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あの夏へ

作者: ピザポテト
掲載日:2026/09/02

 夏は、こちらの事情など知らない顔で鳴いていた。


 ミーン、ミーン、と校舎の外で蝉が声を張り上げている。


 窓の向こうには、白く膨らんだ入道雲が浮かんでいた。雲の下に連なる緑の山々は、強い日差しのせいで輪郭がかすんでいる。


 開いた窓から入ってきた風が、白いカーテンをゆっくり膨らませた。


「えー、微分積分の基本は――」


 教壇に立つ教師の声が、教室の中を平らに流れていく。


 窓際の席で頬杖をついていた三浦悠真は、その声を半分も聞いていなかった。


 黒板に並ぶ記号を眺めているより、窓の外を見ている方がまだましだった。青空は広い。雲は勝手に形を変える。山の向こうへ行けば、今とは違う何かがあるようにも見える。


 もちろん、そんなものはない。


 三浦は十七年生きて、その程度のことはもう知っていた。


「最近、流行ってるよな。異世界もの」


 誰にも聞こえない声で呟く。


 事故に遭って。


 気がつけば知らない世界にいて。


 最初から特別な力を持っていて。


 仲間ができて。


 誰かに必要とされて。


 最後には世界まで救ってしまう。


 それは随分と都合のいい人生だと思う。


 努力するところから始めなくていい。失敗して、格好悪いところを誰かに見られる必要もない。何者でもない自分を、一から積み上げなくてもいい。


「俺にも、そんな人生あんのかな」


 三浦は入道雲を見上げた。


 少し迷ってから、ひどく小さな声で言った。


「……異世界に行け」


 風が吹いた。


 カーテンが揺れた。


 教師は黒板へ数式を書き続けていた。


 何も起こらなかった。


 三浦は口元だけで笑った。


「あるわけねぇか」


 自分で言っておきながら、少し恥ずかしくなった。


「まだ中二病引きずってんのかな、俺」


 昔は、もう少し単純だった。


 小学生の頃、百点と書かれた答案を受け取るだけで、一日中気分がよかった。運動会のリレーで一人追い抜けば、家に帰ってから何度もその瞬間を思い返した。


 褒められれば嬉しかった。


 友達と走るだけで楽しかった。


 できなかったことができるようになるのも、嫌いではなかった。


 けれど、いつからか、頑張る前に結果を考えるようになった。


 できなければ格好悪い。


 頑張って駄目だったら、逃げ道がなくなる。


 なら、最初から本気にならなければいい。


 そうやって少しずつ手放しているうちに、何が好きだったのかも分からなくなった。


 窓ガラスに自分の顔が薄く映っている。


 眠そうな目。


 力の抜けた口元。


 どこにでもいる、ただの高校生。


「……いつから、こうなったんだろ」


 そのときだった。


 ガラスに映っていた自分の向こう側を、一人の女子高校生が横切った。


 三浦の学校とは違う制服だった。


 白い半袖のブラウスに、細い紺色のリボン。濃い色のチェック柄のスカート。暗い茶色の長い髪が、歩くたび背中で揺れている。


 同い年くらいだろうか。


 少女は緩やかな坂道を下り、交差点へ向かっていた。


 学校の二階から見下ろすその交差点は、三浦にとって見慣れた景色だった。横断歩道。信号機。白いガードレール。夏の日差しを弾く青灰色のアスファルト。


 少女は歩道の端まで来た。


 信号は赤だった。


 けれど、彼女は立ち止まらなかった。


「……ん?」


 白いスニーカーが横断歩道の最初の線を踏む。


 その視線は前へ向いていたが、何も見ていないように思えた。


 坂の上から、大型トラックが走ってくる。


 少女はもう一歩、車道へ出た。


 三浦の頬から手が離れた。


「おい……」


 トラックは速度を落としていない。


 少女も止まらない。


 三浦は机へ両手をつき、勢いよく立ち上がった。


「おいおいおい!」


 ブレーキ音が、蝉の声を切り裂いた。


 キキィィィッ――。


 少女が振り向いたように見えた。


 直後、視界が白く弾けた。


 金属と金属がぶつかる、耳を塞ぎたくなるような音。


 誰かの悲鳴。


 教室の窓の向こうで、夏の景色が壊れた。


 そして、すべてが暗くなった。


     *


 ミーン……。


 暗闇の中へ、蝉の声が戻ってきた。


 三浦は息を呑み、目を開いた。


 教室だった。


 白いカーテンが揺れている。


 黒板の前では、教師がチョークを動かしていた。


 クラスメイトたちは何事もなかったようにノートを取っている。


 事故の音も。


 悲鳴も。


 白く弾けた景色も。


 どこにもなかった。


 三浦は反射的に立ち上がった。


「先生!」


 椅子が床を擦り、教室中の動きが止まった。


 教師が振り返る。


「どうした、三浦」


「女の子が轢かれます!」


 一瞬の沈黙。


 三浦は自分の声だけが、不自然に大きく響いたのを感じた。


「下の交差点です。トラックが来て、女の子が――」


 教師は眉を寄せながら窓へ近づき、二階から交差点を見下ろした。


 横断歩道には誰もいない。


 坂道にも、少女の姿はなかった。


「……何もないぞ」


 教室のどこかで、小さな笑いが起きた。


「寝てたんじゃね?」


「夢リアルすぎだろ」


 三浦は笑わなかった。


 目の前で何かが潰れる音が、まだ耳の奥に残っている。


 少女の姿も。


 白いスニーカーも。


 長い髪も。


 夢にしては、何もかもが鮮明すぎた。


「ほら、座れ。授業を続けるぞ」


 教師が黒板へ戻る。


「微分積分の基本だが――」


 三浦の表情が止まった。


「それ……」


 聞いた。


 確かに、さっきも聞いた。


 三浦は教室の壁時計を見上げた。


 短針は十。


 長針は十二。


 十時ちょうど。


 少女が轢かれたのは、十時十分頃だった。


「さっきも、言ってた」


 時計は普通に時を刻んでいる。


 針が逆に回ったわけではない。


 光に包まれたわけでもない。


 それでも三浦は、事故が起こる十分前の教室に座っている。


 夢ではない。


 理由は分からない。


 けれど、まだ間に合う。


 三浦は窓の外を見た。


 坂道の向こうから、先ほどと同じ少女が歩いてくる。


 白いブラウス。


 濃紺のスカート。


 暗い茶色の長い髪。


 同じ歩幅で。


 同じ交差点へ向かって。


 三浦は机から手を離した。


「わっかんねぇけど」


 椅子を引き、通路へ出る。


 教師が気づいて声を上げた。


「おい、三浦。今度は何だ」


 三浦は教室の引き戸を開けた。


「行くしかねぇだろ!」


「おい! 三浦!」


 教師の声を背中に受けながら、三浦は二階の廊下を走った。


 階段を駆け下りる。


 靴底が踊り場を叩くたび、肺が熱くなる。


 校舎を飛び出した瞬間、真夏の日差しが容赦なく降り注いだ。


 蝉が鳴いている。


 少女はまだ歩いている。


 事故まで、あと数分。


 三浦は坂道を全力で駆け下りた。


     *


 少女が歩道の端へ着く。


 信号は赤。


 坂の上から、トラックが来る。


 三浦は息を切らしながら叫んだ。


「止まれ!」


 少女は振り返らない。


 白いスニーカーが車道へ出る。


「危ねぇ!」


 三浦は少女の腕を掴んだ。


 細い身体が驚くほど軽く傾いた。


 二人で歩道へ倒れ込んだ直後、大型トラックが目の前を通過した。


 強い風が制服を揺らす。


 トラックは少し先でようやく停車した。


 クラクション。


 運転手の怒鳴る声。


 けれど三浦の耳には、自分の荒い呼吸しか入ってこなかった。


「はっ……大丈夫か?」


 少女は歩道に手をついたまま、三浦を見ていた。


 大きな瞳に驚きはあった。


 けれど、恐怖は薄かった。


 今にも轢かれそうになった人間の顔には見えない。


「怪我、ないか」


「……はい」


 少女はゆっくり立ち上がった。


 三浦が掴んでいた左手首には、小さな腕時計が巻かれていた。


 白い文字盤。


 細い茶色の革ベルト。


 秒針だけが、何事もなかったように動いている。


「赤だったぞ。見えてなかったのか?」


 少女は腕時計を隠すように、手首を反対の手で包んだ。


「少し、ぼんやりしてました」


「ぼんやりって……」


「助けてくれて、ありがとうございます」


 小さく頭を下げる。


 口元にはかすかな笑みがあった。


 けれど、その笑顔は形だけを後から作ったように見えた。


「本当に大丈夫か?」


「大丈夫です」


 少女はそれだけ言い、歩き出した。


「おい」


 呼び止めても、振り返らなかった。


 長い髪が風に揺れ、やがて坂道の向こうへ消えていく。


 三浦はその背中を見送りながら、妙な感覚を覚えていた。


 助けた。


 今度は間に合った。


 それなのに、胸の奥に残ったものは、安心とは少し違っていた。


     *


 放課後。


 三浦は校門を出て、ようやく長い息を吐いた。


 教師にはひどく叱られた。


 授業を抜け出した理由を説明しても信じてもらえず、反省文まで書かされた。


 当然だと思う。


 自分でも、何が起きたのか分からない。


「……まあ、助かってよかったか」


 理由が分からなくても、少女は生きている。


 それで十分だ。


 三浦はそう思うことにした。


 駅前へ近づくにつれ、人の声が増えた。


 いつもの雑踏ではなかった。


 救急車の赤い光。


 道路を塞ぐ警察車両。


 駅前ビルの下に集まる人々。


「何かあったんですか」


 三浦は人垣の外にいた会社員へ尋ねた。


「飛び降りらしいよ」


「え?」


「若い子だって。高校生じゃないかって」


 夏の音が遠ざかった。


 人の隙間から、地面に広げられたブルーシートが見えた。


 その下にいるものは見えない。


 見えてはいけない。


 けれど、シートの端から片方の腕だけが出ていた。


 白い制服の袖。


 細い手首。


 白い文字盤。


 茶色の革ベルト。


 秒針は、もう動いていなかった。


「……なんでだよ」


 三浦の足が止まる。


 昼間、確かに助けた。


 トラックから引き戻した。


 彼女は立っていた。


 歩いていた。


 ありがとうございました、と笑っていた。


「助けたじゃねぇか」


 誰に言ったのか分からない。


 視界が暗くなる。


 救急車の音も。


 人々の声も。


 蝉の声も。


 すべてが遠ざかる。


「助けたはずだろ……」


 暗闇が三浦を呑み込んだ。


     *


 ミーン……。


「えー、微分積分の基本は――」


 三浦は目を開いた。


 白いカーテン。


 黒板。


 教室。


 壁時計は十時ちょうど。


 今度は叫ばなかった。


 驚きもしなかった。


 ただ、机の上で両手を強く握った。


 事故から助けるだけでは、終わらない。


 少女は、トラックに轢かれたから死んだのではない。


 死ぬつもりだった。


 あの赤信号も。


 遠い目も。


 恐怖のない顔も。


 すべて最初から、そのためだったのだ。


 三浦は立ち上がった。


 教師が振り返るより早く、教室を飛び出す。


 今度こそ。


 事故ではなく、彼女を救うために。



三浦は少女を交差点の手前で待ち伏せた。


 坂道の向こうから、白い制服が見える。


 同じ歩幅。


 同じ無表情。


 同じ腕時計。


「おーい!」


 少女が足を止めた。


 不審そうに三浦を見る。


「……私ですか?」


「ああ」


 三浦は呼吸を整える余裕もなく、彼女の前へ立った。


「お前、死のうとしてるだろ」


 少女の表情から、わずかな柔らかさが消えた。


「……何ですか、いきなり」


「この先の交差点で、赤信号なのに車道へ出る。そのあと助かっても、駅前のビルから――」


「やめてください」


 声は小さかった。


 けれど、はっきりと拒絶していた。


「でも、俺は――」


「知らない人に、そんなこと言われたくありません」


 少女は三浦の横を通り過ぎた。


「待てよ」


「ついてこないでください」


 三浦は、それでも後を追った。


 交差点には近づけなかった。


 彼女が車道へ出そうになるたび、腕を掴んだ。


 駅へ向かえば、その前へ回った。


 高い建物へ入ろうとすれば、入口を塞いだ。


 少女は次第に苛立ち、最後には何も言わなくなった。


 夕方。


 ほんの一瞬、三浦が警察官へ事情を説明している間に、彼女は姿を消した。


 遠くで救急車の音がした。


 世界が暗くなった。


     *


 十時。


 蝉。


 教師の声。


 三浦はまた走った。


 今度は、死のうとしているとは言わなかった。


 事故だけを止めた。


「危ないぞ」


「……ありがとうございます」


「ちょっと待て。話がある」


「急いでいるので」


「じゃあ送る」


「結構です」


「いいから」


 少女は露骨に嫌そうな顔をした。


 三浦はそれでも離れなかった。


 コンビニへ入れば、外で待った。


 電車に乗れば、同じ車両へ乗った。


 彼女が自宅の近くまで戻ったとき、初めて三浦は安堵した。


 家へ帰れば大丈夫だと思った。


 けれど、その夜。


 暗闇は再び訪れた。


     *


 十時。


 三浦は少女を笑わせようとした。


「アイス食わないか」


「どうしてですか」


「暑いだろ」


「あなたも暑そうですね」


「走ってきたからな」


「どうして走ってきたんですか」


「それは……まあ、色々あって」


 少女は怪訝そうな顔をしながらも、コンビニのカップアイスを受け取った。


 彼女が好きなのはバニラよりソーダ味だった。


 猫を見ると、ほんの少し足を止めた。


 数学が得意で、国語が苦手だった。


 夏祭りは人が多いから嫌いだと言った。


 花火は遠くから見る方が好きらしい。


 少女は一度だけ、自然に笑った。


 それでも、その日の終わりに暗闇は来た。


     *


 十時。


 十時。


 十時。


 夏は何度でも同じ顔で始まった。


 教師は同じ数式を書いた。


 カーテンは同じ方向へ揺れた。


 少女は同じ坂道を歩いた。


 けれど、死に方だけが変わった。


 三浦が交差点を見張れば、彼女は駅へ向かった。


 駅を避ければ、別の場所へ消えた。


 教師を呼んだ。


 警察へ訴えた。


 少女の学校へ連絡した。


 家族を探した。


 それでも彼女は、誰かに囲まれるほど何も話さなくなった。


 死ぬな、と言った。


 生きていればいいことがある、と言った。


 まだ若い、と言った。


 家族が悲しむ、と言った。


 思いつく限りの正しい言葉を並べた。


 どれも彼女には届かなかった。


 ある夏の夕方。


 少女は三浦を真っ直ぐ見て言った。


「あなた、私を見てないですよね」


「見てるだろ。ずっと」


「違います」


 少女は左手首の腕時計に触れた。


「あなたが見てるのは、死のうとしてる私だけです」


 三浦は答えられなかった。


「私が何を好きかとか、何が嫌いかとか。どうしてこうなったのかとか。本当はどうしたいのかとか」


「それは……」


「死なせないことしか考えてない」


 少女は少しだけ寂しそうに笑った。


「それって、私じゃなくてもいいじゃないですか」


 その夜も、世界は暗くなった。


     *


 ミーン……。


「えー、微分積分の基本は――」


 三浦は机に伏せたまま、しばらく動かなかった。


 身体が重かった。


 何度走ったのか、もう数えていない。


 何度少女の腕を掴んだのか。


 何度、止まった腕時計を見たのか。


 助けたいと思っていた。


 それは嘘ではない。


 けれど少女の言う通りだった。


 三浦は彼女を、解かなければならない問題のように見ていた。


 自分が正しい答えを言えば、生きるはずだと思っていた。


 世界を救う物語の主人公のように、最後には自分の言葉が誰かを変えると、どこかで信じていた。


 それは結局、異世界への憧れと同じだった。


 自分が特別な役割を与えられたかっただけなのかもしれない。


 三浦は顔を上げた。


 壁時計は十時。


 少女が交差点に着くまで、まだ時間がある。


 彼は教室を出た。


     *


 少女はいつもの歩道を歩いていた。


 三浦は走らなかった。


 息を切らさず、彼女の前へ立つ。


 少女が警戒する。


「また、あなたですか」


「変なんです」


「初めて会ったはずなのに」


 もちろん彼女にとっては、初対面だった。


「そうだな」


「どこかで会いました?」


「俺は会った」


「私は覚えてません」


「知ってる」


 少女は眉を寄せた。


 三浦は交差点の信号を見た。まだ赤だ。


「名前、教えてくれないか」


「……何でですか」


「知らないままなの、嫌になった」


 少女は黙った。


 風が長い髪を揺らす。


「三浦悠真。二年」


「聞いてません」


「俺だけ名乗るのも変だろ」


「勝手に名乗ったんじゃないですか」


「そうだけど」


 少女の口元が、ほんの少し動いた。


 笑ったのかもしれない。


 しばらくして、彼女は言った。


「高瀬」


「下は?」


「そこまで教える必要あります?」


「ある」


「ありません」


 三浦は肩を落とした。


 少女――高瀬は、横断歩道へ目を向けた。


 信号はまだ赤だった。


 彼女は足を前へ出しかけた。


 三浦は腕を掴まなかった。


「赤だぞ」


 ただ、それだけ言った。


 高瀬は白線の手前で止まった。


「……見えてます」


「なら、青まで待て」


「命令ですか」


「お願い」


 やがて信号が青へ変わった。


 高瀬は横断歩道を渡る。


 三浦も少し離れて隣を歩いた。


「ついてこないでください」


「それもお願い?」


「命令です」


「じゃあ無理だな」


「意味が分かりません」


 それでも高瀬は、前ほど速く歩かなかった。


     *


 その日は、何も解決しようとしなかった。


 三浦は理由を聞かなかった。


 死ぬなとも言わなかった。


 ただ、高瀬が歩く横を歩いた。


 駅前のベンチ。


 コンビニのソーダアイス。


 木陰で眠る野良猫。


 高瀬は自分から多くを話さなかった。


 けれど、沈黙を埋めようともしなかった。


「高瀬って、アイス食うの遅いな」


「溶かしてるんです」


「何で」


「柔らかい方が好きなので」


「最初からソフトクリーム買えよ」


「溶けかけのアイスと、ソフトクリームは違います」


「何が」


「全部です」


 三浦には分からなかったが、高瀬が少し笑ったので、それ以上は言わなかった。


「下の名前」


「まだ言ってたんですか」


「気になるだろ」


「遥です」


「へえ」


「聞いておいて、それだけですか」


「普通の名前だなと思って」


「三浦悠真に言われたくありません」


「俺の名前、覚えてんじゃん」


 高瀬遥は、しまったという顔をした。


 その表情を見て、三浦は初めて彼女が普通の高校生に見えた。


 死のうとしている少女ではない。


 ソーダアイスをゆっくり溶かして食べる、高校二年生の女の子。


     *


 夕方、遥は古い商業施設の屋上へ向かった。


 そこには小さな展望スペースと、使われなくなった遊具があった。


 街の向こうに山が見える。


 空は青から橙へ変わり始めていた。


 遥はフェンスから離れたベンチへ座った。


 三浦も少し間を空けて腰を下ろす。


「ここ、好きなのか」


「人がいないので」


「高いところも?」


 遥は返事をしなかった。


 風が吹く。


 長い髪が頬へかかり、遥はそれを耳へかけた。


 左手首の腕時計に触れる。


 何度も見た仕草だった。


「三浦くんは」


 初めて名前を呼ばれた。


「何で、私についてくるんですか」


 三浦はすぐには答えなかった。


 何度も用意した言葉があった。


 助けたい。


 死んでほしくない。


 命を粗末にするな。


 けれど、それらはすべて遥のためというより、自分が安心するための言葉だった。


「俺、今日を何度もやり直した」


 遥が横を見る。


「変な話だけど」


「かなり変です」


「お前が死ぬと、十時に戻る」


 遥は笑わなかった。


「事故の日も。駅前でも。そのあとも。何回も」


「……夢じゃなくて?」


「だったらよかった」


 三浦は空を見た。


「最初は、事故を止めればいいと思った。次は一日中見張ればいいと思った。死ぬなって言えば、分かると思った」


 遥は何も言わない。


「でも、俺はお前を助けたいんじゃなくて、自分が助けたことにしたかっただけかもしれない」


「そんなこと……」


「あるよ」


 三浦は自嘲するように笑った。


「異世界に行きたいとか考えてたし」


「……何ですか、それ」


「事故に遭ったら、特別な力を持って別の世界へ行けると思ってた」


「本気で?」


「半分くらい」


「半分も?」


 遥が小さく笑った。


 それは今まで見た中で、一番自然な笑顔だった。


 三浦も少し笑った。


「俺、昔は何でもそこそこできたんだ。勉強も、運動も。でも、上には上がいるって分かってから、頑張るのやめた」


「どうして?」


「本気でやって負けたら、言い訳できないだろ」


 風が止んだ。


「だから最初から、どうでもいいふりしてた。つまらないのは世界のせいだって思ってた」


「私は逆ですね」


 遥は夕暮れの街へ目を向けた。


「やめられなかった」


 その声は静かだった。


「テストで九十点を取ったら、次は百点って言われました。百点を取ったら、今度は学年一位って」


 腕時計の革ベルトを指でなぞる。


「家では、私ならできるって言われて。学校では、しっかりしてるって言われて。友達には、遥なら大丈夫って言われて」


「……うん」


「できないって言ったことがないんです。疲れたとも。嫌だとも」


 遥は空を見たまま続けた。


「一回でも言ったら、全部崩れる気がして」


「崩れていいだろ」


「簡単に言わないでください」


「簡単じゃない」


 三浦は遥を見た。


「俺は先に全部投げた。お前は何も投げられなかった。どっちも、逃げ方を間違えただけだと思う」


 遥の指が止まった。


「逃げても、いいんですか」


「いいだろ」


「無責任ですね」


「責任持てるほど、立派じゃないからな」


 遥の目から、一筋だけ涙が落ちた。


 泣き顔にはならなかった。


 ただ、ずっと張りつめていたものが、ほんの少し緩んだように見えた。


「私、もう全部終わってもいいかなって思ってました」


「うん」


「今も、明日から頑張れるとは思えません」


「頑張らなくていい」


「学校も、家も、何も変わらないですよ」


「世界は変わらないかもしれない」


 三浦は夕焼けの空を見上げた。


「異世界なんて、なかったし」


「まだ言ってるんですか」


「でも、明日になったら、嫌だって言える」


「言えなかったら?」


「その次の日に言えばいい」


「それも駄目だったら?」


「また次」


「ずっと言えなかったら?」


 三浦は少し考えた。


「俺が聞く」


 遥が顔を上げる。


「何回でも聞く。だから」


 三浦は言葉を探した。


 格好いいことは言えなかった。


 世界を救う方法も知らない。


 彼女の苦しみを全部理解したとも言えない。


「明日も、生きてここにいろよ」


 風が吹いた。


 遥の髪が揺れた。


「一緒に、生きよう」


 遥はすぐに答えなかった。


 山の向こうへ日が沈んでいく。


 街の明かりが一つずつ灯る。


 遥は腕時計を見た。


 秒針は前へ進んでいた。


「……うん」


 その声は、風に紛れそうなほど小さかった。


 けれど三浦には、はっきり聞こえた。


     *


 翌日。


 夏は何も知らない顔で続いていた。


 蝉が鳴いている。


 白いカーテンが揺れている。


 教師は昨日とは違う問題を黒板へ書いていた。


「それじゃ、この式を解いてみろ」


 三浦はノートを閉じた。


 ふと窓の外を見る。


 同じ交差点。


 同じ時刻。


 同じ白い制服。


 遥が歩道を歩いてくる。


「……アイツ、また!」


 三浦は反射的に立ち上がりかけた。


 心臓が強く鳴る。


 遥が信号へ近づく。


 赤信号。


 昨日までなら、そのまま車道へ出ていた。


 遥は白線の手前で立ち止まった。


 三浦の身体から、少しだけ力が抜ける。


 遥が顔を上げた。


 二階の窓へ目を向ける。


 距離がある。


 声が届くはずもない。


 それでも二人の目が合った。


 遥は笑った。


 昨日までの、形だけの笑顔ではない。


 目元まで柔らかくなる、小さな笑顔。


 そして大きく手を振った。


「ありがとう!」


 その声は蝉の鳴き声にかき消された。


 三浦には聞こえなかった。


 けれど、何と言ったのかは分かった。


 三浦はゆっくり椅子へ腰を下ろした。


 少し迷ってから、窓の外へ手を振り返す。


 信号が青へ変わる。


 遥は自分の足で、横断歩道へ踏み出した。


 一歩。


 もう一歩。


 白い線の上を渡り、向こう側の歩道へ着く。


 振り返ることなく、その先へ歩いていく、やがて遙の姿


 は見えなくなった。


 ミーン。


 ミーン。


 夏は何も変わらない。


 青空も。


 雲も。


 校舎も。


 窓から入る風も。


 それでも、三浦は昨日までと同じではなかった。


 異世界なんて、結局なかった。


 この世界は、異世界じゃない。


 特別な力もない。


 最初から強い自分にもなれない。


 世界を救うこともできない。


 それでも。


 目の前の誰かへ、手を伸ばすことはできる。


 そしてきっと、自分自身にも。


 三浦は青空を見上げた。


 入道雲が、ゆっくり形を変えていた。


 


――了

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