天井の神さま
詰まらん。心の中で呟いてみる。
視線の先には世の中に溢れる退屈を集約させ、なおかつ具現化したような男がいた。
怠惰の中に身を沈めたようにベッドの縁を背凭れにだらしなく傾ぎ、ぼんやりとテレビを見つめている。
「まったく詰まらん」
すぐ脇にいたパンダの耳に運悪く届いてしまったらしく、本来あるべきパンダの愛くるしい目元に似つかわしくない、いささか剣を潜ませながら振り返った。
「なにか仰いましたか」
半身をこちらに向け、粛然とした視線を向けるパンダ――中身は綿しか詰まっていないただのヌイグルミだ。
「詰まらんと言った。つまらんつまらんつまらんつまら……」
ポリエステル製のもっさりとした耳が垂れた。聞く耳を持たないらしいパンダは、およそ時間をかけて嘆息した。
「何故、鈴木秋吉はこうも詰まらん。八畳一間のボロアパートに四年も怠惰に暮らし、アパートと会社を往復するだけの生活。なんの面白味もない会社で月々得るものといえば、アパート代と細々とした生活費に充てられるだけの給料……なんて取るに足らない男だ。
おまけに趣味がテレビ鑑賞とゲームいう、実に分かり易い男であり友人と呼べるものも、ましてや女すらいない。
平々凡々を良しとするのが座右の銘か?」
他に楽しみはないのかと、声を大にして叫びたい。
「人間の生活とは、得てしてそういうものです」
訳知り顔で語るパンダには悪いが、所詮は抱き人形の類でしかない。
「ついでに横柄なパンダにも辟易する。愛玩具なら愛玩具らしく、少しは体裁を整えろ。パンダの形で睨むものじゃない。子供が泣く」
パンダは聞き捨てならないとばかりに鼻を鳴らした。その鼻も、所詮はプラスチックだ。
身の丈が三十センチほどのその姿は、おもちゃ売場の一角に並べ置かれても遜色ない、抱きしめられることを目的とされているひとつにすぎなかった。
「好きでパンダをやっているわけではありません」
パンダの欠点は、今ある自分を認めないことだ。おもちゃに身を窶した自分を見るに、なにかにつけて悲嘆に暮れる。目下の心配事は肩口のつなぎ目が解れて左の前足がぐらついていることだ。
「考えようによっては、五歳児に付き従う護衛はパンダくらいが丁度いいのでしょう」
パンダの言葉は、あえて聞き流した。
「私のような存在を間近にして、何故にあの男は自堕落でいられるのだ」
「暢気なんでしょう。もしくは鈍感なのか」
おそらくどちらも正解だ。
世の中には全てにおいて恵まれた人間がいるが、ならばその対極を地で行くのが鈴木秋吉であろうか。
いや、全てではない。鈴木秋吉がたったひとつだけ持ち合わせた僥倖。
天井を仰げばすぐそこに、こんなにも間近に神と生活を共にしているという幸運を授かったにもかかわらず、四年もの間をただ無意味にすごしている。
それすらも無自覚に生きるのが鈴木秋吉という男だった。
「今日も定刻に会社を出て、いつものコンビニで変わり映えのない弁当を買ってご帰宅か」
自宅に入るための一連の動作を粛々と執り行い、無防備にドアを開けた途端に室内から聞き慣れない人声が響いてくれば、誰もが次に取るべき行為を躊躇うはずだ。
ものの見事に固まった秋吉は手に持った荷物を取り落とす痴態は犯さなかったものの、思考が真っ白に爆ぜた。
しばしの空白に身を置いてから、部屋を間違えたと至極真っ当に手繰り寄せるも、鍵穴に差し込んだ鍵は間違いなく開いたはずだと疑問に首を傾げた。
結局は隣の部屋から漏れ聞こえるテレビの音声を聞き間違えたのだと、照明のスイッチを入れた。
見慣れた自室が明かりと共に浮かび上がった。
空き巣という最悪の事態を想定しつつも、秋吉は八畳一間に小さなシンクがくっついただけの部屋を見渡した。
泥棒に入られても元より金目のものなどありはしないし、プロであればなおさら、秋吉の部屋などドアから窓に向かって素通りにする。それくらい高価なものとは縁遠い部屋だった。
流しの横にあるドアを開けて明かりを点けた。
狭苦しい湯船と程度の悪い水洗トイレに見慣れたユニットバス。水捌けが悪い浴室も相まって、飛び散った湯垢が変色して斬新な模様になりつつあるシャワーカーテンもいつもと変わりなかった。
秋吉は不逞の輩の気配がないことを確認してからドアを閉めた。ついで、安っぽい作りの小さな棚の引き出しを検めた。中身はお決まりの通帳と判子だ。隠し場所に芸がないとは思うが、所詮は画一的な部屋では隠し場所にも限度はある。
一先ずはなにも盗られていないと胸を撫で下ろすと同時に、視線の端が揺れたような気がして何気に目を向けた。
揺れた辺りに目を眇めた秋吉はちょっと悩んだ。よくよく見ればこたつテーブルの天面に、ポコンと盛り上がった小さな丸い影が動いていた。
その場で腕を組み、呻吟した。
見間違いか。いや、どうやっても違和感を拭えない。まるで人の頭――まさか泥棒が潜んでいるとも限らない。
下手な想像は止そう。
秋吉は改めて頭を振り、武器になりそうなものを探した。なにもない。雑誌を丸めたらどうだろう。虫を叩き潰す程度で済めばいいが、さすがに良案とは言い難かった。バットにゴルフクラブ、そんな都合のいいものはこの部屋に転がってはいない。
秋吉はふと思いついて足音を忍ばせ、部屋の隅で埃を被って久しい5キロの鉄アレイを握った。有事の際にせめてもの脅しには使える。
鉄アレイの重みに勇気を託し、息を殺しながらコタツの向こうを覗き込んだ。固唾を飲むと同時に、両手で握る鉄アレイを眼前に突き出した。
「だ、誰かいるのか!?」
「さして広い部屋でもなかろうに。私を見つけるのに一体何分かかればいい。まぁ、いい。おかえり」
こたつ布団に包るようにして両膝を抱え、耳当て付きのニット帽を目深に被った子供――精々四、五歳の幼児が腕時計を見つめながら厳然と言い放った。
たとえばまだ小学生にも満たない子供の手腕に巻かれた腕時計が、雑誌の広告でしかお目にかかったことがない妙に高級を漂わせる逸品だとしても、もう片方の腕に抱えられているパンダのヌイグルミがいかにも子供受けしそうなものだとしても、その歪さがかえって現実味を薄れさせていた。
「ただいまって……なんだなんだ、誰だ?」
「相変わらず面白味もない。冴えない男の典型だ」
歳端も満たない幼い子供の口にしてはなにやら辛辣極まりない。
「ボクの部屋は……ここじゃないだろ。まさか迷子?」
いささか的を得ないとは知りつつ、子供という予想外の相手に予想以上に慌てた末に、威嚇のために持ち上げていた鉄アレイが重みを増した。
「確かにこの部屋は私の自宅ではないが、迷子でもない」
子供は一端に肩を竦めてみせた。ませたガキと言えばそれまでだが、堂に入った仕草だった。
「名前とか、住所は言えるかな? ここからボクの家まで遠いのかな? だったら俺が電話して迎えに来てもらうから」
「それには及ばない」
「じゃあ、そろそろ帰ろうか。お母さんとか、お父さんとか兄弟とか、とにかく家族が心配してるだろ? 今何時だよ。もう夜も遅いんだから」
秋吉は大人としての態度と良識でもってして、努めて冷静に接したつもりだった。
「まだ七時を回ったところだ」
子供は高そうな時計を見やった。
「いや、十分に遅いだろ。もう外は真っ暗なんだから」
「私にも帰る場所はある。だがまだ帰るわけにはいかない」
この子供はなにを言ってる? 施錠されたドアをどうやって越えたのか、そのカラクリは謎だが秋吉の部屋に勝手に入り、明かり一つない真っ暗な部屋の中で時間を潰していたのか。全くもって不気味を通り越して意味不明だ。
後に続く言葉もなく、ただ呆けた顔ばせの秋吉の心情を察したのか、子供は微かに笑んだ。
その笑顔に秋吉は前言を撤回した。こいつは不審者だ。歳端も満たない子供に対して不審者とはいささか大げさか。ならば変な子供だ。
秋吉は今考えられる最善の方法として携帯電話を手にするも、しばし逡巡した。
110番だっけ? 119番? それとも最寄りの交番に電話をかけるべきか。いや、待て。なんて説明すればいい? 変な子供がコタツを占拠してるんです……大の大人の台詞とは思えない。
「部屋に帰ってみると、知らない子供が部屋に居座ってて、名前も住所も言わないからどうしたものかと――」
完璧だ。
「なにをする気だ?」
「警察に通報だよ。生憎と、ここは託児所じゃない」
秋吉はなにを今更とこたつテーブル越しに子供を睨んだ。小さな子供はこたつテーブルの天面に両肘をついて、なんとかこちらを見上げている状態だった。
その様は確かに愛らしい仕草であったが、円らな瞳と柔らかな栗毛を持つ幼い子供然とした中で唯一似つかわしい、片方の口角を器用に吊り上げた口元が全てを台無しにしていた。
「最初に忠告しておく。下手なことはしない方がいい」
大きな黒目勝ちの目が怪しく光ったような気がしたが、秋吉は思わず鼻で笑った。取るに足らない子供の脅し文句ではないか。
秋吉は心持ち背を逸らし、できるだけ高圧的に子供を見下した。
「忠告はした。後で後悔しないように」
「随分とこまっしゃくれたガキ――」
秋吉の言葉は最後まで続かなかった。足に縋りついた白と黒のなにかに目を見開いた秋吉は、それがパンダのヌイグルミで、なおかつ子供の手にあったはずのただのヌイグルミが明らかに動いているという事実に声を失った。
秋吉は悲鳴を上げることも忘れ、妙に丸っこいパンダの手で足を掴まれたその感覚に怖気が走った。
瞬きをする暇もなく、目の前の光景が突然反転し、後頭部と背中に強かにぶつけて初めて、自分の体がひっくり返ったことを知った。
唖然として天井を見上げるしかない秋吉の視界に手触りが良さそうなパンダが割り込んだ。
「少しは口を慎むように」
確かに喋った。パンダが。もう少し正確に言えば、ふかふかのパンダが。慇懃を隠しもしない口吻とは裏腹に、愛らしいだけのパンダのヌイグルミが、事もあろうに秋吉を恫喝している。
秋吉は反目しようと口を開いたが、言葉の代わりに呻き声が漏れた。今頃になって打ち付けたあちこちが痛んだ。
「パンダを相手に情けない。少しは己の不甲斐無さが身に染みたか」
「いきなりなんだよ! ってか、なんでパンダが動いてる!」
「私は情けなく思う。そなたはここに四年も暮らしておって、何故いつまでもこのような生活を続けている? よく飽きないものだと、逆に関心を覚える」
「動くパンダを無視するな! 情けないって……初対面でどんだけ失礼な言い草だよ!」
「私は鈴木秋吉の四年間を漏れることなく見知っている。この四年で得たものは、なんの役にも立たない怠惰を四年分積み重ねただけだ」
「え?」
秋吉が余りにも素直な顔を晒していたものだから、子供は遠慮なく指笑した。
「どういう意味?」
「意味もなにも、私はそなたの四年間を見つめてきたと言った」
目の前の子供はどう見積もっても片手の指で事足りるほどに幼い。生まれて間もない頃から人の生活を覗き見ていたとか……。
「……あり得ねーだろ!」
「そなたに嘘を吐くいわれなどない」
許されるならばその場で地団太を踏んでいたに違いない。しかし秋吉は床に寝転がったまま、なす術もなく子供を見上げていた。
「変わり映えのない毎日。詰まらぬ人生を歩むそなたは見るに堪えない。そろそろ自分を改めろと、こうして私自らが進言してやっている」
「なに言ってんの……訳分かんねー」
「頭の回転も鈍い。そもそも、私という存在を間近にしながら怠惰にいられるのは、総じて鈍感なのだと逆に納得する他ないな」
まったくもって酷い言われようだ。
「その沈黙は認めたと受け取ってよいのだろうか。そなたは何故無為に生きる? そなたの人生はそなたのためだけにあるのだぞ。毎日を判で押したような今の生活を、なんの面白味もない毎日こそが望みなのか」
秋吉は返す言葉もなかった。
腰を抜かしたままなにをするでもない秋吉の挙動を追っていたパンダは、険しい眦をいくらか和らげ、元の抱き人形に戻るべく小さな手の中に収まった。
「そんなはず……ないだろ」
「口を慎めと忠告したはず。本来ならば下賤にも等しいお前がご尊顔に預かる立場にもないわ」
パンダは秋吉に対して相変わらず手厳しい。
「そんなわけないだろ! 誰が好き好んでこんな生活……俺だって詰まらないって自覚してるよ! けど、仕方ないだろ……どう変われってんだ……」
子供は物憂げな表情のまま、片手を上げて秋吉の言葉を制した。
「……俺だってその気になればなぁ……こんな詰まんねー世界じゃなければ、もっと自分らしく……」
「世界が違えばそなたは変わるのか」
紛う事なき幼児に見下される秋吉は、恥も外聞もなく大声でそうだと喚いた。
「自らを変える努力を怠り、そのくせ口先だけはご立派か。典型的なろくでなしだ」
ついには言葉を失った秋吉は、遥か年下の言に再び口を噤んだ。
「この者にいくら問うても無駄でしょう。あなた様の気紛れは毎度のことですから、小言をくれても詮無いのは承知しております。上に戻りましょう」
二流の足元にも及ばない三流の大学を出て、五流の会社に勤める秋吉は自身にはこれくらいがお似合いだと、諦念と共に今に至る。底辺に甘んじる秋吉の生き様など、順風満帆の人生を歩む者からすれば失笑ものの人生かもしれない。
自分の非を棚に上げたまま、生まれが悪い、環境が悪い、運が悪い――常になにかのせいにしてきた秋吉にしてみれば、それこそが正論だった。
「つくづくと救いのない男だ」
「そんなの分かってるよ! けどな、赤の他人の、しかもお子様に言われる筋合いなんてないんだよ!」
秋吉は無意識に煙草を取り出し、ライターを探した。ライターとは煙草の傍につかず離れず、たとえば三歩後に控える良妻なみに絶えず傍にあるはずだが、その辺の雑誌を脇に寄せ、こたつ布団を剥ぐってもライターは見当たらなかった。
こんな時に限ってなくなる最たるものがライターだろうか。どこかにマッチの一本でも転がってないか。テレビ台の小さな引き出しを開けてみる。
街角で配られるポケットティッシュやら試供品やら、当面は使われることはないが、捨てるには忍びない細々した物を放り込んである。もしかしたら使い古しのライターが、百歩譲って紙マッチでもいい――秋吉の期待は裏切られ、そのどちらもありはしなかった。
火がないとなると余計に煙草が吸いたくなる。意地汚いと言われようが、なおも引き出しの奥まで漁っていた秋吉だが、目に見えないなにかに屈したように苛々と引き出しを閉めた。
乱暴に掻き回したまま引き出しを閉めたものだから、飛び出していたポケットティッシュが引き出しに挟まった。それを見て無性に腹の立った秋吉は、立ち上がるなりその引き出しを蹴り上げた。普段であれば相応に加減するところだが、理性を失った者の末路として、際限なく蹴り上げた親指の先を引き出しのつまみに痛打した。
理性を失うのはまだいい。後でいくらでも猛省すればいい。しかし痛みだけは、忘我にあってもやってくる。
秋吉は腰を抜かすようにしてその場に蹲り、派手にぶつけた親指を擦った。
「ってーんだよ! こんちくしょうめ!」
誰に対しての雑言か、無様に痴態を晒し演じる己に向けられた、せめてもの痛哭には違いなかった。
余りの激痛に涙が浮かんだ。独り苦悶に身を震わせながらも、痛みが去るのを辛抱強く待つ外なく、ようやく冷静を手繰り寄せた秋吉は馬鹿なことやったと認めた。
ライターがないなら買いに行けばいい。幸いにも秋吉が住むマンションの一階にコンビニエンスストアがテナントとして入っていた。
秋吉がこの一室の入居を決めた最大の理由がコンビニの有無だった。自炊を行わない秋吉にとってはこれ以上の好条件はない。
こうなったら一ダースくらい買い込んでやる。秋吉はつい先ほどまで怒りに任せていた自分を忘れ、こたつ机に置いてあったはずの財布に手を伸ばした。が、またもやそこに財布はなかった。確かにそこにあったはずだ。
改めて部屋を眺めた秋吉は愕然とした。小さなライターひとつを探すだけに、一体どれほど散らかせばいい。これじゃあ、家探しの後ではないか。平素より小奇麗に片付ける性分ではなかったが。
言いようのない怒りが再燃しそうになりながらも、財布はすぐ目につく床に転げ落ちていた。
ジーンズの尻ポケットに財布を捩じ込み、秋吉はふと煙草の箱を掴んだ。そう言えばもう買い置きがなかったな。残りの本数を確かめようと上蓋を開けた秋吉は、煙草と一緒に突っ込まれていた百円ライターを見つけるなり、別の意味で腰が抜けた。
「ぶつけ損かよ!」
まだ痛みを残す親指が哀れでならない。ついでにさっさと煙草の中を見ておけば、ここまで無意味を晒すことも、またなかった。
秋吉は鬱々と煙草を口にくわえ、火を点けた。旨い。しばらくは煙を吸っては吐き出し、照明の笠に積もった脂臭い埃と、これまた脂に染まった天井をぼんやりと見つめていると、場違いな拍手が起こった。
「テレビよりはいくらか滑稽だった」
秋吉は目の前の子供を力なく睨んだ。
そもそも、秋吉は気持ちを落ち着かせるために煙草を吸おうとしていた。それをどこで間違ってしまったのか、ライターのせいで本来の目的をすっかりと失念していた。しかし煙草を一本、心置きなく燻らせたことで、少しは冷静に考えを巡らせることができた。
さて、どうしようか。どうすればお帰り願えるだろうか。ここからが本題だ。
妙に居丈高な子供と動くパンダは未だにお暇する気配もない。
背を丸めたままのパンダは秋吉が見守る中で散らかった部屋を片付け、ポケットティッシュがはみ出た引き出し内を黙然と整理してから静かに閉めた。
パンダの几帳面な性分を知ったところで、秋吉はとうとう肩を落とした。
神さまは改めて鈴木秋吉を目の前にするも、風采が上がらないのはいつものこと、人がそれなりに持ち合わせているはずの覇気すら全く感じられない男に憐憫の情すら湧いた。
全てにおいて間が悪いのは、煙草を一本吸うだけもてんやわんやを演じた先の嬌態でも十分だったが、そんな男はどの時代を生きても世界が変わっても、同じように生きるのが常だ。
しかしパンダの制止を振り切り、こうして関係を持ってしまった以上は神さまとして相応の責任を果たさねばならない。
「さて、どのような世界がお望みだ?」
鈴木秋吉は皮肉に笑った。
「ここじゃないどこか」
奥に控えているパンダが遠慮なく鼻を鳴らした。プラスチックの鼻で器用なことだ。
鈴木秋吉は天井を振り仰ぎ、しばしの間黙考した。
「たとえば……今流行りのゲームとそっくりな世界、とか?」
「世迷言を申すな」
頭ごなしに一蹴するパンダをたしなめてから鈴木秋吉を振り返ってみると、当人はしゅんと項垂れていた。
「言われなくても分かってるよ……」
「それがそなたの望みか。ならば叶えよう」
「は?」
奇しくもパンダと鈴木秋吉は同時に言葉を発した。
「ご冗談を」
「まさか……冗談だろ?」
パンダと鈴木秋吉の思考は良くも悪くも似通っているのかもしれない。
「そなたは私に対して冗談を申したのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「望む場所であるならそなたはいかようにも生きられるのだろう? ならばそこに行け。新たな場所で望むように生きるがいい」
神様はポケットから小さな手帳を取り出し、おもむろにページを開いた。
「鈴木秋吉……二十三歳と。十人並みの容姿にこれといって秀でた才能もなく、箸にも棒にもかからない情けない男……自堕落にある己を鑑みることなく無為にすごす、と。他になにかあったかな?」
神さまの言葉の後に続いて、ページには鈴木秋吉像がつらつらと書き込まれていく。
「酷い言われようだ」
ひとりでに書き込まれていくページを不思議そうに覗きこむ鈴木秋吉はぽつりと呟いた。
「四年もの間そなたを見ていた私の忌憚のない総評だが、他に書き加えることがあるなら申してみろ」
鈴木秋吉の口からなにかが語られることはなく、神さまが記入した以外は特にないようだった。
不貞腐れている鈴木秋吉を尻目に、神さまは粛々と段取りを済ませようとしたが、パンダの柔らかな手に阻まれた。
「僭越ながら、あえて苦言いたしますことを先にお許しください。このような輩のために咎を負うと申されるのか? ならばわたくしはこの身を賭してでも止める所存です」
やれやれ、これだからパンダは。
「お前の脳みそは綿しか詰っておらんのか。私の傍で四年も暮らしているのだ、四年も。にもかかわらず、鈴木秋吉が変わらないのは何故だ。どうして情けないままなのだ」
「こ奴がそれだけの男だからです」
パンダは憤然と鈴木秋吉を丸い指で指した。パンダの肉球の先には、ひとりと一体に完全に捨て置かれた鈴木秋吉がこたつテーブルに力なく伏していた。
神さまの両目がすぅっと細められた。
「鈴木秋吉がそれまでの男というならば、私の力もその程度というわけか。過去にこの部屋に暮した幾多の人間は私という神意を受けてことごとく才能を開花させた。うだつの上がらない男も女も、ひとりの例外もなく。しかし鈴木秋吉においては、私の力も遠く及ばぬと……随分と軽んじられたものだ」
パンダはまだなにかを言いたげに口を開くも、結局は後に続く言葉を飲み込んだ。
「生きる場所が変われば、あるいは鈴木秋吉も変わるかもしれん。いささか大盤振る舞いにすぎるだろうが、もう後には引けぬ」
神さまは仕切り直しとばかりに鈴木秋吉に面と向かった。
「では鈴木秋吉、新しい世界でなにを為す?」
「……さぁ……冒険でもするよ……」
「冒険をする……やはり安直な答えだ」
新たに書き込まれた一行を繁々と眺め、神さまはひとつ頷いた。
「では達者で」
「え?」
勢いよく面を上げた鈴木秋吉の間抜け面は、神さまが手帳を閉じると同時に掻き消えた。
おわり