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夜の海

作者: 樫宮穂月

 黒い黒い闇の海に、銀の月が静かに浮かぶ。

 穏やかな波が水面を揺らし、光の粒がゆらゆら舞う。

 私は明かりに誘われる虫のように、ふらりと水辺に近づいた。

「危ないよ」

 ぱしゃんと海に足を踏み入れた時、ぐい、と手を引かれた。振り向くと、一緒に来た幼馴染はひどく心許ない顔をしていた。母親において行かれたような表情に一瞬幼さが覗く。

「どうしたの、そんな顔して」

「どうしたのじゃないよ。どうも君は考えなしに動く癖があるな。見ろ、靴がびしょ濡れじゃあないか」

 綺麗に整えられた爪の乗った指を目線で追うと、(ふくら)(はぎ)まである靴下も水をかぶっていた。

「それに、ここは遠浅だけどいきなり深くなるから気をつけた方がいい。僕が止めなきゃどうなっていたことやら」

 やっぱりついてきて良かった――と彼は大人の顔で溜息をついた。私より数箇月年上の彼はいつもこうやってお兄さんぶるのだ。ふたりの身長が開いてからそれは一層顕著になった。それはまるで、年頃になって離れていきがちの男女の仲を取り持とうとしているようだった。

「分かった。じゃあ波打ち際で遊ぶよ。それならいいでしょう?」

 どうせ靴も濡れてしまったし、折角来たのだから楽しまなければ損だ。水気を含み重い靴を脱ぎながら兄のような幼馴染みを見ると、風邪を引いても知らないぞ――と上着を押しつけられた。

「過保護だなあ」

「何とでも。ちゃんと着ろよ」

 はあいと生返事をして、私はほんのりと温かい服に袖を通した。


      ※


「綺麗だね」

「うん」

 月が水面を揺らしていくのをふたりで眺める。

 久しぶりの海にはしゃぐ彼女があまりにも楽しそうだったので、結局僕も水に浸かることにした。夏が近づいているからか遠くから見て思っていたよりも冷たくはなく、むしろ心地よかった。

 沈黙がふたりの間を流れ、心臓に呼応するような波の音だけが夜の海に響く。湿度を纏った風が頬を撫ぜ、ひいやりと通り過ぎていった。

 彼女の横顔をちらりと盗み見る。

 凛とした瞳で星を見る彼女は話しかけ難い雰囲気を発していて、いつの間にか大人になってしまったのだということを感じさせた。普段話している時には思わないのだけれど、静かにしているとまるで他人のようだ。ともに野山を駆け回った日々は遠く、今はもう朧げにしか思い出せない。

 視線に気づいたのだろう、彼女はぱちりと瞬き表情を緩めた。無防備な表情にはあどけなさが残っていて、僕は何故かほっとした。

「ねえ、今地震が来たら私達、津波で流されちゃうかな」

 しかし、そんな安堵は束の間で、彼女の不穏な言葉に打ち消された。

「多分ね。この辺には高い所なんてないし、地震がおさまってすぐに走り出したとしても間に合わないだろうね」

 震源がどれだけ近いかにもよるが、湾内で起きたとしたら二三分で波は到達するだろう。

「じゃあ、舟を盗んで沖に出るとか」

「鍵がかかってるに決まってるじゃないか。それにどうやって運転するんだ」

「勘?」

「馬鹿」

 やはり変わっていない。中身は子供のままだ。

「大丈夫、君は運動神経がいいからすぐにコツが掴めるよ」

「そういう問題じゃないだろう」

 くすくす笑う彼女に、僕は頭に手を当てて溜息をついた。

「じゃあ何、恐ろしい大津波が来るって分かってるのに、みすみす波にのまれようってわけ。できることは考えておかなくちゃサバイバルには耐えられないよ」

「そもそも危ない場所に行かなきゃいいだろう」

「今起こったらどうするかを言ってるの。最悪な場所にいるのに、ああこんな所に来なければ良かったのに――なんて悲観しても仕方がないでしょう」

 彼女は腰に手を当て、真面目な顔でそう言った。

 言い返せないのが悔しいが、彼女の言うことはもっともなのでシミュレーションをしてみることにした。

「そうだな――まあ、まず地震が起こるとする。かなり揺れるからしばらく動けないだろう。それでおさまったらどうするかだが、二つの選択肢がある。ひとつは地上のできるだけ高い所に向かって走ること。できれば自転車や自動車などの乗り物が良いだろうが、渋滞の恐れもあるし、近くに高台があるなら自分の足で逃げた方がいいかもしれない。今の僕たちには当てはまらない方法だね。乗り物はないし高台もないし、八方塞がりだ」

「いっそ電柱にでも上ろうか」

「最終的にはそれしかないかもね」

 押し寄せる水にコンクリートが耐えられるかどうかが問題だが、前回それで助かった人もいたというし、案外丈夫なのかもしれない。まあ、地震で倒れていなければという条件付きの選択肢だけれども。

「で、もうひとつは?」

「もうひとつはさっき君の言ったように沖に逃げることだけど――あまり現実的じゃないな。鍵のかかっていない舟を探すくらいならできるだけ海から離れるべきだ」

「そりゃそうだ」

「何だ、分かってるんじゃないか。僕はてっきり本気なのかと――」

「冗談だよ、半分くらいは」

 そう言って彼女はにーっとチェシャ猫のように口を歪めて笑った。

 海の男は地震が起きたら自分の船を守るために舟に乗って域に出るそうだが、前回はそれで海が渋滞して沖に出る前に津波で流されてしまったという。生活の手段でもある舟を失う訳にはいかないと焦りに焦った結果なのだろうが、もう少しどうにかできなかったのだろうかとも思う。

「で――結局どうしようもなくなって電柱に登ったとしよう。そして運よく津波を逃れられたとする。けど、いつまた津波が来るか分からないし、救助が来るまでずっとそこにいなきゃならないだろうから体力が持つかが問題だな」

「余震で電柱がもつかも心配だね」

「それはもう祈るしかないな」

「神様なんか信じてないくせに、何に祈るんだよ」

 彼女は怪訝な顔をして、からかうように言う。

「さあ何だろう、あるいは運――かなあ。最後はもう、人の力の及ばないような何かに縋るしかないじゃないかな」

「ふうん、君って案外宗教的な人だったんだね」

「文化としては尊重したいし、見習うべきことや共感できるところはあるけど、信仰はしてないよ――」

 僕は言い訳するようにそう言った。

 迫りくる波の中で地震に怯え、ただ時間が過ぎるのを待つだけなんて気が狂いそうなまねは僕にはできないような気がする。

「じゃあ、家がいた時に地震が起きたらどうする?」

 彼女は足で海を蹴り、ぱしゃぱしゃと音を立てながら問うた。

「まず火を止めるだろ。もし点いてなくともガスの元栓は忘れず締めるようにしないとね。それがもとで爆発するなんてこともあるらしいし。それで、やはりできるだけ高い所に逃げなきゃならないわけだけど、そうだな――何を持って逃げようか」

 先程から僕ばかり答えているように思われるので、そこでいったん切り、水と戯れている彼女を見つめた。ちらりと僕を見ると、彼女は指を折りながら話しだした。

「まずは食糧でしょう。できるだけカロリーが高くてすぐに食べられて長持ちするやつ――氷砂糖とかチョコレートとかのお菓子がいいんじゃないかな。あと缶詰もいいね。缶切り忘れていったら役に立たないけど」

「飲み物も忘れないようにしないと。重いから大変だけど、せめて一日耐えれるくらいは欲しいね」

 一日に必要だとされる水分量は二リットルだから、そうたいしたことはない。しかし、家族の分もすべて一人で抱えて走るとなると辛いものがあるだろうな。

「それと、避難の間の暇つぶしになるようなものとか」

「のんきだなあ。そんな物の前にもっと大事なのがあるだろう。着替えに、預金通帳に、夜になった時のための懐中電灯に――」

「気を落ち着けるためにもいいと思うんだけどな。自分の好きな本とか思い出の品を眺めるのは。それに、原発に何かあったら二度と戻って来れないんだから、失くしたら困るものや大切なものはいつでも持ち歩いておくべきだね」

 家にいる時に地震が起きてくれればいいけど、そうとは限らないからね――と彼女は結んだ。

「外で地震にあった時は着の身着のままで逃げるしかないもんな。家に取りに帰る暇があるならできるだけ遠く高い所に行った方がいいし」

「そういえば、どのくらいの高さなら大丈夫なんだっけ」

「ビルの四階か五階くらいなら安全って言ってたような気がするけど、海抜も関係してくるだろうし、どうなんだろうなあ」

「ビルは崩れてるかもしれないから、当てにならないかもしれないしね。きちんと耐震設計されてるところを探さなきゃ」

「じゃあ大学は?」

 腐っても国の関わる組織だし、安全なのではなかろうか。

 しかし彼女は、僕の提案を鼻で笑った。

「うちのは駄目だよ。予算がないのか知らないけど、一部しか建て替えられてないんだから」

 彼女は眉をつり上げて、あの学長め――と苦々しく言った。

「そうだったのか」

 国が関与しているからとてっきり信用していたのだけど、僕の認識は甘かったらしい。まさかとは思うが、もしかするとこんなことが他にもあるのではないだろうか。そう思うと、急に寒気がした。


      ※


 私達は再び口を閉ざし、静かに海を眺めた。

 私は波に揺られながら考える。

 先程のシミュレーションは、はたして役に立つのだろうか。こんなことを考えても、結局助からないかもしれないということを明らかにしただけで何にもならないのではないか。

 いつ訪れるともしれない危険を意識しながら暮らしていくのは難しい。危険だと分かってはいても――日々の生活に埋もれ、対策は疎かになりがちだ。また、仕事柄海から離れられないという人もいるだろう。

 あの日――。

 テレビから流れてくる映像は、日本中の人に鮮烈な印象を与えた。現場から離れた人でもリアルタイムとそう変わらない時に、圧倒的な自然を目の当たりにした。私はまるで自分もその場にいるかのように目を離せなかった。

 それから人々は、地震や津波に対する備えをするようになった。缶詰を蓄えたり、避難場所を確認したり、緊急用品を詰めた袋を用意したり――政府、マスコミ、自治会、インターネットなどの情報を参考に各自で行動した。自然に怯え、人間の()()なさを思い知ったのだ。

 しかし、そんな危機意識も怠惰で緩やかな日常の中で薄れていき、次第に忘れ去られていった。心のどこかに残ってはいるはずだが――所詮人間なんてそんなものだ。神経を摩耗させるようなことを続けていられるはずもない。来たらその時のことよと開き直っている人のどれだけいることか。

 

 起きたらどうしよう、なぜ皆忘れたふりをするの、見ないふりをするの、恐くはないの――。

 

 訴えかけるような問いは、自分自身にも向けられる。

 心配や憂い、そして何に対するものなのかさえも分からないどうしようもない怒りはもはや、自暴自棄に変わっていった。偉そうなことを考えるが、私も周りの人々と大差はない。

 波が足元の砂を運び、海の中へ引き込まれていくようだ。


      ※


「あまり長い間水に浸からない方がいい――」

 僕は、彼女の手を引き砂浜まで連れて行こうとした。

 事故現場から遠く離れているとはいえ、日々の波風に運ばれ放射能――放射性物質が届いていないとは言い切れない。黒曜石のように輝くこの海も、人知れず危険を孕んでいるかもしれないのだ。そう思うと急に怖くなった。

「そんなの今更だよ」

 しかし彼女は、僕の手を払い蔑むように笑った。

「今話してる間にも放射線を浴びている――いや、宇宙から絶えず届いているのだからそれは当然だけどね、よりも強力なものを受けているかもしれない。雨で運ばれて食べ物に交じって日々口にしているかもしれないし、いつどこで放射能と出会っているか分からない。それに、潮が満ち引きしてるから砂浜に居たって同じだよ」

「そうだけど――」

 僕は納得できないでいた。

 これは杞憂――ではないだろう。

 政府は安全だと言っているけれども、「国民の混乱を避けるため」とか何とか言って情報は捻じ曲げられている可能性が大だから信用できたもんじゃない。学者が言っていることはまちまちで、中には正反対の意見もあって、どれを信用していいのか分からない。結局自分で実際に計って確かめない限り安心することはできないのだ。

 確かに彼女の言うとおりいつどこで放射能に出くわすかは分からない。しかし、発生元とは海で繋がっているわけで、この場所が危険度が高いことには変わりはない。

 だから――。

「できるだけ危険なことは避けた方がいい」

 まさか死にたい訳じゃあないだろうと脅かすと、そんなことを言っていたらどこへも行けないよ――と彼女は暗い顔で笑った。

「まあでも、そろそろ冷たくなってきたから出ようかな」

 それは負け惜しみなのか事実なのかは分からなかったけど、僕はひとまず安心した。科学的根拠を頼りにするよりも、石橋をたたいて渡るくらいのつもりで過ごした方が身のためだと思う。科学が万能という訳でもないのだから。

 彼女はたくし上げていた衣類を元に戻し、陰鬱な表情で海を見つめた。

「色がついてるわけじゃないんだから、どこまで広がってるか分かったもんじゃないよね。いくらでも――隠蔽できる」

 その言葉に僕はどきりとした。

 見えない、触れない、すぐに結果が出ない――。

 そういうものに人は価値を置きにくい。それは、哲学などの根本を問う学問よりも経済学や法学などの実学が人気である証拠でもあるし、また、今回の放射能による汚染に対する人々の関心の薄さの表れでもある。

 しかし、前例としてチェルノブイリやスリーマイル島での事故もあって、その被害の甚大さも報告されているのに、どうして皆興味を持たないのだろう?僕は彼女に問うた。

「それはね、やはりお上が安全だ、大丈夫だって言ってるからじゃないかな。マスコミでも、事故現場の方はまだしも西日本の方の危険性についてはあまり報道してないし――だから、もともと専門家だった人や政府の欺瞞と詭弁たっぷりの言い草に自分で疑問に思った人以外は知ろうともしないでしょ、きっと。人の言うことを何の疑いも持たず信じられるんだろうね、そういう人達は」

 彼女は嫌味と皮肉たっぷりにそう言った。

「君は人の言うことをまったく信じず、最初(はな)から疑いを持って聞くのか?」

「そういうわけじゃないよ。ただ引っ掛かることが多いってだけでね」

 ある情報に違和感を持つか持たないか――それは知識量の差だけではない。物事を複眼的に見れたりその裏を考えられたりするかどうかにかかっている。それは訓練次第でどうにかなる問題だ。ある情報を得た時にそのまま受け入れるのではなく、意識してその意味を立ち止まって考える。そうすることでいろいろと見抜けるようになるはずだが、今の日本人にその習慣はあまり身についてはいない。

「例えば、原発の平和利用とか、日本にはエネルギー資源がないから仕方ないだとか――これはよく聞く話だけど、本当にそうなのかは素人にはよく分からない。それをいいことにお上や電力会社が好き勝手にやっていないという保証はどこにもないよね。わざわざ核爆弾のもとになるプルトニウムを生み出すタイプの原発を選んだところなんか、怪しいことこの上ない」

「ウランじゃなくトリウムを使えば、廃棄物も少なくすんだって話だしな」

 原発に必要な燃料に種類があると知っている国民がどれだけいるだろう。僕達には原発や放射能に対する知識があまりにも欠けている。これでは政府の言説を鵜呑みにしても仕方がない。

 一九五四年という戦後十年も経たない慌ただしい情勢の中で原発の予算が決められ、いつの間にか国内には五十数基もの原発が建っていた。これもまた、政府に任せっぱなしで監視を怠ってきたつけなのだろうか。復興に追われていた祖父母の世代を恨んでも仕方がないが、この状況にはあきれを通り越してやるせなさしか感じられない。心にどんよりと重い雲が垂れ込めていくようだ。


 彼女は浜で砂を選り分け、貝殻を探しはじめた。僕も彼女の横にしゃがみ、それを手伝う。

 こうしているとまるで昔に戻ったようだ。

 無心にひとつのことをする。一緒にいて無言でも気にならない。そんな関係はそう簡単に築けるものではないだろう。肩に触れる体温が、彼女と僕の過ごした年月を物語っていた。


「ああ、綺麗だ――」

 彼女は顔を上げ、溜息のように呟いた。

 その声につられ、僕は貝殻から目を離した。


 海の果てが金色に輝き、海に色が戻る。

 上を見ると、月は傾き、空が明るみ始めていた。

 ああ、夜が明けたのだ。


 彼女は目を細め、水面を眩しそうに見つめた。朝日に照らされる彼女はなんというか神秘的で――思わず見とれてしまった。

 取り敢えず今日は起こらなかった。だが、いつ起こるかは分からない。いずれ――遠からず必ず起こる。

 その時この国はどうなるのだろう。

 そして僕は、彼女は――。

 不吉に鮮らかな朱色が、僕らの未来を暗示しているようだった。

「さあ、そろそろ帰ろうか」

 彼女は立ち上がり、一晩の間にすっかり乾いた靴を履いた。

「うん」

 次に目覚めたら、今できることをしよう。

 僕はそう決意して、またここに来れることを祈りつつ、朝焼けの海を後にした。


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