第40話:エピローグ ― 世界を変えた小さな針
それから、季節がひとつ巡った。
王都は今、柔らかな陽光に包まれ、どこか甘い空気が漂っていた。街を歩けば、子どもたちが色とりどりの毛糸を手に笑い合い、店先では編み物の小物が新しい名物として並んでいる。静かに根づき始めた“編み物文化”は、この国をやさしく染め上げつつあった。
アメリアは王宮の離れにある作業室で、ふわりとした糸束を抱えながら小さく息をつく。
――まさか、自分の糸が王族の婚礼に使われるなんて。
胸の奥が、まだ少しだけくすぐったい。
王宮ではいま、ミラベルとアルベルト王子の結婚準備が着々と進んでいた。大広間では装飾が運び込まれ、廊下では侍女たちが慌ただしく行き交っている。そんな慌ただしさの中で、アメリアは落ち着いた声音の侍従から依頼を告げられた。
「婚礼衣装と会場装飾に、アメリア様の“柔らかな糸”をお借りしたいとのことです」
信じられなくて一瞬固まったが、もちろん断る理由なんてなかった。
ただ、嬉しさを抱えきれずに耳まで赤くなっただけだ。
アメリアの日々は、まるで春の毛布のように静かで、やわらかに満ちていた。
学園では、休み時間になるたびに生徒たちが小さな輪をつくり、アメリアが教えた「アメリア編み」を競うように練習している。
「見てアメリア様! 昨日よりうまくできました!」
そんな声に囲まれ、彼女は驚きながらも嬉しそうに微笑むのが常だった。
街に降りれば、騎士団の若い騎士たちが胸元の“お守りの編み紐”を見せてくれる。
「これ、アメリアさんの手順で編んだんだ。いざというとき心が落ち着くんだよ」
たどたどしく編まれた紐は、どれも不揃いなのに、不思議と温かさを帯びている。
孤児院ではもっと賑やかだった。
「アメリアねえちゃーん! 見て見て、ぼくも編めた!」
「ちょっと曲がっちゃったけど、これお守りになるかな?」
子どもたちが細い指で懸命に糸を操り、失敗しても笑い合う。
そのたびにアメリアは、涙がこぼれそうになるほど胸が温かくなる。
そして療養院。
静かな病室で、彼女の編んだひざ掛けが患者の膝を包んでいた。
色褪せることなく、まるでずっと寄り添い続けてきたかのように。
「アメリアちゃんのひざ掛け、あったかいねぇ……」
老婦人の柔らかな声が、アメリアの心までもそっと癒した。
(……なんだか、嘘みたい)
(こんなに毎日があったかいなんて)
あの日まで胸を締めつけていた“未来への恐れ”は、もう深い影を落とさない。
それは、アメリア自身が変わったからではない。
――彼女が触れ続けてきた周囲の優しさが、いつの間にか彼女の中に温かな灯を育てていたからだ。
今日も明日も、ただ誰かのために糸を紡ぎたい。
その想いが、彼女の日常をそっと輝かせていた。
その日は、工房に春の陽だまりのような静けさが満ちていた。
アメリアが糸を選びながら humming していると、入口の扉が軽くノックされる。
「アメリア、いる?」
明るい声とともに姿を見せたのはミラベル。そして隣には、いつも穏やかな微笑を浮かべたアルベルト王子。
アメリアは驚いて目を瞬かせた。ふたりがわざわざ工房まで来るなど、滅多にないことだった。
「お、お二人とも……! どうしたんですか?」
ミラベルは返事の代わりのように、まっすぐアメリアへ駆け寄ってくる。
その瞳には、迷いのない温かさが宿っていた。
「アメリア。お願いがあるの」
そう言って、彼女は王子を見上げた。
アルベルトは小さく頷き、アメリアに向き直る。
「結婚式の……最後の仕上げを、君に頼みたい」
「え……?」
「私たちが結ばれるきっかけをつくってくれたのは、アメリアだもの」
ミラベルがにっこりと続ける。
「だからね、式で使う“誓いの布”を……あなたの手で編んでほしいの」
誓いの布。
新郎新婦が式の終わりに互いの手を包む、小さな小さな布。
その模様ひとつで、「永遠」を意味することも、「幸運」を願うこともできる。
本来なら宮廷織士がつくる格式高い品だ。
それを――自分に?
アメリアは言葉を失い、目を伏せると、胸の奥からあふれそうな熱を必死で堪える。
喉がきゅっと詰まり、指先が震える。
「そ、そんな……わたしなんかで……」
声がかすれてしまう。
「“君だから”なんだ」
アルベルトの声が静かに重なる。
「君の糸は、人を守る。
そして君は……ミラベルの幸せを心から願ってくれている。
そんな想いを込めた布で、門出を迎えたい」
ミラベルも微笑む。
「あなたの温かさで、わたしたちは結ばれたのよ?」
アメリアは顔を覆いそうになるほど胸がいっぱいになった。
こんな未来が来るなんて、昔の自分には想像もできなかった。
(……本当に、わたしに……そんな大事な役目が……?)
涙が今にもこぼれそうになりながら、アメリアはそっと棚に手を伸ばす。
指先が自然に選んだのは、淡い光を含むような優しい色の糸。
(うん……この糸なら、きっとふたりを包める。
幸せを……守れる)
胸にそっと手を当て、アメリアは深く頷いた。
「……わたしに、編ませてください。
ふたりの未来を結ぶ……いちばんあったかい布を」
結婚式の朝。
王都は、まるで花そのものが息づいているかのように明るく華やいでいた。
道ゆく人々は皆、どこかしらに“アメリア編み”の小物を身につけている。
淡い色の手袋、やわらかな編み紐、控えめに輝く銀糸のブローチ……。
それは、祝福の印であり――アメリアへの感謝の証でもあった。
王宮の大広間はいつも以上に眩しく、そして優しい。
今日は戦いも競争もない。
ただ、ひとつの愛が世界に知らしめられる日。
参列者が見守る中、誓いの儀式が始まった。
ミラベルとアルベルト王子が互いの手をそっと差し出す。
その手を包むように置かれたのは――アメリアが夜遅くまで心を込めて編んだ、小さな誓いの布。
淡い光を帯びたその布は、ふたりの指先に寄り添うように柔らかく、まるで未来を優しく結んでいくかのようだった。
「……アメリアが紡いでくれた糸のおかげで、ここまで来られたの」
ミラベルが布に指を触れ、小さく微笑む。
王子もゆっくりと頷き、アメリアへ視線を向ける。
「君の優しさは、この国の行く末を変えてくれた。
ありがとう……アメリア嬢」
アメリアは、胸に熱が込み上げるのを感じながら首を横に振った。
彼女の目は、涙をこらえるように揺れている。
「わたしは……ただ、誰かを包みたかっただけです。
優しいものを、渡したかっただけで……」
その言葉が会場に落ちた瞬間、
ふわりと、空気が温かく揺れた。
まるで、春の風がその言葉を抱きしめたかのように。
参列者たちは静かに息を吸い、その優しさに満ちた一言が胸に沁みていく。
アメリアが紡いできた小さな針と糸は、いつしか人の心を繋ぎ、国の未来をも染め上げていた。
そしてその中心にいる少女は、ただ静かに微笑むだけだった。
――彼女が望んだのは、誰かの手を温めること。
その小さな願いが、この世界を、大きく変えていた。
結婚式の余韻がまだ王宮を満たしていた頃。
アメリアはそっと自分の工房へ戻った。
扉を閉めると、外の喧騒がふっと遠のき、
そこには、いつもと変わらない静けさがあった。
柔らかな午後の光が窓から差し込み、
棚に並んだ糸や、作りかけの作品を金色に照らしている。
アメリアはその光のなかに歩み寄り、
一筋の糸を指先でつまんだ。
暖かい。
ただの羊毛なのに、指に触れるだけで胸の奥がじんわりする。
「……あたたかさって、弱いものじゃないんだね」
ぽつりと零れた言葉は、工房の空気に静かに溶けていく。
人を助けた。
未来を変えた。
国すら動かした。
それらはすべて戦いでも魔法でもなく、
ただの“小さな編み物”から広がった奇跡だった。
アメリアは、そっと糸を胸に抱き寄せるようにして微笑む。
「だから、わたしはこれからも……
あたたかい糸を紡ぎ続ける。
誰かの心に触れられるように」
それは決意というより、祈りに近い。
そしてもう揺らぐことのない――彼女自身の“生き方”。
静かな工房に、糸車が軽やかに回り始める。
その音はまるで、未来へ続く道を紡ぐ鼓動のように、温かく響いた。
あれから時が経ち、王都の景色は少しだけ変わった。
いや――変わったのは景色ではなく、そこに生きる人々の心だ。
街のあちこちに、色とりどりの毛糸が並ぶ店が増えた。
広場では子どもたちが、アメリアの真似をして編み棒を握り、
騎士たちは練習の合間に“お守りの編み紐”を結び合う。
貴婦人たちは新しい編み模様を語り、
庶民たちは夜の家々で、家族と共に肩を寄せて編み針を動かす。
それは誰が広めた文化なのか、もう説明はいらない。
人々の笑顔がその答えだった。
そして――王宮では。
ミラベルとアルベルト王子が、穏やかな統治を始めていた。
争いを遠ざけ、人の温かさを中心とした政治。
それは、アメリアが紡いだ糸の延長線上にある優しい未来だった。
そのそばでアメリアは、特別な地位を求めることなく、
ただ静かに、自分のできることを続けていた。
糸を紡ぎ、誰かを包み、心を温める。
その行為が世界を少しずつ変えていくことを、
彼女はもう、知っている。
窓の外から、子どもたちの笑い声が聞こえる。
アメリアはそっと編み針を止め、その音に耳を傾けた。
――大きな剣ではなく、
ひとつの小さな針が、世界を変えることがある。
そしてアメリアの物語は、静かに、温かく幕を閉じる。
“あたたかさは力になる”
それを証明した少女の、
優しい――ほんとうに優しい物語だった。
「アメリア!」
勢いよく扉を開けて飛び込んできたのは、幸せの光そのもののようなミラベルだった。純白の仮縫い衣装に身を包み、頬を桜色に染めた彼女は、かつてよりずっと綺麗に見えた。
「見て! この衣装に、あなたの糸をあしらったら絶対素敵だと思うの!」
ミラベルはアメリアの手を取り、自分の胸元へとそっと触れさせる。そこには試しに縫い込まれた、淡い空色の刺繍糸が光を受けて輝いていた。
「だってアメリアの糸じゃなきゃ、落ち着かないの。私たちの門出なんだもの」
「ミラベル……」
言葉が、うまく出てこない。
ただ、胸の奥がじんと温かくなるだけで。
ふたりの笑顔は、世界のどんな光よりも優しくて、どんな編み物よりもぬくもりを帯びているように見えた。
アメリアは自然と頬をゆるませながら、心の中で小さく呟く。
――こんな未来が来るなんて、思ってなかったよ。
この幸せな日々を、ただ大切に編み続けたい。
そう思わずにはいられなかった。




