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編み物好きの女子が悪役令嬢に転生したら、国を丸ごと癒やしてしまった話  作者: 南蛇井


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第7話:王族の視線と、黒い妬み

朝の空気はまだ冷たく、吐く息が白く揺れた。

アメリア・ファルネーゼは、いつも通り丁寧に制服のリボンを整え、学園の門をくぐる。

だが――今日だけは、足音に合わせて別の気配がついてくる。


視線。


廊下に踏み入れた瞬間、耳に刺さるようなささやきが波紋のように広がった。


「あれが噂の公爵令嬢よ」

「魔法も使わず、人を眠らせたって……?」

「怪しいよな、でも効果はあるらしいぞ」


アメリアは足を止めず、背筋を伸ばしたまま歩く。

微笑は崩さない。けれど、どこかぎこちない。


(……不思議なことでしてよ。編んだだけなのに)


教室へ向かう途中、すれ違う生徒ほど距離を取る。

視線は好奇と警戒、そのどちらでもあり、どちらでもない。

アメリアが振り返ると、さっと目を逸らされる。


ひと息ついて、彼女は小さく苦笑した。


「わたくし、本当に何もしておりませんのに。よく分かりませんわ……」


その声は誰に届くでもなく、ただ静かな朝に溶けていった。

それでも彼女は歩みを止めない。

編み針も、毛糸も、奇跡も――アメリアはまだ、自分が何を撒き始めたのかを知らないままだった。


「では次に――魔力循環理論の応用について、教科書四十二ページを開くように」


静かな座学の時間。

教室には紙のめくれる音と、ペン先が走るささやきだけが響く。

アメリアもまた例外ではなく、淡々とノートに文字を写していた。


――そのとき。


「公爵令嬢、少しよろしいか」


教室の空気が止まった。


呼びかけたのは、クレスト王国第一王子、リオネル・クレスト。

金色の髪に紅玉の瞳、立っているだけで周囲の空気を支配する存在。

普段、滅多に誰か一人を名指しすることなどない。


アメリアは静かに顔を上げた。

「はい、殿下」


王子は、黒板越しではなく、真正面から彼女を見つめて問う。


「例の“寝帽子”の噂を聞いた。

 眠れなかった子供が、即座に眠りについたと。

 あれは……どんな仕組みなのだ?」


教室がざわつきかけ、すぐに息を呑むように静まり返る。

王子が、名指しで、誰かに質問を投げた――それだけで空気は変わる。


アメリアは、驚いた素振りもなく、普段どおり優雅に答えた。


「仕組みなど、大層なものはありませんわ。

 ただ編んだだけですの。魔法は使っておりません」


淡い微笑、柔らかな声音。

それは“特別視されていることを理解していない”返しだった。


教室の後方で、一人の少女が肩を震わせる。

王子の幼なじみ――ヒロインであり、聖女候補のエリーナ。

いつもなら、王子が声をかける相手は彼女か、せいぜい教師。

まして、授業中に他の令嬢へ話しかけるなど――前代未聞。


周囲の令嬢たちは、扇子の陰で息を潜め、心の底で囁く。


(殿下が……アメリア様とだけ、会話……?)

(そんなの、ゲームにない……!)

(どうしてあの悪役令嬢が……?)


嫉妬の熱が、ひそやかに教室に充満していく。

そして、王子の瞳には奇妙な光――まるで“関心”という名の火種が宿り始めていた。


王子が視線を逸らすことなく、アメリアを見つめていた。

問いかけはただ一度――それだけのはずなのに、

教室の空気は、まるで透明な針をばらまいたように痛い。


アメリアは、普段と変わらぬ穏やかな表情でノートに視線を戻す。

優雅に、静かに、動じない。


だが――動揺していたのは、周囲の令嬢たちだった。


「……見た?」

「殿下の声、柔らかかったわよね?」

「アメリア様にだけ、あんな……」


扇子の陰から、刺すような視線が突き刺さる。


「どうして、聖女候補の横で平然としていられるの?」

「控えめに振る舞うべきではなくて?」

「公爵家って……そこまで特権があると思っているのかしら」


声は小さい。

しかし、冷気のようにアメリアの背に絡みつく。


エリーナは、王子とアメリアの間を見つめて俯いた。

彼女の周りにも、張り詰めた空気が流れる。


――まだ、直接的な嫌がらせはない。

――まだ、誰も行動には移さない。


けれど、教室の色が変わった。

ほんの数日前まで温かかった学園が、じわりと黒い影を落とし始める。


嫉妬は静かに、けれど確実に芽吹いた。

音もなく、冷たく、絡みつく蔦のように――。

昼の食堂は、いつも通り賑やかだった。

銀の皿が触れ合う音、談笑、パンをちぎる匂い。

それは“いつもの学園”のはずだった。


――ただ、王子が立ち上がるまでは。


第一王子ライアスは、いつもの席を離れた。

隣には、控えめに座る聖女候補のヒロイン、エリーナ。

いつもなら、彼女と談笑して過ごす穏やかな昼休みのはず。


けれどその日は違った。


エリーナの横をすり抜け、まっすぐアメリアの席へ。


食堂全体が、ひゅ、と息を呑んだように静まる。


「公爵令嬢」


アメリアはスープを持つ手を止め、ゆっくり顔を上げた。


「殿下?」


「お前の編み物の技、国の医師団が聞けば興味を示すだろう」


さらりと、しかし明確に。

その声は遠くの席にもよく響いた。


アメリアは眉を下げ、苦笑する。


「技などと呼ぶほど立派なものではありませんわ。

 本当に、ただの編み物ですのに」


「“普通”の編み物で、人が眠れるのか?」


王子の瞳が細められる。

興味――では足りない。

もっと深い、理屈を超えた「納得のいかない好奇心」。


「私は聞いたことがない。

 魔法でも薬でもなく、毛糸で眠りが訪れるなど――面白いな」


その瞬間、食堂全体が止まった。


パンを口に運びかけた令嬢が固まり、

フォークを持ったまま王子とアメリアを交互に見つめる生徒、

胸に手を当てて息を呑む者までいる。


そして――決定的だった。


王子は、一度もエリーナを見ていない。


「……」


エリーナの手が膝の上でぎゅっと握られる。

周囲の令嬢たちの表情が、静かに、確実に変わっていく。


「どうして……ヒロインを見ないの?」

「相手が公爵令嬢だから?」

「まさか、心が動いた?」


囁きは、毒のように空気へ溶け込んでゆく。


アメリアは、気づかないまま微笑んだ。


「殿下がそう仰るなら……嬉しいことでございますわ」


だがその笑みさえ、火に油だった。


嫉妬は、もう静かではいられなかった。


沈黙は静かな刃だった。

王子が去ったあとも、食堂の空気は戻らない。


最初に動いたのは、ヒソヒソ声。


――しかし、それは“あえて”聞こえるように。


「聖女候補より目立って、どうするつもりかしら」

「王子に話しかけられて……調子に乗っているんじゃなくて?」

「やっぱり、公爵令嬢って殿方を誘うのが上手なのね」


一語一句が、耳に届く距離。

けれど誰ひとり、真正面から言わない。


アメリアはスプーンをそっと置き、軽く笑みを浮かべる。


「少し、外の空気を吸ってまいりますわ」


声は柔らかい。

ただし、反論はしない。言い訳もしない。


――公爵家の娘としての矜持が、口を閉ざさせる。


(言い返したら、同じ土俵に立ってしまいますわね)


椅子を引く音が妙に大きく響く。

数えきれない視線を背に受けながら、アメリアは静かに席を立つ。


ヒソヒソ。


ヒソヒソヒソ。


「第一王子の“興味”を奪うなんて」

「聖女候補の顔、見た?」

「これ、ただじゃすまないわよ……」


まるで、見えない糸で足を絡められるような空気。


この日――学園という舞台は、アメリアを中心に黒く蠢き始めた。


廊下の空気はひんやりとしていた。

食堂のざわめきから逃げ出したはずなのに――

壁の影が、まだ心に絡みつく。


カツン、と靴音。

アメリアが振り返るより早く、銀の徽章が目に入った。


王子付きの側近、クライス。

王族の盾であり、刃でもある青年だ。


「公爵令嬢アメリア。少し、よろしいか」


声は丁寧。

だが、その下にあるものは柔らかくなかった。


「殿下は……“面白いもの”を好まれるお方だ」


アメリアはまばたきもせず、黙って耳を傾ける。


クライスは続けた。


「だが、面白いものは――飽きられるのも速い」


廊下を吹く風が、冷たさを増したように感じられた。


「あなたが殿下の興味を弄ぶ気がないことを、祈るよ」


まるで、優しさの仮面をかぶった警告。


アメリアは、静かにスカートの裾をつまみ、完璧な礼を返した。


「勿論ですわ。

 わたくしはただ……編んでいるだけですもの」


皮肉も、反発も、震えもなく。


ただ、気品だけを置いてアメリアは歩き出す。


背後でクライスが小さく息を吐いた。


――その姿こそ“火種”になると、気づきもしないまま。


放課後の校庭。

傾いた日差しが、芝生の上に長い影を落としていた。


アメリアはベンチで毛糸をしまいながら、ひとつため息を落とす。

誰にも聞こえないように、小さく、静かに。


その隣で、エリーナ――聖女候補の少女がそっと口を開いた。


「……アメリアさん、ごめんなさい」


アメリアは瞬きをして、首を傾げる。


「何を謝ることがありますの?」


「わたしがもっと……ちゃんとしていれば……

 皆が、あなたを見て嫌なことを言わなくて済んだかもしれないのに」


エリーナの声は震えていた。

彼女は誰より周囲の空気に敏感で、優しい子だ。

誰かが傷つくと、それを自分の責任のように抱え込む。


アメリアは、そっと笑ってみせる。


「あなたのせいではありませんわ。

 全部、毛糸のせいですもの」


冗談めかして言ったはずなのに、笑顔は少しだけ疲れていた。


エリーナは気づいてしまう。


――本当に、無理をして笑っている。


胸が、ぎゅっと痛む。


心の奥で、初めて芽生えた感情。


「(王子に見てもらいたいのは……本当は、わたしなのに)」


けれど、声に出すことはできない。

そんなことを言えば、アメリアを傷つけてしまう。


だから彼女はただ、アメリアの横顔を見つめるだけだった。


夕焼けに照らされて、毛糸の束がほんのり暖かい色に光る。

その光景が、エリーナの胸を苦しくさせた。


――優しい悪役令嬢。

――それが、彼女を追い詰めるなんて。


物語は、誰も知らない方向へと、静かに転がり始めていた。


放課後の通学路。

講義棟から寮へと続く並木道は、夕暮れの風に揺れ、学生たちの笑い声が遠くに消えていく。


アメリアは肩にかけたバッグを少し持ち直し、静かに歩いていた。

一日が終わったはずなのに、胸は重い。

いつもより、足取りが遅い。


その背後。


わざと聞かせるような、抑えた囁き声。


「ねえ、聞いた?」

「公爵令嬢、王子に近づくために“不眠の子”を利用したんだって」


アメリアは足を止められない。

止まれば、崩れ落ちてしまいそうだった。


「怖いわよね。毛糸を使って、人の弱みを……」


ザクリ、と靴の音が強く鳴った。


胸の奥で何かがきしむ。


反論したい。

否定したい。

でも――貴族の誇りが、それを許さない。


ただ前を向いて歩く。

それだけが、今できるすべて。


その時。


アメリアの指先に抱えた毛糸玉が、ふっと淡い光を放った。

柔らかく、温かく、ほんの一瞬だけ。


彼女は気づかない。

ただ、疲れた心が揺れただけだと思った。


(誰かを助けただけですのに……

 どうして、こんな噂に)


小さく噛みしめた唇。

笑わず、泣かず、ただ歩く。


そして――彼女は知らなかった。


高い校舎の窓。

影の落ちる最上階から、ひとりの青年がその背中を見つめていた。


第一王子の視線は、獲物を見極めるように鋭い。


「……今の光」


薄く笑うでもなく、表情も動かさないまま、低く呟く。


「やはり、普通ではないな」


夕闇が、ゆっくりと学園を包み込む。


アメリアはそれを知らぬまま、寮への階段を上っていった。

ただ静かに――噂と誤解の渦の中心へと。



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