爪とぎ
プライバシー保護のため、登場人物の容姿は実際のものとは異なります。
学校の宿題。
家に帰ったら手洗いうがいをしてすぐにノートを開けば、夕飯までには終わる計算だ。
ただ、それは計算でしかない。
人生において、常に計画が予定通りに進むとは限らない。
実際、私の夏休みの宿題が計画通りに終わった例はない。なんとも悩ましい問題だ。
私の家にはそれは愛らしい子猫がいた。
否、少し前まで子猫だった気がするがいつの間にか大きくなり、最近では更にヤンチャが増してきている。
この白い靴下を履いた黒い毛玉は、近頃祖父のソファーがお気に入りだ。
居間に鎮座するそのソファーはフワフワの布製のもので、水平に細かく凹凸のあるラインが入っており、我が愛猫の愛着は並々ならぬものがあった。
主に爪とぎとしてだが。
そもそも彼には、他にお気に入りの爪とぎがある。
しかし、彼はこちらの顔をチラリと見やると、これみよがしにそのソファーで悠々と爪をとぐのだ。
どうやらソファーで爪とぎをすると、飼い主たちが構いにくると学習してしまったらしい。
なんとも賢い猫である。
猫は、私が学校から帰り居間のローテーブルに宿題を広げると、徐ろにソファーで爪とぎを始めるのだ。
「そこで爪といだらダメだよ?」
声を掛けると一旦は止めるのだが、しかし、直ぐにガリガリ、ボリボリとソレは再開される。
「そこで爪といだらダメだよ?」
ピタリ。
ガリガリ、ボリボリ。
「そこで爪といだらダメだよ?」
ピタリ。
ガリガリ、ボリボリ。
「そこで爪といだらダメだよ?」
ピタリ。
ガリガリ、ボリボリ。
コレは私が彼のお気に入りの猫じゃらしを手に取るまで繰り返されるのだ。
右手に鉛筆、左手に猫じゃらし。
左手で突進して来る愛猫をいなしながら、右手で漢字の書き取りをする。なかなかに高度なテクニックを要するのだが、それ故にいつの間にか右手はお留守になり、白熱した猫じゃらしタイムが始まるのだ。
そうこうするうちに夕食の時間となり、私は落雷にみまわれる。
コレが、私の愛すべき日常のルーティンだった。
その日も、私が居間で宿題を始めると、猫はソファーで爪とぎを始めた。
ガリガリ、ボリボリ。
どうやら隠れて私の様子を伺っているらしい。
「そこで爪といだらダメだよ?」
ピタリ。
ガリガリ、ボリボリ。
「そこで爪といだらダメだよ?」
ピタリ。
ガリガリ、ボリボリ。
私はいつものように猫じゃらしを左手で振り始めた。
ピタリ。
ガリガリ、ボリボリ。
今日は何だかノリが悪いな?
「そこで爪といだらダメだよ?」
ピタリ。
ガリガリ、ボリボリ。
「そこで爪といだらダメだよ?」
ピタリ。
ガリガリ、ボリボリ。
少し本気で猫じゃらしを振ってあげるかな?
「ほら、こっちだよ」
ピタリ。
ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。
「ほらほら、こっちこっち」
ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。
何かがおかしい。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
私は鉛筆を置くと、ソファーに近づいた。
「コラ、そこで爪といだらダメだよ!」
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
「あれ?いない」
ソファーをぐるりと見回したが猫の姿はない。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
「え、なんで……?」
念の為ソファーの下を覗き込んだが、やはり何も居ない。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
愛猫の影も形もないのに、ソファーを引っ掻き続けているのは、何なんだろう?
私は自分の手足が小刻みに震えていることにようやく気がついた。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
急に寒くなってきた。
なんだか息が吸い辛い。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
ふと、窓の外で祖母が庭の掃き掃除をしているのが目に入った。
ガリガリ、ボリボリ。ガリガリ、ボリボリ。
私は脱兎のごとく外に駆け出した。
「おばあちゃん、猫がっ!」
瞬間、左手に衝撃が走る。
「ああ、猫ならさっきから箒さじゃれてきてるさ」
見ると我が愛猫は、私から奪い取った猫じゃらしを誇らしげに咥えて軽快に踊っている。
今日私が家に帰る前からずっと、猫は祖母と庭掃除をしていたらしい。
それなら、あの居間で私が爪とぎを叱っていたのは、一体……。
実話です。




