あの夏へ
夏は、こちらの事情など知らない顔で鳴いていた。
ミーン、ミーン、と校舎の外で蝉が声を張り上げている。
窓の向こうには、白く膨らんだ入道雲が浮かんでいた。雲の下に連なる緑の山々は、強い日差しのせいで輪郭がかすんでいる。
開いた窓から入ってきた風が、白いカーテンをゆっくり膨らませた。
「えー、微分積分の基本は――」
教壇に立つ教師の声が、教室の中を平らに流れていく。
窓際の席で頬杖をついていた三浦悠真は、その声を半分も聞いていなかった。
黒板に並ぶ記号を眺めているより、窓の外を見ている方がまだましだった。青空は広い。雲は勝手に形を変える。山の向こうへ行けば、今とは違う何かがあるようにも見える。
もちろん、そんなものはない。
三浦は十七年生きて、その程度のことはもう知っていた。
「最近、流行ってるよな。異世界もの」
誰にも聞こえない声で呟く。
事故に遭って。
気がつけば知らない世界にいて。
最初から特別な力を持っていて。
仲間ができて。
誰かに必要とされて。
最後には世界まで救ってしまう。
それは随分と都合のいい人生だと思う。
努力するところから始めなくていい。失敗して、格好悪いところを誰かに見られる必要もない。何者でもない自分を、一から積み上げなくてもいい。
「俺にも、そんな人生あんのかな」
三浦は入道雲を見上げた。
少し迷ってから、ひどく小さな声で言った。
「……異世界に行け」
風が吹いた。
カーテンが揺れた。
教師は黒板へ数式を書き続けていた。
何も起こらなかった。
三浦は口元だけで笑った。
「あるわけねぇか」
自分で言っておきながら、少し恥ずかしくなった。
「まだ中二病引きずってんのかな、俺」
昔は、もう少し単純だった。
小学生の頃、百点と書かれた答案を受け取るだけで、一日中気分がよかった。運動会のリレーで一人追い抜けば、家に帰ってから何度もその瞬間を思い返した。
褒められれば嬉しかった。
友達と走るだけで楽しかった。
できなかったことができるようになるのも、嫌いではなかった。
けれど、いつからか、頑張る前に結果を考えるようになった。
できなければ格好悪い。
頑張って駄目だったら、逃げ道がなくなる。
なら、最初から本気にならなければいい。
そうやって少しずつ手放しているうちに、何が好きだったのかも分からなくなった。
窓ガラスに自分の顔が薄く映っている。
眠そうな目。
力の抜けた口元。
どこにでもいる、ただの高校生。
「……いつから、こうなったんだろ」
そのときだった。
ガラスに映っていた自分の向こう側を、一人の女子高校生が横切った。
三浦の学校とは違う制服だった。
白い半袖のブラウスに、細い紺色のリボン。濃い色のチェック柄のスカート。暗い茶色の長い髪が、歩くたび背中で揺れている。
同い年くらいだろうか。
少女は緩やかな坂道を下り、交差点へ向かっていた。
学校の二階から見下ろすその交差点は、三浦にとって見慣れた景色だった。横断歩道。信号機。白いガードレール。夏の日差しを弾く青灰色のアスファルト。
少女は歩道の端まで来た。
信号は赤だった。
けれど、彼女は立ち止まらなかった。
「……ん?」
白いスニーカーが横断歩道の最初の線を踏む。
その視線は前へ向いていたが、何も見ていないように思えた。
坂の上から、大型トラックが走ってくる。
少女はもう一歩、車道へ出た。
三浦の頬から手が離れた。
「おい……」
トラックは速度を落としていない。
少女も止まらない。
三浦は机へ両手をつき、勢いよく立ち上がった。
「おいおいおい!」
ブレーキ音が、蝉の声を切り裂いた。
キキィィィッ――。
少女が振り向いたように見えた。
直後、視界が白く弾けた。
金属と金属がぶつかる、耳を塞ぎたくなるような音。
誰かの悲鳴。
教室の窓の向こうで、夏の景色が壊れた。
そして、すべてが暗くなった。
*
ミーン……。
暗闇の中へ、蝉の声が戻ってきた。
三浦は息を呑み、目を開いた。
教室だった。
白いカーテンが揺れている。
黒板の前では、教師がチョークを動かしていた。
クラスメイトたちは何事もなかったようにノートを取っている。
事故の音も。
悲鳴も。
白く弾けた景色も。
どこにもなかった。
三浦は反射的に立ち上がった。
「先生!」
椅子が床を擦り、教室中の動きが止まった。
教師が振り返る。
「どうした、三浦」
「女の子が轢かれます!」
一瞬の沈黙。
三浦は自分の声だけが、不自然に大きく響いたのを感じた。
「下の交差点です。トラックが来て、女の子が――」
教師は眉を寄せながら窓へ近づき、二階から交差点を見下ろした。
横断歩道には誰もいない。
坂道にも、少女の姿はなかった。
「……何もないぞ」
教室のどこかで、小さな笑いが起きた。
「寝てたんじゃね?」
「夢リアルすぎだろ」
三浦は笑わなかった。
目の前で何かが潰れる音が、まだ耳の奥に残っている。
少女の姿も。
白いスニーカーも。
長い髪も。
夢にしては、何もかもが鮮明すぎた。
「ほら、座れ。授業を続けるぞ」
教師が黒板へ戻る。
「微分積分の基本だが――」
三浦の表情が止まった。
「それ……」
聞いた。
確かに、さっきも聞いた。
三浦は教室の壁時計を見上げた。
短針は十。
長針は十二。
十時ちょうど。
少女が轢かれたのは、十時十分頃だった。
「さっきも、言ってた」
時計は普通に時を刻んでいる。
針が逆に回ったわけではない。
光に包まれたわけでもない。
それでも三浦は、事故が起こる十分前の教室に座っている。
夢ではない。
理由は分からない。
けれど、まだ間に合う。
三浦は窓の外を見た。
坂道の向こうから、先ほどと同じ少女が歩いてくる。
白いブラウス。
濃紺のスカート。
暗い茶色の長い髪。
同じ歩幅で。
同じ交差点へ向かって。
三浦は机から手を離した。
「わっかんねぇけど」
椅子を引き、通路へ出る。
教師が気づいて声を上げた。
「おい、三浦。今度は何だ」
三浦は教室の引き戸を開けた。
「行くしかねぇだろ!」
「おい! 三浦!」
教師の声を背中に受けながら、三浦は二階の廊下を走った。
階段を駆け下りる。
靴底が踊り場を叩くたび、肺が熱くなる。
校舎を飛び出した瞬間、真夏の日差しが容赦なく降り注いだ。
蝉が鳴いている。
少女はまだ歩いている。
事故まで、あと数分。
三浦は坂道を全力で駆け下りた。
*
少女が歩道の端へ着く。
信号は赤。
坂の上から、トラックが来る。
三浦は息を切らしながら叫んだ。
「止まれ!」
少女は振り返らない。
白いスニーカーが車道へ出る。
「危ねぇ!」
三浦は少女の腕を掴んだ。
細い身体が驚くほど軽く傾いた。
二人で歩道へ倒れ込んだ直後、大型トラックが目の前を通過した。
強い風が制服を揺らす。
トラックは少し先でようやく停車した。
クラクション。
運転手の怒鳴る声。
けれど三浦の耳には、自分の荒い呼吸しか入ってこなかった。
「はっ……大丈夫か?」
少女は歩道に手をついたまま、三浦を見ていた。
大きな瞳に驚きはあった。
けれど、恐怖は薄かった。
今にも轢かれそうになった人間の顔には見えない。
「怪我、ないか」
「……はい」
少女はゆっくり立ち上がった。
三浦が掴んでいた左手首には、小さな腕時計が巻かれていた。
白い文字盤。
細い茶色の革ベルト。
秒針だけが、何事もなかったように動いている。
「赤だったぞ。見えてなかったのか?」
少女は腕時計を隠すように、手首を反対の手で包んだ。
「少し、ぼんやりしてました」
「ぼんやりって……」
「助けてくれて、ありがとうございます」
小さく頭を下げる。
口元にはかすかな笑みがあった。
けれど、その笑顔は形だけを後から作ったように見えた。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫です」
少女はそれだけ言い、歩き出した。
「おい」
呼び止めても、振り返らなかった。
長い髪が風に揺れ、やがて坂道の向こうへ消えていく。
三浦はその背中を見送りながら、妙な感覚を覚えていた。
助けた。
今度は間に合った。
それなのに、胸の奥に残ったものは、安心とは少し違っていた。
*
放課後。
三浦は校門を出て、ようやく長い息を吐いた。
教師にはひどく叱られた。
授業を抜け出した理由を説明しても信じてもらえず、反省文まで書かされた。
当然だと思う。
自分でも、何が起きたのか分からない。
「……まあ、助かってよかったか」
理由が分からなくても、少女は生きている。
それで十分だ。
三浦はそう思うことにした。
駅前へ近づくにつれ、人の声が増えた。
いつもの雑踏ではなかった。
救急車の赤い光。
道路を塞ぐ警察車両。
駅前ビルの下に集まる人々。
「何かあったんですか」
三浦は人垣の外にいた会社員へ尋ねた。
「飛び降りらしいよ」
「え?」
「若い子だって。高校生じゃないかって」
夏の音が遠ざかった。
人の隙間から、地面に広げられたブルーシートが見えた。
その下にいるものは見えない。
見えてはいけない。
けれど、シートの端から片方の腕だけが出ていた。
白い制服の袖。
細い手首。
白い文字盤。
茶色の革ベルト。
秒針は、もう動いていなかった。
「……なんでだよ」
三浦の足が止まる。
昼間、確かに助けた。
トラックから引き戻した。
彼女は立っていた。
歩いていた。
ありがとうございました、と笑っていた。
「助けたじゃねぇか」
誰に言ったのか分からない。
視界が暗くなる。
救急車の音も。
人々の声も。
蝉の声も。
すべてが遠ざかる。
「助けたはずだろ……」
暗闇が三浦を呑み込んだ。
*
ミーン……。
「えー、微分積分の基本は――」
三浦は目を開いた。
白いカーテン。
黒板。
教室。
壁時計は十時ちょうど。
今度は叫ばなかった。
驚きもしなかった。
ただ、机の上で両手を強く握った。
事故から助けるだけでは、終わらない。
少女は、トラックに轢かれたから死んだのではない。
死ぬつもりだった。
あの赤信号も。
遠い目も。
恐怖のない顔も。
すべて最初から、そのためだったのだ。
三浦は立ち上がった。
教師が振り返るより早く、教室を飛び出す。
今度こそ。
事故ではなく、彼女を救うために。
三浦は少女を交差点の手前で待ち伏せた。
坂道の向こうから、白い制服が見える。
同じ歩幅。
同じ無表情。
同じ腕時計。
「おーい!」
少女が足を止めた。
不審そうに三浦を見る。
「……私ですか?」
「ああ」
三浦は呼吸を整える余裕もなく、彼女の前へ立った。
「お前、死のうとしてるだろ」
少女の表情から、わずかな柔らかさが消えた。
「……何ですか、いきなり」
「この先の交差点で、赤信号なのに車道へ出る。そのあと助かっても、駅前のビルから――」
「やめてください」
声は小さかった。
けれど、はっきりと拒絶していた。
「でも、俺は――」
「知らない人に、そんなこと言われたくありません」
少女は三浦の横を通り過ぎた。
「待てよ」
「ついてこないでください」
三浦は、それでも後を追った。
交差点には近づけなかった。
彼女が車道へ出そうになるたび、腕を掴んだ。
駅へ向かえば、その前へ回った。
高い建物へ入ろうとすれば、入口を塞いだ。
少女は次第に苛立ち、最後には何も言わなくなった。
夕方。
ほんの一瞬、三浦が警察官へ事情を説明している間に、彼女は姿を消した。
遠くで救急車の音がした。
世界が暗くなった。
*
十時。
蝉。
教師の声。
三浦はまた走った。
今度は、死のうとしているとは言わなかった。
事故だけを止めた。
「危ないぞ」
「……ありがとうございます」
「ちょっと待て。話がある」
「急いでいるので」
「じゃあ送る」
「結構です」
「いいから」
少女は露骨に嫌そうな顔をした。
三浦はそれでも離れなかった。
コンビニへ入れば、外で待った。
電車に乗れば、同じ車両へ乗った。
彼女が自宅の近くまで戻ったとき、初めて三浦は安堵した。
家へ帰れば大丈夫だと思った。
けれど、その夜。
暗闇は再び訪れた。
*
十時。
三浦は少女を笑わせようとした。
「アイス食わないか」
「どうしてですか」
「暑いだろ」
「あなたも暑そうですね」
「走ってきたからな」
「どうして走ってきたんですか」
「それは……まあ、色々あって」
少女は怪訝そうな顔をしながらも、コンビニのカップアイスを受け取った。
彼女が好きなのはバニラよりソーダ味だった。
猫を見ると、ほんの少し足を止めた。
数学が得意で、国語が苦手だった。
夏祭りは人が多いから嫌いだと言った。
花火は遠くから見る方が好きらしい。
少女は一度だけ、自然に笑った。
それでも、その日の終わりに暗闇は来た。
*
十時。
十時。
十時。
夏は何度でも同じ顔で始まった。
教師は同じ数式を書いた。
カーテンは同じ方向へ揺れた。
少女は同じ坂道を歩いた。
けれど、死に方だけが変わった。
三浦が交差点を見張れば、彼女は駅へ向かった。
駅を避ければ、別の場所へ消えた。
教師を呼んだ。
警察へ訴えた。
少女の学校へ連絡した。
家族を探した。
それでも彼女は、誰かに囲まれるほど何も話さなくなった。
死ぬな、と言った。
生きていればいいことがある、と言った。
まだ若い、と言った。
家族が悲しむ、と言った。
思いつく限りの正しい言葉を並べた。
どれも彼女には届かなかった。
ある夏の夕方。
少女は三浦を真っ直ぐ見て言った。
「あなた、私を見てないですよね」
「見てるだろ。ずっと」
「違います」
少女は左手首の腕時計に触れた。
「あなたが見てるのは、死のうとしてる私だけです」
三浦は答えられなかった。
「私が何を好きかとか、何が嫌いかとか。どうしてこうなったのかとか。本当はどうしたいのかとか」
「それは……」
「死なせないことしか考えてない」
少女は少しだけ寂しそうに笑った。
「それって、私じゃなくてもいいじゃないですか」
その夜も、世界は暗くなった。
*
ミーン……。
「えー、微分積分の基本は――」
三浦は机に伏せたまま、しばらく動かなかった。
身体が重かった。
何度走ったのか、もう数えていない。
何度少女の腕を掴んだのか。
何度、止まった腕時計を見たのか。
助けたいと思っていた。
それは嘘ではない。
けれど少女の言う通りだった。
三浦は彼女を、解かなければならない問題のように見ていた。
自分が正しい答えを言えば、生きるはずだと思っていた。
世界を救う物語の主人公のように、最後には自分の言葉が誰かを変えると、どこかで信じていた。
それは結局、異世界への憧れと同じだった。
自分が特別な役割を与えられたかっただけなのかもしれない。
三浦は顔を上げた。
壁時計は十時。
少女が交差点に着くまで、まだ時間がある。
彼は教室を出た。
*
少女はいつもの歩道を歩いていた。
三浦は走らなかった。
息を切らさず、彼女の前へ立つ。
少女が警戒する。
「また、あなたですか」
「変なんです」
「初めて会ったはずなのに」
もちろん彼女にとっては、初対面だった。
「そうだな」
「どこかで会いました?」
「俺は会った」
「私は覚えてません」
「知ってる」
少女は眉を寄せた。
三浦は交差点の信号を見た。まだ赤だ。
「名前、教えてくれないか」
「……何でですか」
「知らないままなの、嫌になった」
少女は黙った。
風が長い髪を揺らす。
「三浦悠真。二年」
「聞いてません」
「俺だけ名乗るのも変だろ」
「勝手に名乗ったんじゃないですか」
「そうだけど」
少女の口元が、ほんの少し動いた。
笑ったのかもしれない。
しばらくして、彼女は言った。
「高瀬」
「下は?」
「そこまで教える必要あります?」
「ある」
「ありません」
三浦は肩を落とした。
少女――高瀬は、横断歩道へ目を向けた。
信号はまだ赤だった。
彼女は足を前へ出しかけた。
三浦は腕を掴まなかった。
「赤だぞ」
ただ、それだけ言った。
高瀬は白線の手前で止まった。
「……見えてます」
「なら、青まで待て」
「命令ですか」
「お願い」
やがて信号が青へ変わった。
高瀬は横断歩道を渡る。
三浦も少し離れて隣を歩いた。
「ついてこないでください」
「それもお願い?」
「命令です」
「じゃあ無理だな」
「意味が分かりません」
それでも高瀬は、前ほど速く歩かなかった。
*
その日は、何も解決しようとしなかった。
三浦は理由を聞かなかった。
死ぬなとも言わなかった。
ただ、高瀬が歩く横を歩いた。
駅前のベンチ。
コンビニのソーダアイス。
木陰で眠る野良猫。
高瀬は自分から多くを話さなかった。
けれど、沈黙を埋めようともしなかった。
「高瀬って、アイス食うの遅いな」
「溶かしてるんです」
「何で」
「柔らかい方が好きなので」
「最初からソフトクリーム買えよ」
「溶けかけのアイスと、ソフトクリームは違います」
「何が」
「全部です」
三浦には分からなかったが、高瀬が少し笑ったので、それ以上は言わなかった。
「下の名前」
「まだ言ってたんですか」
「気になるだろ」
「遥です」
「へえ」
「聞いておいて、それだけですか」
「普通の名前だなと思って」
「三浦悠真に言われたくありません」
「俺の名前、覚えてんじゃん」
高瀬遥は、しまったという顔をした。
その表情を見て、三浦は初めて彼女が普通の高校生に見えた。
死のうとしている少女ではない。
ソーダアイスをゆっくり溶かして食べる、高校二年生の女の子。
*
夕方、遥は古い商業施設の屋上へ向かった。
そこには小さな展望スペースと、使われなくなった遊具があった。
街の向こうに山が見える。
空は青から橙へ変わり始めていた。
遥はフェンスから離れたベンチへ座った。
三浦も少し間を空けて腰を下ろす。
「ここ、好きなのか」
「人がいないので」
「高いところも?」
遥は返事をしなかった。
風が吹く。
長い髪が頬へかかり、遥はそれを耳へかけた。
左手首の腕時計に触れる。
何度も見た仕草だった。
「三浦くんは」
初めて名前を呼ばれた。
「何で、私についてくるんですか」
三浦はすぐには答えなかった。
何度も用意した言葉があった。
助けたい。
死んでほしくない。
命を粗末にするな。
けれど、それらはすべて遥のためというより、自分が安心するための言葉だった。
「俺、今日を何度もやり直した」
遥が横を見る。
「変な話だけど」
「かなり変です」
「お前が死ぬと、十時に戻る」
遥は笑わなかった。
「事故の日も。駅前でも。そのあとも。何回も」
「……夢じゃなくて?」
「だったらよかった」
三浦は空を見た。
「最初は、事故を止めればいいと思った。次は一日中見張ればいいと思った。死ぬなって言えば、分かると思った」
遥は何も言わない。
「でも、俺はお前を助けたいんじゃなくて、自分が助けたことにしたかっただけかもしれない」
「そんなこと……」
「あるよ」
三浦は自嘲するように笑った。
「異世界に行きたいとか考えてたし」
「……何ですか、それ」
「事故に遭ったら、特別な力を持って別の世界へ行けると思ってた」
「本気で?」
「半分くらい」
「半分も?」
遥が小さく笑った。
それは今まで見た中で、一番自然な笑顔だった。
三浦も少し笑った。
「俺、昔は何でもそこそこできたんだ。勉強も、運動も。でも、上には上がいるって分かってから、頑張るのやめた」
「どうして?」
「本気でやって負けたら、言い訳できないだろ」
風が止んだ。
「だから最初から、どうでもいいふりしてた。つまらないのは世界のせいだって思ってた」
「私は逆ですね」
遥は夕暮れの街へ目を向けた。
「やめられなかった」
その声は静かだった。
「テストで九十点を取ったら、次は百点って言われました。百点を取ったら、今度は学年一位って」
腕時計の革ベルトを指でなぞる。
「家では、私ならできるって言われて。学校では、しっかりしてるって言われて。友達には、遥なら大丈夫って言われて」
「……うん」
「できないって言ったことがないんです。疲れたとも。嫌だとも」
遥は空を見たまま続けた。
「一回でも言ったら、全部崩れる気がして」
「崩れていいだろ」
「簡単に言わないでください」
「簡単じゃない」
三浦は遥を見た。
「俺は先に全部投げた。お前は何も投げられなかった。どっちも、逃げ方を間違えただけだと思う」
遥の指が止まった。
「逃げても、いいんですか」
「いいだろ」
「無責任ですね」
「責任持てるほど、立派じゃないからな」
遥の目から、一筋だけ涙が落ちた。
泣き顔にはならなかった。
ただ、ずっと張りつめていたものが、ほんの少し緩んだように見えた。
「私、もう全部終わってもいいかなって思ってました」
「うん」
「今も、明日から頑張れるとは思えません」
「頑張らなくていい」
「学校も、家も、何も変わらないですよ」
「世界は変わらないかもしれない」
三浦は夕焼けの空を見上げた。
「異世界なんて、なかったし」
「まだ言ってるんですか」
「でも、明日になったら、嫌だって言える」
「言えなかったら?」
「その次の日に言えばいい」
「それも駄目だったら?」
「また次」
「ずっと言えなかったら?」
三浦は少し考えた。
「俺が聞く」
遥が顔を上げる。
「何回でも聞く。だから」
三浦は言葉を探した。
格好いいことは言えなかった。
世界を救う方法も知らない。
彼女の苦しみを全部理解したとも言えない。
「明日も、生きてここにいろよ」
風が吹いた。
遥の髪が揺れた。
「一緒に、生きよう」
遥はすぐに答えなかった。
山の向こうへ日が沈んでいく。
街の明かりが一つずつ灯る。
遥は腕時計を見た。
秒針は前へ進んでいた。
「……うん」
その声は、風に紛れそうなほど小さかった。
けれど三浦には、はっきり聞こえた。
*
翌日。
夏は何も知らない顔で続いていた。
蝉が鳴いている。
白いカーテンが揺れている。
教師は昨日とは違う問題を黒板へ書いていた。
「それじゃ、この式を解いてみろ」
三浦はノートを閉じた。
ふと窓の外を見る。
同じ交差点。
同じ時刻。
同じ白い制服。
遥が歩道を歩いてくる。
「……アイツ、また!」
三浦は反射的に立ち上がりかけた。
心臓が強く鳴る。
遥が信号へ近づく。
赤信号。
昨日までなら、そのまま車道へ出ていた。
遥は白線の手前で立ち止まった。
三浦の身体から、少しだけ力が抜ける。
遥が顔を上げた。
二階の窓へ目を向ける。
距離がある。
声が届くはずもない。
それでも二人の目が合った。
遥は笑った。
昨日までの、形だけの笑顔ではない。
目元まで柔らかくなる、小さな笑顔。
そして大きく手を振った。
「ありがとう!」
その声は蝉の鳴き声にかき消された。
三浦には聞こえなかった。
けれど、何と言ったのかは分かった。
三浦はゆっくり椅子へ腰を下ろした。
少し迷ってから、窓の外へ手を振り返す。
信号が青へ変わる。
遥は自分の足で、横断歩道へ踏み出した。
一歩。
もう一歩。
白い線の上を渡り、向こう側の歩道へ着く。
振り返ることなく、その先へ歩いていく、やがて遙の姿
は見えなくなった。
ミーン。
ミーン。
夏は何も変わらない。
青空も。
雲も。
校舎も。
窓から入る風も。
それでも、三浦は昨日までと同じではなかった。
異世界なんて、結局なかった。
この世界は、異世界じゃない。
特別な力もない。
最初から強い自分にもなれない。
世界を救うこともできない。
それでも。
目の前の誰かへ、手を伸ばすことはできる。
そしてきっと、自分自身にも。
三浦は青空を見上げた。
入道雲が、ゆっくり形を変えていた。
――了




