜空を見あげた。街中よりは明かりが少ないせいか、星の数がいくらか多く感じる。

 黙ったままの二人の間を、ゆったりとした時間が流れていく。

 (何してんだろ…あいつら…)

 ふとまたその事が気になり始めた。

 いい加減、姿の見えない二人を捜しているかも知れない。それ自体はともかく、あまり長く行方をくらませていると後で見つかった時にどうからかわれるか分かったものではない。

 だが、美雪の様子はどうだろう?

 そう思って亮太が美雪の方を向くと、ちょうど亮太の方を見ていたらしい美雪と目が合ってしまう。

 「!!」

 二人は慌ててお互いに視線をそらした。

 「…あ、あのさ、そろそろ、典子達が出てきて、探してるんじゃないかと思うんだけど…動いても大丈夫?」

 「あ、ご、ごめんなさい、気が付かなくて。も、もう大丈夫だから、行きましょう」

 そう言うが早いか、美雪が慌てて立ち上がる。二人は取り敢えずお化け屋敷の出口まで戻ることにした。


 だが、典子達はそこにはいなかった。

 「…いないね」

 「ええ…」

 こうなると途方に暮れてしまう。そんなに広い公園ではないが、さりとてあちこち動き回ってれば必ず見つけられるという程の広さでもないのだ。

 (…まさか、まだ中にいるなんて事は…)

 亮太の脳裏に、先ほどのアベックの姿が浮かぶ。

 (…いくら何でもないよなぁ…)

 出口の方をのぞき込むようにしながら亮太は思った。

 「どこか探してみる?」

 美雪が辺りを見回しながら聞いてくる。

 「そ、そうだね…。取り敢えず、通りに沿ってぐるっと歩いてみようか」

 二人が亮太達を探してどこかへ移動したとしても、あまり人気のない方へは行かないハズだ。夜店が建ち並び、煌々と照らされている道を見ながら亮太は答えた。


 さてその頃、当の典子達はどうしていたか、というと、亮太達の探している方とは反対の、池のある方にいた。公園のこちら側は普段はにぎわうところなのだが、夜になると貸しボートも営業を終えてしまうし、夜店も出てないのであまり人はいなかった。いるのは二人だけで静かな時間を過ごしたいアベックぐらいなものだ。

 実のところ、亮太達を送り出した後、典子は続いてお化け屋敷に入ろうとしたのだが、それを真吾が押しとどめたのだ。

 「このまま俺たちがどっか行っちゃえば、出てきた後二人で動くようになるだろ。後は若い二人でってやつさ」

 からかい半分でウインクしながら言う真吾に、典子は暫くお化け屋敷の方を気遣わしげに見つめていたが、やがて何かを振り切ろうとするかのように

 「そ、そだね。そのほうがいいね」

 と答え、その場を後にする。

 そして、たとえ亮太達が探そうとしてもそうすぐには見つからない場所と言うことで、こちら側へ移動したのだ。

 その辺はさすがに二人共、亮太の事をよく分かっていると言うべきか。

 池の畔には何組かのアベックが暗闇に紛れてたたずみ、思い思いの時間を過ごしている程度で、あまり人影もない。時間的にももう暫くすると花火大会が始まるので、みんなそちらに行っているか、もしくは夜店のある方にいるかどちらかなのだろう。こちら側では祭囃子も、祭りの喧噪もほとんど聞こえず、蛙の鳴き声と、アベックの囁き合う微かな声ばかりだ。

 「…うまくいくかしらね、亮太の奴」

 ぶらぶらと池の畔を歩きながら典子がぽつりと呟く。その視線は池の方に向けられてはいたが、実際にはその水面の向こうに別のものを見ているようだった。

 多分、亮太と美雪のことを考えているのだろう。

 「さあね…ま、奴次第じゃない? あいつに一番足りないのは自信とか、勇気だろ? お膳立ては自然と出来上がるんだからさ」

 真吾は軽く肩をすくめて、続ける。

 「馬を水飲み場に連れて行くことはできても、水を飲むか飲まないかは馬次第だからな」

 「…うん…」

 典子の返事は心ここにあらずといった風だった。

 「ま、どうなるにせよ、そろそろ答えを出して欲しいもんだけどな。いい加減じれったいぜ」

 「そ、そだね。亮太が美雪と付き合うようになれたら、あたしもわざわざ料理作りに行かなくて済むし…」

 そう言いながらもその口調はどことなく寂しげだ。

 「暇になったら是非俺に作ってくれよ。面倒がなくていい」

 真吾がニヤニヤ笑いながら言った。

 「ば、バカね、あんな面倒な事もうやるもんですか」

 「ほぉ〜。じゃどうしてその『面倒な事』をやってるのかな〜」

 意地悪く笑いながら真吾が訊き返す。

 「それは…亮太のおばさんから頼まれたからよ。『亮太の面倒を見てやってくれ』って。それさえなければ…なければ…」

 不意に、典子は口をつぐみ、空を見上げる。

 真吾はちらりと典子を見て、すぐに視線を逸らした。

 「…おまえ見てると辛いんだよ。一生懸命無理してるのがわかるから…ちょっとは自分自身の事も考えればいいのに…」

 ぽつりと呟くように真吾が言う。典子は答えようと口を開きかけたが、言葉より涙が出てきてしまいそうで、口をつぐんでしまう。

 二人の間に、再び沈黙が訪れた。

 蛙の鳴き声が、やたらと大きく響く。真吾は空を見上げ、瞬く無数の星をぼんやりと眺めた。

 「だって…亮太の気持ちは…」

 暫くして、ようやくそう答えた典子の声は、涙声だった。

 「あいつはおまえの大切さ、自分の中での大きさに気が付いてないだけだと思うぜ。自分の気持ち、言った事あるのか?」

 「あたしの気持ちって…別に…あたし達はただの…」

 それは、真吾の問いかけに答えると言うよりは半ば自分自身に言い聞かせているようだった。

 「ホントにそれでいいと思ってるのか? おまえ自身の気持ちはどこへ行くんだよ?」

 真吾は典子に向き直り、両肩をがっちりと掴んで俯いたその顔をのぞき込むようにして尋ねる。

 「そんな事…いいの…亮太が、幸せになってくれれば…それで…」

 典子は顔を背けて視線を逸らした。

 「おまえ自身がずっと望んできた事は? そのまま、何もせずにいてもその気持ちがどうにかできると思っているのか?」

 「…どうして? …どうしてそんな事言うのよ! …放っといてくれればいいじゃない!!」

 とうとう典子は真吾の手を振り払い、叩き付けるような調子で言い放つ。だが、すぐにまた元の調子に戻って泣きじゃくりだした。真吾はそんな典子をそっと抱き寄せる。

 「分かって…るんだから…あたし…だって…そのくらい…」

 「…損な性格だよな…痛いくらい一途で…」

 真吾の胸にもたれて泣きじゃくる典子の頭を、幼い子供をあやすようにぽんぽんと叩きながら真吾がぽつりと呟いた。


 暫くすると落ち着いてきたのか、しゃくり上げていた典子の肩の動きが間遠になってくる。

 ボン、ボボン

 その時、お腹に響くような音がして辺りがぱあっと明るくなった。

 花火大会が始まり、打ち上げられた花火の光が水面に反射したのだ。

 その音で、典子は顔を上げた。泣きはらしたため目が赤くなってはいるが、以前よりは幾分すっきりとした顔つきになっている。

 「…ごめんね、真吾…気を遣わせて…」

 恥ずかしそうにはにかみながら、典子は涙をぬぐう。

 「よせよ。そんなのらしくないぜ」

 「そ、そだね」

 典子は恥ずかしそうに微笑み、涙をぬぐう。

 ボン、ボンボン

 夜空には立て続けに大輪の華が咲いている。

 「…行くか?」

 真吾が花火の上がっている方を見ながら尋ねた。

 「うん。でも、ちょっと顔洗っていった方が良いよね」

 「そうだな。花火にゃ合わないし、第一典子らしくない」

 そう言って、真吾はにやりと笑った。

 「どういう意味よそれ〜?」

 典子が悪戯っぽく微笑みながら訊く。

 「さあてね」

 真吾はいつものように肩をすくめて見せるだけだ。

 「どーせあたしは凶暴な性格ですよ〜だ」

 「わかってんじゃ…いてーっ!」

 頬をぷくっとふくらませた典子が、真吾の頭をはたく。どうやら、いつもの典子が戻ったようだった。

 あるいは、そう見せているだけか。

 どちらとも、真吾には分からなかった。

10


 「いない…みたいだね」

 夜店の並ぶ道に沿って一通りぐるっと回った亮太と美雪だったが、結局典子達を見つけ出す事は出来なかった。もっとも、この頃にはさすがの亮太にも典子達がどうしていなくなっているのか、何となく想像がつく。

 つまり、

 『後は若い人たち同士で』

 というやつだ。

 (…どうしろってんだよ…)

 隣を歩いている浴衣姿の美雪を意識しながら、亮太は思う。二人はほとんど言葉もなく、ぼんやり人混みを眺めながら歩いていた。

 多分、亮太が気がついている位なのだから美雪も典子達の意図に気がついているのだろう。そう思ってしまうと、余計に言葉がかけづらくなるのだ。

 「あ、あの…」

 その時、美雪が躊躇いがちに声をかけてきた。

 「は、はい!?」

 亮太は思わず後ずさる。

 「思うんだけど…典ちゃん達って、その…二人っきりになりたかったんじゃないのかな…」

 「ええっ!?」

 これは亮太には考えてもみない事だった。

 典子と真吾が?

 どう考えても結びつきそうにはないが…。

 「あ、ごめんなさい、変な事言っちゃったかな」

 美雪が、恥ずかしそうに頬を染める。

 「い、いや、今まで考えたこともなかったから…」

 結局の所、亮太は典子を「女性」として恋愛の対象ではなく、単なる「幼なじみ」としてしか捉えていなかったのだ。

 だから、当然典子と真吾の事も考えてはいなかったわけで。

 もっとも、亮太をお化け屋敷に押し込むときに囁いた典子の台詞から考えれば、その可能性はあまりあるとも思えないが…。

 まぁどちらにせよ、こうして二人を捜していても二人が喜ぶ事はないだろうという結論だけは同じだ。

 いつの間にか、辺りの人影もまばらになっていた。みんな、既に花火大会の会場の方に行ってしまっているのだろう。

 亮太はちらりと腕時計を見る。

 もう既に、時刻は七時になろうとしていた。予定していた時間を少しオーバーしている。もう暫くすると、花火大会が始まる事になっているのだ。

 「こ、このまま花火大会の会場に行こうか。こうしていてもしょうがないし…」

 二人きりだとどうしても落ち着かず、どぎまぎしながら亮太が言った。

 「え、ええ、そうね」

 美雪も意識してしまっているのかどことなく動作が不自然だ。二人はぎくしゃくしたまま、花火大会の会場に向かって歩き始める。

 ボン、ボボン

 少し歩いた所で、夜空に鮮やかな大輪の華が咲き始めた。

 花火大会が始まったのだ。

 「…きれい…」

 美雪が呟く。

 「…」

 亮太は、黙っていた。いや、黙っていたのではなく、何も言えなかったのだ。

 「…?」

 そのただならぬ気配に、美雪がきょとんとした顔で亮太の方を見、それから亮太の視線をたどる。

 ボン、ボンボン

 そして、美雪も亮太と同じものを見た。

 はじめは、誰か他の人を見間違えているのではないかと思った。

 次には、夢か、幻ではないかと目を疑った。

 明滅する花火の光に照らされて浮かび上がったのは、抱き合う典子と真吾の姿だったのだ。

 ボン、ボボン

 花火が上がる度に、二人の姿が闇の中に浮かび上がる。

 やがて、二人はどちらからともなく身体を離すと、花火を見上げ、何かを囁いている。どうやらこれから花火大会の会場の方に移動するらしい。

 このままでは見つかるのも時間の問題だろう。美雪は、固まったままの亮太を半ば引っ張るようにして、近くの藪の陰に身を隠した。

 カランカランという下駄の足音が次第に近づいて来て、それにつれて心臓の鼓動も早くなっていく。

 (もしかしてこの格好で見つかったら余計言い訳出来ないんじゃ…)

 美雪はふとその事に気づくが、今更どうしようもない。見つからない事を祈るだけだ。

 そうしている間にも、足音と話し声は次第に近くなってくる…。

 「…それにしても亮太達は今頃どうしてるかしらね」

 「さあてね…いい雰囲気で花火を見てるって事はなさそうだけどねぇ」

 美雪達が息を止めて潜んでいる藪のすぐ側を、典子達が楽しげに話しながら通り過ぎていく。

 どうやら、気付かれなかったようだ。

 美雪はホッと溜め息をついた。

 しかし、あれは…。

 亮太は最初本気にしていなかったようだったが、どうやら美雪の読みが当たったようだ。

 (典ちゃんって大胆…)

 先ほどの情景を思い出すと、なんだかこっちまで恥ずかしくなってきてしまう。

 (ま、相手が片桐君じゃしょうがないか…)

 美雪はふっと微笑む。なんだか気分が軽くなったようだ。

 (色々心配して、損しちゃったな…)

 そう思いながら亮太の方をちらりと見る。

 亮太は、まだショックから抜け切れていないのか、ぼんやりとしていた。

 無理もない。亮太にとっては考えてもみない事だったのだろう。自分だけ、仲間はずれにされたような気になっているに違いない。

 「あの、武内君? 大丈夫?」

 そっと声をかける。

 「え? あ、う、うん。平気。い、行こうか」

 ぎこちなくそう答えると、亮太は立ち上がる。

 (…あたしも、いつか…)

 その横顔を見ながら、美雪は思った。

 (…マイペースで行きましょうね、武内君)

 ボン、ボボン

 色とりどりの花火が次々と上がる。

 「行きましょう、武内君」

 そう言って、美雪は亮太の手を取った。

 「う、うん…」

 まだショックから立ち直れてないのか、亮太はぼんやりと返事を返しただけだった。

11


 花火は『みんなの原っぱ』と安直にネーミングされている公園内の大きな広場で上げられている。典子達が寄り道をして広場の入り口に着いたのとちょうど同じ頃、亮太達も広場の入り口に到着していた。

 「亮太? どしたの?」

 典子がきょとんとして尋ねる。亮太の様子が、なんだかおかしい。

 ぼんやりとしてしまっていて、心ここにあらず、といった風なのだ。

 「あ、の、典ちゃん」

 側にいた美雪がぱっと亮太の手を放し、恥ずかしそうに俯く。

 「…ど、どしたの?」

 「う、ううん、何でも…そ、それより、典ちゃん達はどうしてたの?」

 まるで典子の問いを誤魔化すかのように、とってつけたような調子で美雪が訊き返す。

 「え、う、うん、実はあのお化け屋敷ね、昔怖い思いをした思い出があって…それで、あたし達入らなかったの。ゴメンね」

 「そ、そうなんだ」

 咄嗟の典子の言い訳に、ぎこちなく応じる美雪。

 「で、こいつはどうしたの?」

 亮太の頭をぽんぽんと叩きながら、なかなか進まない二人の会話に真吾が割り込む。その時、叩かれたせいなのか、亮太が反応した。

 「う、うるさいなぁ…べ、別に何でもないよ。行こう、綾瀬さん」

 迷惑そうにそう言うと、亮太は美雪の手を引いて、広場の中へと入っていく。

 「…どしたの? 亮太の奴」

 その後ろ姿を呆然と見送りつつ、典子が尋ねる。

 「さあ…」

 真吾はいつものように肩をすくめてみせるだけだ。実のところ、亮太が自分から美雪の手を握りにいったのを見て二人の間の関係の変化を読みとってはいたのだが、それを典子に指摘するのは躊躇われたのだ。

 「何してんだよ、置いてくぞ!」

 二人がぼんやりとしていると、亮太が振り返って大声で呼ぶ。

 「へいへい。…行こうぜ、殿がお待ちかねだ」

 そう言うと、真吾はゆっくり二人を追いかける。

 「あ、待ってよ」

 釈然としないものを感じながらも、典子もその後に続いた。


 ボーン…

 ボーン…

 花火が上がる度に歓声があがる。

 すぐ側で見る花火は、迫力も桁違いだ。打ちあげられた時の「ボーン」という音はお腹にずしりと響き、視界一杯に広がる光の華が見る者を圧倒させる。

 きっといつもの亮太なら、間近で見る花火の迫力に圧倒されていた事だろう。

 だが、今の亮太にはそのどちらも届いていなかった。

 (…真吾と典子がそんな関係だったなんて…)

 側にいる典子の横顔をちらりと見ながら、亮太は思う。

 なんだか自分だけ取り残されたような、もの寂しさを味わっていたのだ。

 今まで、三人は仲の良い友達だと思っていたのに…。

 典子とは長い付き合いなのに…。

 どうして今まで気が付かなかったのだろう。

 どうして言ってくれなかったのだろう。

 別に典子と真吾が付き合っていたっていちいち亮太に報告する義務はないはずだし、自分の思っている事の理不尽さは亮太自身もよく分かっている。

 だが…。それでも寂しさは消えなかった。

 (…ま、典子、こうしてみるときれいだもんな…)

 花火が上がる度に辺りが明るく照らされ、美雪の、典子の横顔が闇に浮かんでは消えていく。二人とも、きらきら目を輝かせて夜空を見上げている。ただ、どちらかというと亮太の視線は美雪より典子の方に行ってしまうのだ。

 典子の方がそれだけよく化けた、という事だろうか…?

 「地上の華を愛でるのもいいけどな、程々にしたらどうだ?」

 典子達の方をじっと見つめている亮太に、真吾が囁く。

 「ほ、ほっとけ」

 そう言い返し、亮太は格好だけは空を見上げる。だが、次々と夜空に輝いては消えていく花火は亮太の瞳を照らす事はあっても亮太の心には届いていなかった。

 (…真吾も、水くさいよな…)

 いつからだったんだろうか、どこまで進んでいるのだろうか? 等と、どうでもいいような事ばかり気になってしまう。

 (…キスぐらいは…してるだろうなぁ…やっぱり…)

 亮太はまたそっと典子の方を見る。依然として典子は目を輝かせて空を見上げている。そちらを見ていると典子と真吾が抱き合っていた姿が脳裏に甦ってきて…。

 (…イカンイカン、何考えてるんだ。これじゃただのもてない君のひがみじゃないか…)

 慌ててその考えを振り払った亮太だったが、気が付くとまた典子の屈託のない笑顔を見つめてしまっている。そうしていると、なんだか典子と真吾が遠くに行ってしまったような気がした。

 ズキリ

 胸が痛む。

 (…別に、仲間はずれにされた訳じゃないからそんな事でいちいちひがんでもしょうがないのに…)

 亮太は自分が情けなかった。

 だが、どうしてもそう思ってしまうのだ。

 そして、唐突に気付いた事があった。

 (…そうか…典子、だからあんまりうちで料理作らなくなったんだな…)

 不意に、典子がこの頃あまり亮太の部屋に来ない事や、来ても長くいない理由が分かった気がした。いくら幼なじみとは言え、付き合っている相手と別の男に料理を作るために足繁く通ったり、二人っきりで長くいようとは思わないだろう。真吾も、よく黙っていたものだ。

 (俺って、二人にとっては邪魔なお荷物でしかないのかな…)

 また気が滅入ってきてしまう。

 「大丈夫? 武内君?」

 何度目かの溜め息をついた亮太に、美雪がそっと囁く。

 「あ、う、うん、何でもないよ」

 そう言いながらも、頭の中では

 (もしかしたら、広場の入り口で出会わない方が良かったのかな…)

 とか、

 (俺や綾瀬さんの事邪魔だと思ってるのかな…)

 (俺が余計な事言わなかったら二人で来るつもりだったのかな…)

 等と考えてしまうのだ。

 もちろん、花火の様子など分かるはずもない。

 ただ、ぼんやりと物思いに耽り、その事に気付いて考えを振り払おうとする…その繰り返しだった。

12


 花火大会が終わると、四人は(と言うよりは美雪と典子の二人は)興奮さめやらぬ様子で花火の事を話しつつ、駅までの道を歩いていた。美雪などはなんだかいつもよりはしゃいでいるようだ。

 「じゃ。今日は誘ってくれてありがとう」

 駅に着くと、美雪がそう言ってお辞儀をする。

 「い、いや、こっちこそありがとう。付き合ってくれて」

 半ば別の事に気をとられながら、亮太が返す。そんな亮太の手を取って、美雪がにっこり微笑んで付け加える。

 「また、何かあったら誘ってね、武内君」

 「う、うん…」

 そう言ってもう一度微笑むと、美雪はくるりと踵を返して改札をくぐる。

 「やったじゃない? 亮太?」

 美雪が行ってしまった後、典子が冷やかした。

 「う、うるさいな」

 ぶっきらぼうにそう答えて、亮太は歩きだす。亮太は戸惑いを感じていた。

 柔らかくて暖かい、手の感触と、微かに香るシャンプーの甘い香り。そして、間近で見る美雪の笑顔。

 以前だったら、暫くボーッとしてしまっていたに違いない。

 だが、今はなんだかそれがそう大したものには思えなくなっていたのだ。

 (…どうして…?)

 そして、その事に亮太自身が一番驚き、戸惑っていた。

 「どうしたのよ、亮太? 怒ったの?」

 駅を出て真吾とも別れ、暫く行ったところで典子が訊いてくる。亮太がさっき典子に冷やかされて以来ずっと黙ったままだったので気になったのだろう。

 「別に」

 素っ気なく答える亮太。

 「ねぇ、怒ったんなら謝るわよ、ゴメン」

 その亮太を見て、典子が言う。亮太が怒っていると思ったのだろう。だが別に、亮太は怒っているわけではなかったのだ。

 よしんば怒っていたとしても、それは典子にではなく自分自身についてだった。

 「別に怒ってなんかないよ。…それより…」

 言いかけて亮太は口ごもる。

 「何? どしたの?」

 きょとんとした表情で典子が亮太の方を見る。

 「…い、いや、今日は、付き合わせちゃってゴメンな…」

 「何言ってんのよ。それに、あたしも楽しかったよ、久しぶりのお祭り。ありがとね。…でも、そんな事気にしてたの?」

 「い、いや、そうでもないけど…」

 (…そりゃそうか…)

 そう答える亮太の脳裏には、抱き合っている真吾と典子の様子がまざまざと甦っていた。そして、

 (そりゃ楽しいよな…)

 等と思ってしまう自分に余計に腹が立つのだ。

 「変なの。どうしたのよ、亮太? 花火の時から何か変だよ? …あ、もしかして…美雪と何かあったの?」

 「別に何でもないってば…」

 「じゃどうしたのよ? まさか、美雪に何か変な事したんじゃないでしょうね?」

 にやけながらそう言った典子には、冗談以上の気持ちはなかったのだろう。だが、その言葉で再び例の情景が脳裏に甦ってしまい、瞬間、わき起こった自分の激情を亮太は制御しきれなかった。

 「そんな事するわけないだろ!! お前らじゃあるまいし!!」

 言ってからしまったと思ったが、もう後の祭りだ。

 「あ…ご、ゴメン。…俺、先帰るわ…」

 半ば口の中でゴニョゴニョと言うと、突然の亮太の剣幕にぎょっとして固まってしまっている典子を後に、亮太は走り出す。

 「ちょ…」

 後に残された典子は、ただ呆然とその後ろ姿を見送るだけだった。

13


 部屋に戻った亮太は、激しい自己嫌悪を感じていた。

 電気もつけずに真っ暗な部屋の中、ベットに寝転がって天井を見つめている。ここ数日亮太の心をとらえて放さなかったゲームさえ、今は振り向いてもらう事さえ出来ずにいた。

 (あんな事、言うつもりじゃなかったのに)

 (言うべきじゃなかったのに)

 (典子だって、いつもみたいにからかってみただけだっただろうに…)

 自分がどうしようもなく卑劣で、狭量な男に思える。

 (情けないよな、全く…ひがむなんて…)

 しかし、それは亮太にもどうにもならなかった。

 何かもやもやしたものが心の中に渦巻いていて、どんなに亮太がそこから意識を離そうとしてもそれが亮太の意識を真吾と典子の事に引き寄せるのだ。

 あの情景が、夢か、ただの幻だったらいいのに、とさえ思った。

 そうすれば、もう悩まされずに済むのに。

 「はぁ…」

 何とか意識をそこから離そうと、溜め息をつきながら何度目かの寝返りを打った時、チャイムが鳴った。

 (…誰だろ…こんな時間に…)

 時計を見ると既に夜の十一時を回っている。

 溜め息混じりに起きあがり、のぞき窓越しに外を見る。と、鍵を開けようとしていた亮太の手が止まった。

 外には浴衣姿のままの典子が立っていたのだ。

 亮太はこのまま寝たふりをしてしまおうかとも考え、暫しそのまま黙って立っていた。

 外の典子はといえば、合鍵を使って鍵を開ける風でもなく、またチャイムをもう一度押す風でもなくただ俯いてじっと待っている。

 暫く迷ったが、結局亮太はドアを開けた。

 「…」

 二人とも、どう切り出して良いか分からないかのように暫し無言だった。

 「…あの…さっきはゴメンね、亮太…」

 やがて、典子がおずおずと口を開く。

 「い、いや、俺の方こそ…急に怒ったりして…ゴメン」

 そして、再び沈黙が二人を支配する。

 「あ…それじゃ…帰るね…」

 やがて、典子がそう切り出し、軽く頭を下げて行こうとする。

 その典子の手を、亮太は咄嗟に掴んでいた。

 何か意図があってそうしたわけではない。自然と身体が動いて、そうしてしまったのだ。

 「え…」

 典子が驚いた顔をして自分の手を掴んでいる亮太の手を見つめている。

 亮太は慌ててその手を放した。

 一体、何をやっているのだ…。

 「ど、どしたの? 亮太?」

 ただならぬ亮太の様子に、典子が尋ねてくる。

 「え、あ、い、いや、何でも…」

 何か言わなくてはと、慌てて話題を探す。そして、一番最初に頭に浮かんだ事を、そのまま口にした。

 「…あ、そうそう、め、飯なんだけどさ、忙しかったら、無理に作りに来なくても良いよ。俺、バイト先で食べる事も出来るし…」

 典子は、これにショックを受けたようだった。

 「そ、そう…わかった…」

 俯き、絞り出すようにそう言うと、巾着の中から黒猫のキーホルダーの付いた合鍵を取り出す。

 そして、それを亮太に渡すと、

 「じゃ」

 と消え入りそうな小さな声で言い、そそくさとその場を後にした。

 「…じゃ…気をつけて…」

 その背中に向かって、亮太は呟く。

 胸が、張り裂けそうに痛い。

 だが、何故そうなるのか、亮太は理解できずにいた。

 ただ、これだけは分かる。

 もう、今までのようにはいられないんだという事は。

 真吾と、そして典子と共に過ごしてきた時間は、セピア色の過去になってしまい、もう永遠に帰らないんだという事が。

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