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編み物好きの女子が悪役令嬢に転生したら、国を丸ごと癒やしてしまった話  作者: 南蛇井


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第9話:小さな手袋を編んでみたら

放課後。冬の匂いを含んだ風が、中庭の噴水の水面を揺らしていた。

アメリアが通りかかった時、ふと白い色が芝生の上で揺れるのが目に入る。


 しゃがんで摘み上げると、それは片方だけの小さな革手袋だった。

白い革は日差しに淡く光り、指先まで丁寧に縫い込まれている。

しかし何より目を引いたのは、内側にそっと縫われた刺繍――


 「M」


「……ミラベル様の、ですわね」


 思わず息を呑んだ。

革は柔らかく、明らかに高価なもの。こんなものを落として、気づかれないはずがない。


 周囲を見渡しても、彼女の姿はない。

誰かに渡そうかと、近くの令嬢に声をかけようとする……が、


「え、ミラベル様? わ、わたくしは無理ですわ……!」

「直接お声をかけるなど、とてもじゃないけれど……」


 生徒たちの顔はみな緊張で強ばり、距離を取る。

完璧な令嬢は、同時に“誰も近寄れない存在”でもあった。


 アメリアは、小さな革手袋を胸の前にそっと抱き上げる。

指先をなぞると、冷え切って固くなっている。


「……このままでは、手が冷えてしまいますわ」


 そう呟いた時、自分でも理由はわからなかった。

ただ返すだけでは、何か足りない気がした。


「革手袋は、冬の朝になると硬くなりますもの。

 予備があったほうが、きっと……」


 寮へ戻ったアメリアは、毛糸の籠を取り出す。

選んだのは、雪のような薄い灰色。

柔らかくて、肌に触れた時にほっとするような毛糸。


 ――たとえ使ってくれなくても。

 ――嫌われても。

 狙いでも、見返りでもなく、ただ。


 編み針が静かに動き出す。

夜更け、窓の外に白い吐息が溶ける頃、アメリアの膝の上には小さな毛糸の手袋が出来上がっていた。


アメリア(心の声)

「……寒がり、なのでしょうか?」


 答えは、渡してみなければ分からない。

でも、困っている誰かを見てしまったら――

アメリアの手は、いつだって勝手に動いてしまうのだった。


――次の朝、中庭での小さな出会いが、学園の空気をわずかに変えることに、まだ誰も気づいていない。



翌朝の廊下は、まだ冷たい空気が残っていた。

ミラベルはいつも通り、背筋を真っすぐに伸ばし、一歩一歩がまるで舞踏のように揺らぎなく進む。

彼女が歩くだけで、生徒たちの列が自然と割れ、静かな道ができる。


 その道の中央へ――

アメリアが、そっと踏み出した。


「ミラベル様」


 柔らかい声だったが、廊下に落ちると金属のように澄んで響いた。

空気が震え、周囲の視線が一斉に集まる。


「こちら、落とされましたわ」


 アメリアの手のひらには、白い小さな革手袋。

ミラベルは立ち止まり、視線だけで確認する。


「……ありがとう。それだけでよかったのに」


 淡々とした声。

感情を乗せず、礼儀だけを丁寧に並べる声音。


 しかしアメリアは、そのまま小さな包みを差し出した。


「お節介かもしれませんが……

 革は、寒いと固くなってしまいますわ。

 もし宜しければ、こちらもお使いくださいませ」


 ぱち、と包み紐を解く音。

中から現れたのは、小さな――ふわりとした毛糸の手袋。


 淡い雪のようなグレージュ。

小さな指先まできちんと編まれ、形はやさしく丸い。


 廊下の空気が、止まった。


「な……なんて図々しい……!」

「ミラベル様に、手編みを……?」

「媚びてる……媚びすぎよ……!」


 嫌味ではなく、純粋な侮蔑と震えが混ざった声。

誰もが、ミラベルが冷たく断る光景を想像した。


 しかし――


 ミラベルの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。


 アメリアの指先。

毛糸の温度。

革では守れない、柔らかさ。


 短い沈黙のあと、ミラベルは小さく息を吐いた。


「……予備、ということですわね」


「ええ。落としても、汚れても、寒い朝でも」


 ミラベルは毛糸の手袋を静かに受け取る。

その指先は、革よりも柔らかい手袋に触れた瞬間、僅かに緩んだ。


 ほんの一秒。

ほんの一瞬だけ。


――彼女の表情が、雪解けのように柔らかく見えた。


 それを見たのは、アメリアと……廊下の誰か一人。

そして、遠くの窓から覗いていた王子。


 すぐに、ミラベルの表情はいつもの氷に戻る。


「確かに、寒い朝は指先が痛みますもの。

 心得ました。ありがとう」


 それだけ言い、背を向けて歩き去る。


 残された生徒たちは誰も言葉を発せない。


 アメリアは、ただ胸の前で手を重ねて微笑む。


「……お役に立てましたなら、幸いですわ」


 彼女には知らない。

ミラベルの歩く背中を、革手袋ではなく――


毛糸の手袋をそっと握りしめている手が、小さく温もっていることを。

 ミラベルは包みを広げ、そっと中を覗いた。

柔らかい光の中で、淡い毛糸の手袋がふわりと姿を現す。


 その瞬間――

ミラベルの睫毛が、かすかに揺れた。


 氷のように整えられた表情が、ほんのわずか。

一秒にも満たないほどの隙間で、驚きに目が丸くなる。


「……手編み?」


 驚愕でも、侮蔑でもない。

ただ純粋に、知らないものを手に取ったような声音。


「はい。落とし物の代わりになればと思いまして」


 アメリアは丁寧に、けれど気負わず答える。


 廊下は凍りついたまま。

生徒たちが息を潜めて見守る。


(怒られる? 拒まれる? 突き返される?)


 けれど、ミラベルは返さない。

革手袋と毛糸の手袋を静かに見比べ、両手でそっと包む。


 そして。


「……ありがとう」


 声は驚くほど小さかった。

寒さで震えた子供のような、弱く、柔らかい音。


 その言葉が、廊下の空気を揺らす。


「……こんなに柔らかい毛糸、初めてですわ」


 周囲の令嬢たちが「え?」と声を漏らし、顔を見合わせる。


 ミラベルは革手袋と毛糸の手袋を胸に抱いた。

その唇が、ほんの一瞬――


雪解けのように、かすかに上がった。


 その小さな微笑みに気づいた者はほとんどいない。

固まった空気の中、誰も言葉を失い、動けない。


 ただ一人。


アメリアだけが、その変化を見た。


(……少し、嬉しそう?)


 答えのない疑問を胸に、アメリアはそっと礼をする。


 ミラベルは何も言わず、ただ歩き去る。

毛糸の手袋を握る手は――もう、冷たくなかった。


ミラベルが去った後も、廊下のざわめきは収まらなかった。


「ミ、ミラベル様が……笑った……?」

「見た? 見た? 一瞬だけど絶対……!」

「アメリア、ミラベル様に取り入ったんじゃ……」

「また編み物? 次は王子、次はミラベル様?」


 ささやきが火のように広がり、視線が一斉にアメリアへ注がれる。


 アメリアは慌てて両手を振った。


「ま、待ってください! 誤解ですわ、本当にただ――」


 必死に否定する声も、噂の熱にかき消されそうになる。


 その時。


 廊下の奥から、冷たい水を注ぐような静寂が降りた。


「誤解ですわね。」


 進み出たのは、当然のように背筋を伸ばしたミラベル。


 彼女の一言で、全員が息をのむ。


 ミラベルは淡々と続ける。


「彼女は下心で動いていませんわ。

 困っている人に、ただ手を差し伸べただけです。」


 その声音に怒りの色はない。

 ただ、事実を述べるだけの冷たい真っ直ぐさ。


 令嬢たちは顔を見合わせ、動けない。


 そして追い打ちのように、ミラベルはほんの僅かだけ視線を鋭くする。


「そういう人を妬む方こそ――もっと下品ですわ。」


 廊下の空気がひやりと震えた。


 令嬢たちは息を止め、小さく悲鳴を飲み込み、

 冷や汗を垂らしながら視線をそらす。


「……っ、申し訳ございません……」

「その、悪気は……」


 誰も、ミラベルの前では嘘を言えない。


 アメリアはただ呆然と立ち尽くしていた。

まさか、自分を庇う言葉がこの人の口から出るとは思っていなかった。


 ミラベルはそれ以上何も言わず、踵を返し歩き出す。


 その背中は、やはり孤高で、完璧で、近づきがたい。


 ――けれど。


 アメリアは気づいてしまった。


 ほんの一瞬、ミラベルの指先が

毛糸の手袋を、また少し強く握りしめたことに。


昼休みの大食堂。

 貴族の子女たちが優雅に笑い、静かな楽団の調べが流れる中でも――

 ミラベルはいつも通り、完璧な氷像のような表情で食事を進めていた。


 姿勢は端正、指先の動きまで優雅。

 一切の隙も感情も見せない。

 周囲が勝手に距離を置き、勝手に憧れるほどの、完璧な孤高さ。


 けれど。


 テーブルの下――誰の視線も届かない場所で。


 ミラベルの左手には、淡い色の毛糸の手袋がはめられていた。


 ぎゅ、と軽く握ると、ふわりと柔らかな温もりが掌に広がる。


(……指先が、痛くない)


 冷たい革と違い、毛糸は体温を抱きしめてくれる。

 それが思った以上に、心地よかった。


 ミラベルはわずかに視線を落とす。


 毛糸の色は、アメリアの瞳と同じ、淡く優しい色。


(……あの人に、見せてもらう価値はあるわ)


 それは誰にも聞こえない、凍った心の奥の独白。


 ――そしてその瞬間。


 大食堂の柱の影で、誰かがそっと覗き見ていた。


 第一王子。


 彼は自分の口元を指で隠しながら、小さく笑う。


「また、面白いことになってきた」


 ミラベルは気づかない。

 アメリアもまだ知らない。


 王子が、二人の行く末を興味深く見守っていることに。


 ――学園の静かな昼休みは、波風が立つ前の前触れだった。



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